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とり・みきの吹替どうなってるの「アジア人俳優の吹替って不自然に聞こえる?」

 とくにシリーズタイトルのなかったこのコラムですが、今回から「とり・みきの吹替どうなってるの」という名前がつきました。「どうなってるの」といっても、現状の吹替に苦言を呈しているわけではないので誤解のないように。

 僕の本業はマンガ家ですが、吹替のことを書いたり喋ったりするときは「吹替愛好家」と名乗っています。けっして評論家でも研究家でもありません。僕の吹替に関する知識は、このコラムに興味を持って読んでいただいている皆さんとたいして変わりません(皆さんのほうが上かもしれません)。わからないこともたくさんある。なので、この連載では吹替に関する疑問点やナゾを、皆さんと一緒に考えてみよう、探ってみよう、と思っています。「どうなってるの」とはそういう意味です。

 さて新タイトルとなって第1回のテーマは「アジア系俳優の日本語吹替ってなぜちょっと不自然に聞こえるの?」です。「いや別にそうは感じていない」と思われた方には申し訳ない。でも僕は昔からそう思っていましたし、僕の周りでもそういう声は多かったのです。1995年に複数のライターとの共著で出した『吹替映画大事典』(三一書房刊 現絶版)で、僕はこう書いています。

 余談だが、日系の俳優や香港・中国作品の日本語吹替を聴くと、欧米の俳優をアテているときよりも、より「わざとらしさ」が強調されて耳に入ってくることがある。アテている側はいつも通り演じているのだろうが、なぜか東洋系の人間から日本語のセリフが出てくるほうが不自然に思えてしまうのだ。単なる慣れの問題だろうか。この辺は深く考察すると面白いテーマになりそうだが、今回は置いておくことにする。

 置きっぱなしで17年、あらためてここで取りあげるのは、領土問題に絡む社会情勢とは何の関係もありません。実はこの疑問、ほったらかしにしておいたわけではなくて、声優さんや音響監督やスタッフの方などにお会いするたびにうかがってはいたのです。でも「これが正解」という回答にはいまだ至っていません。なので、早めにいってしまいますが、このコラムを最後まで読んでも「正解」は出てきません。複数の仮説を提示するだけです。

 しかし、この問題を考えていくと、実は日本語吹替のいくつかの重要なポイントや歴史が浮かび上がってくることがわかりました。それは演技面からハード(録音技術・映像技術)面にまで及びます。前置きが長くなりましたが、以下、ここまでうかがったお話から僕が立てた仮説と、それにまつわる吹替の歴史や技術の話を記していきたいと思います。

単純に「慣れ」の問題?

 実は「いや別にそうは感じていない」と思われた方は、僕が思っているよりもけっこう多いのではないか、という気もしています。なぜなら、現在は毎日のようにどこかで吹替の韓流ドラマが流され、長尺番組(洋画劇場)でも中国・香港・韓国の映画がかかることは全然珍しくないからです。人はたくさん「数」にあたっていれば、だんだんそれが「普通」に思えてきますから。

 いや、韓流ドラマに限りません。アメリカのヒットしているTVシリーズは、たいがいが群像劇ですから(ユニオンの規定などもあるのでしょう。ちょっと律儀するくらい)ほぼすべてのドラマで主要登場人物の何人かをアジアンアメリカンの俳優が担っています。『glee/グリー』のティナ(声:〆野潤子)やマイク(声:樋口智透)やケン(声:石住昭彦)もそうですね。

 最も有名なアジアン・スターの吹替の例をあげれば、たとえば石丸博也さんのジャッキー・チェンに違和感を感じる人など、もはやおられないでしょう。フィックス率でいえば、たぶんいちばん高いのではないかと思われる石丸ジャッキーは、完全に一心同体。本人よりも本人ぽく聞こえてしまいます。

 しかし、それは僕らが30年以上にわたって石丸さんの声で聴いているからでもあります(もちろん、石丸さんによるジャッキーのセリフの表現が的確なことが大きいゆえなのはいうまでもありません)。『燃えよドラゴン』に始まるカンフーブームで香港映画が長尺番組に登場し始めた70年代後半、TVでアジア映画の吹替を見ることがまだ珍しかった当時は、僕や周りの吹替ファンはアジア人の俳優の吹替には違和感をビンビン感じていたのです。

 逆にいえば、僕らはその時点まで、すっかり「欧米俳優の日本語吹替」には「慣らされて」しまっていた、ともいえます。なにしろ僕らの世代は子供のころから外画のTVシリーズや洋画劇場で育ちましたから。しかし僕よりももっと上の世代の人達=洋画はずっと映画館の字幕で観てきて、成人期にテレビの吹替に接した人達は、欧米・アジア、そして声優の演技の出来に関係なく、吹替映画そのものに強烈な違和感を抱いたと想像できます(その世代の映画ファンにアンチ吹替の人が多いのも、そのせいかもしれません)。

リップシンクの違い?

 しかし、欧米人俳優の吹替には慣れていた我々の世代が、アジア人俳優の吹替には違和感を持った、というのは、やはりそこになんらかの違いを感じたからと考えられます。では、それはいったい何に起因するのでしょうか。

 これは複数の演出家の方からうかがった指摘ですが、子音の多い英語に比べ、広東語や韓国語は a など母音で終わる言葉やセリフが非常に多い。加えて原語自体が速射砲のようなリズムなので、そういった口の動きや、はたまた顔の表情に、日本語のセリフを合わせようとすると、必要以上に語気が強まるなど無理が生じるのではないか、もしくは声優が通常の(欧米映画のときのような)喋り方をしていると「画面の口と合っていない」印象を受けるのではないか。実際、声優さんもなかなか広東語や韓国語には乗せづらそうだ、と。

 これは最初聞いたとき「なるほど」と納得しそうになりました。しかし、しばらくして「ちょっと待てよ」と思い直しました。母音が多いのは実は日本語も同じではないかと。しかも語順の違うSVO型(主語・述語・目的語の順をとる言語)のアルファベット圏の原語と違って(だからこそセリフの中で強調する箇所が違ってきて、洋画の翻訳やアテレコには皆さん苦労しているのです)、たとえば韓国語の語順は日本とほぼ一緒でSOV型です(中国語はまた違って、どちらかというと英語に近いSVO型ですが)。韓国語の簡単な文は、語順はそのままで単語をそのまま日本語に置き換えるだけでだいたい通じてしまいます。

 そうすると、実は母音も多くて語順もそのままトランスレートできる韓国作品のほうが、本来なら日本語は乗せやすいのではないか?……という疑問がわいてきます。けれども、実際の印象では洋画よりも韓国映画や韓流ドラマのほうが、少なくとも僕は違和感を覚えることが多い。つまり「より似ているほうが違和感が強い?」ということなのでしょうか?

 そこでまた僕ははたと思い至ったことがありました。アジア人の吹替に違和感を覚えるのは、なにも香港映画や韓国映画に限ったことではないということです。ハリウッド製の映画に出てくる日系人俳優(『ダイ・ハード』他でおなじみのジェームズ繁田など)の吹替を聴いていても、僕は「ああ、なんか不自然だなあ」と思うことが多かったのです。

不気味の谷?

 たとえば名匠アラン・パーカーの『愛と哀しみの旅路』は日系人収容所の話なので、主演のタムリン・トミタ(声:高島雅羅)以下、日系人俳優がたくさん出てきます。声を担当しているのは阪脩、麻生美代子、大塚芳忠、江原正士といった実力者ばかりで、けっして声優さんの技量に問題があるわけではありません。なのに、やはりどこかに違和感が残る。日系俳優達は英語のセリフを喋っているわけで、そうすると「元の原語による違い」説は、部分的にはともかく、それだけですべてを説明できる理由にはならないようです。

 この違和感の本質は、人間の心理に根ざした、もっと奥深いところにあるんじゃないか、と思うようになったのは、吹替とは一見なんの関係もないかに思えるロボット工学の記事や写真を見ていたときでした。

 ロボット工学には「不気味の谷」と呼ばれる概念があります。皆さんもお聞きになったことのある言葉かもしれません。ロボット工学の先駆者・森政弘東京工業大学名誉教授が1970年に提唱した説で、ロボットが人間の姿や動きをまねて作られるようになると、ある段階までは好感と共感を得られるが、より人間ソックリになると突然強い嫌悪感に変わる、という説です。

 この概念が発表された当時は、まだ「人間ソックリのロボット」というのは夢のような話でしたが、やがてSONYのAIBO(犬だけど)、HONDAのASIMOが実際に作られ、現在ではちょっと見には本物の人間かと見まがうようなロボットも目にするようになりました。個人的な印象では確かに「人間のカリカチュア」といった段階のロボットは可愛いのですが、近づきすぎて、ある一線を越えると不気味さのほうが大きくなります。

 これはまたCGアニメのキャラクターにもよくいわれていることです。我々はデフォルメされたキャラには感情移入できますが、人間ソックリに作られたCGキャラには、それがむずかしい。つまり、自分達に近づけば近づくほど、我々は自分達との「違い」を大きく敏感に意識するようになってしまうのです。

 我々はふだんの日本人の喋りや日本人の芝居をよく見知っていますから、一見「日本人に見える」俳優から、日本人のセリフとしてはちょっとありえない表現や、オーバーアクト気味の声の演技が出てくると、姿形がかけ離れている欧米人と比べて「不自然さ」がより強調され際だって聞こえてしまうのではないでしょうか。

 リップシンク等の問題が「無関係」ということではありません。むしろ大きく関係があることは次回のこのコラムで述べたいと思いますが、根本の違和感は上に述べたようなことから発生しているのではないか……と、いまのところ僕は考えています。

 このテーマはまだ続きます。次回のタイトルは「不気味の谷」説から逆に導き出した「欧米人の吹替は実はアニメだった?」です。ええーーーっ!?

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