【インタビュー】漫画『進撃の巨人』作者・諌山創[前編]「中高時代、状況が許すなら引きこもっていた」

[2011年02月21日]


「このマンガがすごい2011」第1位の作者が語る、漫画家デビューを果たすまで

大人気作家は、真っすぐこちらを見ながらも、どこか居心地悪そうに話しだした。

「そうですねえ。あまりハードルが上がらないように……。ただの中二病漫画だとか言って、こうなんとか必死にハードルを下げようとしているところです」

諫山創は大分県の片田舎に生まれた。相撲の盛んな地域で、秋になれば神社でちびっこ相撲大会が夜な夜な行なわれ、小学生は強制参加だった。子供に相撲を取らせ、大人は酒を飲み、勝敗が決すると硬貨を入れた茶封筒を土俵に投げる。

「同世代の子より10kgくらい体重が軽くて、劣等感みたいなものを感じて。勝ったり負けたりだったんですけど、寒いのがイヤで、友達とガーッと取っ組み合いになる感じもイヤでした」

小学校時代にはサッカー少年団に入団するが、わずかひと言で振り返る。「思い出したくない」

勉強も苦手だった。

「漢字を覚えるとか、計算するとか、左脳的なことがまったく。これはホント、言い訳っていうか、外国にはそういう人もいるって聞きますけど……。計算とかになると、まったく頭に霞がかかった状態で、深く思考できない感じなんです」

中高時代は「台風かなんかで学校ぶっ壊れろ」とよく思った。

「クラスメートとか、みんないい人たちばかりで、ついていけない感じというか。自分が劣っている感がすごいあって。今思えば、勝手に自分で落ち込んでただけかもしれないんですけど」

そして、こう続けた。

「何かうまくいかないときに、世界を否定しちゃうっていうか。他人を傷つけちゃう人もいれば、もっと多いのは自殺だと思うんですけど。一番多いのは引きこもってゲームの世界に逃げ込んじゃうんだろうけど。まさにそんな感じでした。状況が許すなら引きこもってたと思います」

真っ暗な青春。唯一の救いが漫画だった。

「幼稚園の先生に絵を褒められたのを覚えていて。それだけをずっと覚えてて。小学生になっても、中学生になっても覚えてて。よっぽどそれしかなかったんでしょうね」

高校に進学すると、本格的に漫画を描き始める。そして思った。「これで世界を変える!」

高校卒業後、福岡の専門学校へ。だが、漫画学科があったにもかかわらず、総合デザイン学科に入った。

「親に漫画家を目指したいと言えなくて。『テレビとかラジカセなんかをデザインするあれになりたいんです』って親に言いまして。なんとか行かせてもらったんですけど……。すぐに漫画学科に転科しました。漫画にしがみつくしかなかったから」

2006年、専門学校在学中に『進撃の巨人』の読み切り版を少年マガジン編集部に持ち込み、『少年マガジンMGP』の佳作に入選。そして翌年、上京を決意する。「東京行かずに死ねるかという感じでした」

だが、バイトの面接を受け、ネットカフェでバイトを始め、数ヵ月間が瞬く間に過ぎていった。「漫画を描こう、描こう」と思いながらも、ペンを握らない日々は続いた。

しかし、ある日突然ペンを執る。

「なんとなく漠然と、30歳くらいまでこことか、別のところでバイトして、実家に帰るパターンの確率がどうやら高いってのを感じて。どうせ、たぶんダメだろうけど、足掻いてみようって感じでした」

この頃、漫画を描きだした当初、「これで世界を変える!」とまで思った全能感は消え去っていた。

「自分を定規で測ったことがないから、僕は世界一だって勘違いしていたことに気づいたというか。最初から自分の実力をわかっていたら漫画を描いてなかったかもしれない」

だが、壮大な勘違いが『進撃の巨人』を生んだ。

「ダメだろうけどって前提で描きました。『これで成功しなきゃダメなんだ』っていう悲壮感よりは楽だったかもしれないです」

そして、新人賞佳作入選から3年後の09年9月、『進撃の巨人』の連載は始まった。

[後編]へ続く

(取材・文/水野光博 撮影/大井成義)

諌山創(いさやま・はじめ)
1986年生まれ、大分県出身。2008年、第81回週刊少年マガジン新人漫画賞に入選した読み切り『orz』が『マガジンSPECIAL』に掲載されデビュー。趣味は格闘技観戦。

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