38軍、27軍、63軍は幽霊部隊ではなかった

『蒼蒼』37号、91年4月、逆耳順耳

『正論』編集部からWG生「天安門兵士は語る/私は人民に銃口を向け、そして乱射した」(同誌91年2月号)を頂戴した。早速目を通すと、「広場を鎮圧したのは、27軍ではなく、──63軍であった」「天安門で死亡した劉国庚(共和国衛士)は63軍所属の188師団の参謀であった」などと書いてある。内容は無署名氏「紀実文学・与天安門清場軍人同車」(香港『九十年代』91年1期)の日本語訳である。

共和国衛士劉国庚が63軍所属であったとする指摘は、私の推定と同じである(『天安門事件の真相』上巻177頁)。この文が鎮圧部隊の主力が27軍であったとする俗説を否定していることには私も共感するが、63軍を強調するあまり、38軍の存在が無視されているのは気になる(たとえば、この記事に基づいて図解した『正論』83頁の地図のどこにも38軍は見当たらない)。主力部隊西線の先頭部隊が群衆の壁を突破するために激しく発砲した経緯を私は詳しく分析したが、この先頭部隊は明らかに38軍であった(『天安門事件の真相』上巻171〜177頁)。なぜ「38軍善玉、27軍悪玉」説が広範に流布されたのかについての私の分析は『天安門事件の真相』上巻202頁に書いた。私がこのように腰を据えて分析したのは、『クャイナ・クライシス重要文献』の編集を終えた89年秋以降のことだが、研究のきっかけとなったのは、実は平松茂雄氏(現杏林大学教授、前防衛庁防衛研究所)および中嶋嶺雄氏(東京外国語大学教授)との論争である。われわれ3人は天安門事件直後の6月10日読売新聞社で座談会を行った(6月11日付)。その席上、私の「27軍・38軍対立説」に対して、平松教授が「本来はそういう部隊はないはず」と言下にこれを否定し、中嶋教授も平松説にほぼ同調した(ここで年のために書いておきますが、掲載されたものは記者グループによる「要旨筆記」である。時間と紙幅の制約のため、応答が正確に再現されているわけではない)。平松氏は当時、「中国の政変と中国軍」(『国防』89年7月号)を書いて、大いに話題を賑わした。同論文第三節「38軍と27軍」(17〜19頁)から、関連箇所を引用しておきたい。

1「今回の政変は色々な点で筆者にとり衝撃的な出来事が多かったが、最も衝撃的であった出来事は、 存在しないはずの38軍とか27軍といった類の部隊が出現したことであった。もっとも、そのような部隊が出動したという情報そのものの信憑性にも問題がないわけではないが」(傍線は矢吹、以下同じ)。

「38軍とか27軍とかいった類の部隊は、国共内戦期に4つの野戦軍に編成された部隊の最高単位である。(中略)38軍(保定)は39軍(営口)とともにそのテスト部隊とみられた部隊であり、現在では第一集団軍に成長しているはずである。」

2「38軍はもはや存在せず、第一集団軍に改造されたとみていた。それだけに38軍が出現したとの報道に、いいようのない衝撃を受けたのである。38軍が出現したという報道が正しければ、第一集団軍なる部隊は存在しないことになり、ケ小平の軍事改革そのものが進んでいないことになる。しかし、筆者はこれらの報道の信頼性に疑問をもっている。同じことは27軍についてもいえる」。

3「ところで『動乱』が一段落した6月16日、天安門広場が内外記者団に公開された。記者団を招待し、説明を行ったのは、38軍であると公表された。これにより、38軍という部隊の存在することが明瞭となったのであるが、この軍と合成集団軍とはどのような関係にあるのであろうか。それとも、この部隊は正規軍ではなく、北京衛戍区の部隊であろうか。この部隊が5月20日の戒厳令で出動し、さらに6月4日学生・市民を殺戮したのであろうか。疑問は依然として解けない」。平松氏の当時の見解(あるいはは疑問)は明らかであろう。平松氏はその後、86〜90年に書いた論文をまとめて『ケ小平の軍事改革』『続・ケ小平の軍事改革』(ともに勁草書房、89年10月、90年12月)を出版した。話題の論文は前者に収められている。しかし、第三節はほぼ全文削除され、雑誌の第四節が論文集では第三節に繰上げられている。

こうした「訂正」を経て、残された関連情報は以下のごとくである。

4「彼〔秦基偉を指す〕はケ小平の軍事改革で、合成集団軍の編成という最も重要な仕事を担当し、そのテスト部隊である38軍の合成集団軍への改造を実質的に指導してきたと・閧ウれる」(『ケ小平の軍事改革』253頁)。

5「この部隊は第38軍で、同軍はケ小平の軍事改革の核心をなす合成集団軍のテスト部隊であり、それを指導したのは当時北京軍区司令員で現国防部長の秦基偉であったから、先に触れた秦基偉は「趙紫陽反革命集団の一員」であったという情報が正しければ、戒厳部隊が『動乱』を積極的に制圧しなかったことも少しもおかしなことではなくなってくる」(同上、257頁)。

6「武力鎮圧を最初に出動した部隊とは別の部隊により実施されたと考えられるが、それがいわれているように第27軍であったかどうかについてはわからない。著者はそのような問題にはあまり関心がない」(同上、259頁)。

7「学生・市民を武力鎮圧した後の混沌した状況のなかで、武力鎮圧を行った部隊(第27軍といわれる)と鎮圧に反対する部隊(第38軍といわれる)との間に戦闘が生起したとか、両部隊を支援するために各大軍区から部隊が到着しているとか、混乱は地方にまで拡大し、地方で軍隊の衝突が起こっているとかいった情報が乱れ飛んだ」(同上、261頁)。

6のように、「著者はあまり関心がない」と言われると、肩透かしをくった感じを否めない。書名が『ケ小平の軍事改革』であり、天安門事件前後の解放軍を研究対象とした本なのに。また「混乱した状況のなかで」「情報が乱れ飛んだ」と突き放すだけでよいのでしょうか。その実態を分析する必要がないのでしょうか。どうにも納得がいきません。雑誌論文を単行本に収めるに際して、削除や加筆訂正することは当然であり、私もしばしば行っている。「過ちを改めるに憚るなかれ」は正しい。ただし、何をどのように新たメカのかについての説明が必要ではないか。平松氏の著書や論文に依拠して私の説を批判する声がしばしば聞こえたので、敢えて書きとめておく次第である。

私自身は事件当時の誤った判断への自己批判も込めて、事件前後に「切片が半分しか与えられていないジグソーパズルを解くような」悪戦苦闘を半年続けて、どうにか38軍、27軍問題を私なりに解決したつもりである(『真相』上巻)。

その直後のことである。わが目を疑うような証拠写真が現れたのは! 写真集『北京風波真相』(香港広角鏡出版社、90年2月)の75頁をご覧下さい(『真相』下巻19頁にこの写真の一部を縮小して転載した)。ここには北京軍区司令員周衣冰中将が李鵬に向かって「戒厳部隊の任務執行状況」を説明するカラー写真が鮮明に印刷されてある。この北京市大地図のなかに「38集団軍、27集団軍、65集団軍、24集団軍、39集団軍」の文字を読み取ることができますよ(カゲの声。この証拠写真を発見したときの誰かの喜びようはたいへんなもの)。

この一枚だけからでも分かるように、『北京風波真相』というのは実際スゴイ写真集です。なぜか。軍属カメラマンが戒厳部隊の側、権力の側から写しているためでしょう。天安門事件の写真集は大量にありますが、そのほとんどすべてはデモ隊や民衆側からの視角に限定されているのに対して、これはその対極から写しているのです。

168頁開いてみましょう。テレビでチラッとだけ写った例の楕円形テーブルに、李鵬ら現役政治局常務委員とケ小平、彭真、李先念など長老が同席した写真があります。日付は「89年6月21日」、タイトル説明は「政治局拡大会議で趙紫陽は多くの政治局委員と元老たちから批判を受けた」とあります。可愛そうな趙紫陽同志よ、いずこに? 後ろ姿で髪の薄い人物が拍手している。いましたねと落ち着いて右を見ると、髪の濃いのは胡啓立ですね。と一人一人氏名を特定していくと楕円形テーブルの大物18人がすべて解読できました(村田忠禧著『チャイナクライシス動乱日誌』15頁参照)。まさに「趙紫陽断罪の図」であり、「趙紫陽、最後の弁明」(『重要文献』3巻所収)の場でありました。

蛇足。この写真集の157頁にこう書いてあります。「遅浩田は自分が楊尚昆の女婿である。ことをきっぱり否定した。彼は夫人姜青萍と57年に結婚した。夫人は江蘇省金土覃県の人で、四川人ではない。岳父は教育者であり、軍人ではない」と。平松氏の本には239頁、252頁に「遅浩田は楊尚昆の女婿説」が書かれています。私も一時は、この女婿説をしゃべったことがありますが、89年夏に改めました。そしてこの写真説明で夫人の本名を確認した次第。

最近の湾岸戦争において、軍事評論家諸氏の分析能力が話題になったが、天安門事件のような政治劇の同時中継的分析においては、事実認識の誤謬、分析の誤謬は避けがたい。何を根拠としてどのような判断を下したのか、その判断は事後の検証においてどのように評価できるのか。天安門事件はチャイナ・ウォッチングあるいはペキノロジーの試金石であった。

蛇足その2(1996年10月)

96年7月に出版した『中国人民解放軍』(講談社、選書メチエ)において、前述の『北京風波真相』から写真の転載許可を得ようとして折衝したが、原出版社(北京)からの許可を得られなかった。なお、香港『広角鏡』版は、いわば公認の海賊版であった。