漫画家、吉富昭仁先生。2度に渡りアニメ化された『EAT-MAN』で頭角を現し、その確かな筆力と毎回のストーリーをきっちりとまとめきる構成力によって、25年近くに渡り漫画界を渡り歩いてきた。近年では、百合やTS(トランス・セクシャル)ものまで手がけるなど、その活動は多岐に渡る。今回はそんな吉富先生をお招きして、これまでの四半世紀、先生の創作術、そしてこれからの四半世紀に向けてのお話を伺ってきました!

1章:漫画家続けて25年。吉富先生、自らの四半世紀を振り返る
2章:吉富先生の創作術を直撃!
3章:これまでの25年、これからの25年


漫画家続けて25年。吉富先生、自らの四半世紀を振り返る

本格的に漫画を描き始めたのはいつ頃でしょうか?

吉富昭仁先生(以下吉富)付けペンを使って描き始めたのが中学1年生の頃です。鳥山明先生が審査員を担当されている回を狙って少年ジャンプの新人賞に投稿しました。そのときは、はしにも棒にもひっかかりませんでしたけど(笑)

学生時代はどれくらいのペースで絵や漫画を描いていましたか?

吉富とにかく、何かしら毎日描いていたと思います。ノートごとにタイトルを付けて漫画を描いていて、かなりのノートが溜まっていたと記憶しています。あと、普通のノートにそのままペンを入れたりトーンを貼っていたりもしていました(笑)

トーンがキチンと貼れたのかが気になります(笑) それでは、商業でデビューすることになったきっかけを教えてください。

吉富本当に最初のデビューは、SFアンソロジーみたいな本を出されていた白夜書房という出版社に作品を投稿したときですね。特に新人の募集などは行なっていなかったと思うんですけど、とりあえず送りつけてみたんです。中学卒業の春に作品を描いて、高校に入学する頃に掲載して頂きました。

高校生になっていきなりデビューとは驚きです!高校生活をしながらも執筆活動はされていたのでしょうか?

吉富次に繋げていくためにはまた描かないといけないということで、東京創元社というところが昔、やはりSF系のアンソロジーを出されていたので、そこに「描かせてください」と電話を掛けたんです。「とにかく作品を送ってくれないと話にならない」と言われたので描いて送り、掲載して頂きました。そのときの編集さんが角川書店に移られるということで一緒についていき、『ソーサリアン』というゲームの小説化企画の挿絵仕事を1本回して頂きました。その後も角川でコミカライズの連載作品、オリジナルの連載作『ローンナイト』などを描かせて頂きました。

高校の頃から、自ら営業を!

吉富とにかく当時は「自分は大学におそらく行けないだろう」と思っていたんです。ところが自分は出身が宮崎なんですよ。とにかく高校在学中に就職先を固めておかないといけないというのがあったので、高校生活の一から活動を始めていたんです。

その頃に影響を受けた作品はありますか?

吉富80年代後半は大友克洋・士郎正宗先生のスタイルが席巻していて、自分も相当影響を受けました。当時は空間恐怖症といえるほど、本当に線をいっぱい引くのが好きでしたね。あとで編集に「線を減らせ」と怒られたんですけど(笑) もちろんSF作品も好きでしたし、特に星新一さんや筒井康隆さんなどの短編作品が好きでしたね。SFに限らずコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』も夢中で読んでいましたし、漫画も短編系が好きでした。

初期の代表作といえば、「電撃コミックガオ!」で連載され、アニメ化も2度された『EAT- MAN』だと思います。この作品が連載に至った経緯を教えてください。

吉富『ローンナイト』の連載が終わって、そのあと中々載るきっかけがなかったんです。ずっと同じ会社でやっていたので、一回くらい外に出ないといけないだろうと思い始め、それで持ち込み用にと打ち合わせなしで描いたのが『EAT- MAN』の読み切りなんです。講談社の『アフタヌーン』に持って行こうと思っていました(笑) ところがアフタヌーンは、原稿の状態でないと受けつけないとのことだったので、とりあえずネームができた段階で筋だけは通しておこうと思い「ガオ」の方にネームを見せに行ったんですよ。そこで没をもらって、晴れてアフタヌーン用に原稿を起こそうと思っていたら「これいいんじゃない?」ということになってしまい(笑) 読み切り・連載とトントン拍子で決まっていったんです。
「食べたものを再生して腕から出す」というのは、出オチじゃないですけどこの一ネタで終わりの漫画かなと自分は思っていました。だから続けようはないと思っていたんですけど、別の編集が担当になったときに「これは続けられる作品だから描け」と言われたんです。狙って描いたものが連載になる訳でもなく、わからないものですよね。

それが膨らみに膨らみ、8年間も連載が続いたのですね。その中で苦労された時期はありますか?

吉富読み切り形式の連載で、ほとんど1話完結ものだったんです。その中でまず世界観を説明して、主人公の仕事の内容があってそこからどうなっていくかという展開を、毎回一から考えないといけないので最初はストーリーを作るのがめちゃめちゃ大変でしたね。上手くラストの「どんでん返し」に繋がらなくて、どうやったらどんでん返しになるのかということばかり考えていました。繋がったときは、手を叩いてものすごく喜んでいましたね。
それが、8年間もずっと同じことをしていると、脳内にバイパスのようなものができるのか、すぐに話の流れが思い浮かぶんです。「こうなったらこうなるから、ミスリードをここにいれればいい」といったロジックがすぐ組めるようになり、簡単にできるあまり繋がったときの感動が徐々に薄れていき、最終的にはやっていてもつまらなく感じるようにまでなってしまいましたね。

それは贅沢な悩みですね(笑) 他にも苦労されたことはありますか?

吉富1番最初に打ち合わせせずに作ったものですから、打ち合わせをしないのがスタイルになってしまって、その後も編集とはストーリー作りについて打ち合わせをしなかったんですよ。その代わり、プロットの提出を義務付けられていました。あの頃の担当さんが変な方で、「漫画をネームで見させられると絵で騙されるから、シナリオの形式で見せてくれ」と言われていました。そのおかげでストーリーが特化した部分もあるとは思います。本当に中々いない編集さんですよ。

その後は『チャンピオンRED』を中心に執筆されていますが、移籍のきっかけは?

吉富秋田書店の「週刊少年チャンピオン」にいた編集さんが、本当は前々からやってもらいたかったことがあったらしく、今度月刊の雑誌を新しく作ってそこの編集長になるとのことで声を掛けて頂いたんです。それが「『某医療漫画』のリメイク作品を1話完結のストーリーで、月刊連載をやってもらいたい」というものでした。
散々悩んで結局描くことにはしたんですけど、最終的に企画がポシャってしまったんです。ただプロットなどの大筋はできていたので、ポシャる代わりに主人公を女医さんに変えてなんとか連載にしてくれないか……と言われてできたのが『RAY』という作品です。
冒頭のあの流れはそういう経緯があったからです。元の話が別作品から始まっていたので、オマージュとして作るというメッセージを読者に向けるためにも是非描かせて欲しいと頼み込んだんです。まあ描いているうちに自分の漫画になっていったので、出さなくても良かったかなあと最終的には思う様になったのですが(笑)