しなやかに朗読俳句こなすチャコ 白石冬美

★「ナッチャコ」「飛雄馬!」懐かし声に皆、狂喜乱舞

2011.04.20


白石冬美【拡大】

 今年の2月14日に、野沢那智さんを偲ぶ会が東京会館で開かれた。ぼくも白石冬美さんと並んで発起人に名を連ねた。野沢さんがチャコ(冬美)ちゃんにとって、どんなに大きい存在だったか、亡くなって3カ月半してチャコちゃんは気づいた。心にぽっかり空いた穴は取り返しのないほど深遠なものになってしまっていたことに。その上3月に1匹だけ残っていた犬が亡くなり、チャコちゃんの独り暮らしはミルク丸とポピンの猫2匹だけになってしまった。そして地震。3月終わりに唖然呆然が続いているというメールを貰った。

 赤塚不二夫さんと親しくさせていただくようになったのはタモリがレコードデビューした1977年の夏頃からで、新宿二丁目のひとみ寿司で白波の番茶割を呑む毎晩になった。その席には、次第に赤塚先生を慕うお笑い芸人が増え、さらに当時NHKのディレクターだった滝大作さんが加わると、由利徹、谷啓から児島美ゆき、小松政夫、団しん也、所ジョージらも加わるようになった。そんなメンバーとは少し異色だったのが、いつの間にか呑まないけど仲間になっていたイラストレーターの田村節子さんとチャコちゃんだ。初めのうち、チャコちゃんは静かに番茶か何かを呑んでいたが、赤塚先生が「あれをやって」と言うと、ひとみ寿司の狭い和室のふすまの後ろに立って少し顔を出し「飛雄馬!」と星飛雄馬のお姉さんの声を出してくれた。帰り道が一緒で送って帰るのが通常になり、ご近所なのでぼくの家にも来るようになった。『パタリロ』の声でまだ小学生だった娘の名前を呼んでくれたときは、娘は母親と2人でただもう狂喜乱舞した。  チャコちゃんの声で狂喜乱舞するのは娘ばかりじゃない。野沢さんとの番組が終わって10年程した頃、いつものようにタクシーで先にチャコちゃんを降ろすと、運転手さんが「お客さん、ちょっと聞いていいですか?」「どうぞ」「いま降りたのはチャコちゃんじゃないですか?」−ぼくがそうだと答えると、彼は急に饒舌になって「高校生のとき毎週聞いていたんですよ、『ナッチャコパック』。振り向いて握手してもらえばよかったなぁ」に始まって、自分がいかにチャコちゃんのファンだったかを、ぼくが降りるまで喋りまくっていたことがある。狂喜したタクシーの運転手さんは、あと数人いた。

 村中豊名で『新宿夜想曲』等を書いている友人の中村満氏がIT関係会社社長の頃、40歳のパーティに彼の大好きだった『ナッチャコパック』をステージ上で再現して「千代田区の中村満さんからのお葉書です」とチャコちゃんが言ったときも、狂喜乱舞を目の当たりにした。その時の司会は小堺一機くんで、中村社長はお礼に小堺くん主演の『もう一度ボギー!』という翻訳劇のスポンサーになってくれた。その中村氏との最初の出会いになる彼がプロデユースしてぼくが構成演出をした『筒井康隆断筆祭』(94年)では、チャコちゃんに筒井さんの短編を朗読してもらった。説得力が溢れる読みだった。

 チャコちゃんは2つの句会に入っている。だから月に何句か作る。矢崎泰久さんの「話の特集」の句会はもう30年になる。永六輔さん、小沢昭一さん、和田誠さん、斎藤晴彦さん、吉行和子さん……錚々たる面々の中で、天をとった句に「ミシンから花あふれでる春の服」「この指で流星を撃ちきみを射つ」「うす紙に雛の微笑をしまいけり」がある。なんだかチャコちゃんの声と顔が浮かぶいい句である。(演出家・高平哲郎)

 ■しらいし・ふゆみ 10月14日。北京生まれ。静岡雙葉学園、東宝芸能学校卒。初舞台は東宝ミュージカルで、その後日劇ダンシングチームを経てデビュー。1960年代から声優として活躍。また「パックインミュージック」(TBSラジオ)で67年から野沢那智とコンビでパーソナリティを15年間務めた。近年は声優の傍ら専門学校の声優科の講師で後進を指導。

 ■たかひら・てつお 1947年1月3日、64歳、東京生まれ。一橋大学社会学部を卒業後、広告代理店、編集者を経てフリーに。以後、テレビの構成や芝居・ミュージカルの翻訳演出等を手掛ける。今月は『小さんひとり千一夜・春のめざめ』(4月19日渋谷区文化センター大和田伝承ホールにて18時30分開演)の監修で忙しい。