佐藤 公平

さとう こうへい 評論家 1955.4.7 愛媛県東予市に生まれる。掲載作は、平成十三年(2001)十月KTC中央出版刊『林芙美子実父への手紙』第四章に若干の訂正を施したもの。

林芙美子の年齢

 ──私は明治三十七年十二月三十一日に、山口県の下関市で生まれた。田中町の錻力屋さんの二階で生まれたと云ふ事である。母は鹿児島の出で、父は四国の伊予の周桑郡の出である。母は温泉宿をいとなみ、父はその頃紙商人として桜島へ渡った様子だ。

 これは芙美子著書『放浪記1 林芙美子文庫』あとがきの引用である。

 彼女の誕生日は、戸籍上明治36年12月31日だが、昭和26年6月28日の没後も随分長い間おおやけには明治37年生まれと信じられており、最初の年譜を編んだ板垣直子は、『林芙美子の生涯 ─うず潮の人生─』(大和書房 昭和 40年)で、次のように弁明している。

 ──林芙美子自身が生前に、三十七年度と方々にかいていて、私ははじめそれを信用していたのだった。

 似たような記載をあげるなら、『現代日本文学アルバム 第13巻』(学習研究社 昭和49年)所収の「林芙美子とその時代」で和田芳恵が以下のように記している。

 ──芙美子は、生前、明治三十七年生まれと書きもし、また、話していた。

 芙美子の著作は膨大であり、関係の資料も数多く、昭和女子大学近代文化研究所による『近代文学研究叢書 第六十九巻』に殆どがまとめられている。だが、これらすべてを入手し検証する時間は持ち合わせていないし、とてもその気になれないほどの量である。またその確認作業は少なくも本稿のために不可欠とも思えないので一部しかあたっていないが、そのうちいくつかに明治37年生まれとの記載を見つけた。

 冒頭に引いた『放浪記1 林芙美子文庫』あとがきはそのひとつに当たるが、芙美子は「放浪記」「思ひ出の記」「文学的自叙伝」「一人の生涯」などで、自らの生い立ちについて、似て多少異なることを書いている。

 ところで、この『放浪記1 林芙美子文庫』あとがきに見る〔云ふ事である〕〔様子だ〕とは、おそらくは母からの伝聞として書いたのであろうが、問題は生年である。

 芙美子は、自分の生年を誤って記憶していたのであろうか。いや、その答えは「否」としか言いようがなく、明らかに周囲に偽っていた。平林たい子の『林芙美子』(新潮社 昭和44年)から言葉を借りる。

 ──彼女の生年月日はいろいろだが、私は若い時、四年制女学校の卒業証書をあずかっていたことがある。それには私より二歳上としるしてあった。尚私は現に証書を手にしているのだから、卒業直後にそれを燃やしたという伝説は事実でない。

 たい子の生年は明治38年。

 だが、芙美子が正しい生年を知っていたことは、卒業証書など持ち出さなくとも簡単に分かる。

 のちに「放浪記」「風琴と魚の町」の年齢部分を検証していくが、結論をここで述べれば、そこには就学期の年齢を正しく書いてある。両作品を書くに当たり芙美子が自分の過去を調べ直したわけはなく、全くの記憶で書いたのだから、自らの生年を小さい頃から知っていたのは明白である。

 

 ところが、成人となった芙美子と出会った多くの人達が「明治37年生」と信じていた。

 和田芳恵は『日本文学全集48』(集英社 昭和47年)巻末所収の「作家と作品 林芙美子」に、芙美子が生前に明治37年辰年生まれだと自ら言い同年生まれの作家が多いので「辰の会」を作るのだといった逸話を紹介しているが、芙美子が年齢ひとつを詐称したことを裏付ける記録は数多い。

 その一つを、文藝臨時増刊『林芙美子読本』(河出書房 昭和32年)に見る。

 座談会記録「お芙美さんのこと」が載せられているのだが、そこには、小林秀雄、川端康成、芹澤光治良、壺井栄、井上友一郎が登場し話がはずんでいた。井上友一郎の、〔『放浪記』が出たころは、林さん、おいくつでしょうね。〕との切りだしに、壺井栄が〔明治三十七年です、生まれたのが、たしか。〕

 当時の年譜では明治37年生であるが、これは流れから、年譜などで再確認した発言でなく記憶によるのであろう、と思った。

 大正14年にしばらく隣に住んでいた壺井栄は完全に信じきっていたのである。

 もっと奇異な事がある。

 和田は昭和48年3月、『ちくま』に「林芙美子、出生の謎」を寄せている。『日本文学研究資料叢書』同刊行会編(有精堂 昭和58年)所収のそれを読めば、その中で、和田が筑摩書房『日本文学アルバム20巻 林芙美子』の構成解説をした昭和31年時点で、芙美子の夫・緑敏が芙美子の生年を明治37年と信じていたことを書いている。なんと、芙美子と終生連れ添った夫・緑敏が、没後少なくも5年は芙美子の生年を誤って信じていたのだ。

 

 おおやけに明治36年生まれが戸籍により判明したのは、昭和32年5月18日であった。

 前引きの板垣直子の『林芙美子の生涯 ─うず潮の人生─』は、芙美子の明治36年生まれを実証している書として『現代日本文学アルバム 第13巻』の「主要参考文献の紹介」の項に紹介されているが、最初に実証したのは下関の人であった。

 それは、中原雅夫著『下関を訪れた人々』(赤間関書房 昭和 46年)と、この『現代日本文学アルバム 第13巻』にある和田芳恵の「林芙美子とその時代」を読み合わせると良く分かる。前書所収の「林芙美子と下関」には、昭和32年5月15日と同22日の朝日新聞下関版が紹介されており、判明の経緯を記してあるので、それらをまとめることにしよう。

 そのきっかけは、和田が編集し昭和31年11月に筑摩書房から出された『日本文学アルバム24』に、明治37年生まれと書いたことによるという。それを読んだ、当時の下関市教育長・上田強が、和田に宛て昭和32年4月30日消印で訂正の手紙を送った。下関市立名地尋常小学校の大正3年度半途退学男女の学籍簿が昭和30年11月初旬に発見されたことで生年月日を知っており、その訂正と、生誕の地に関する「護国神社」が「五穀神社」だという誤りを指摘したのである。

 その返事が、5月13日上田に届く。

 その書簡には、執筆の為下関の地元から「生誕の地」と書いた立て札の写真を送ってもらって書いた、その他生年月日などの資料は林芙美子夫・林緑敏の覚書からもらった、とあったという。

 

 余談だが、深川賢郎の『フミさんのこと─林芙美子の尾道時代─』(渓水社 平成7年)によれば、「緑敏」の読みは「マサハル」。同書のその部分は「ロクトシ」と呼称する初老婦人案内での訪問記であるが、皆が呼ぶので「ロクビン」との通称も本人は気にとめていなかったようだ。最近では一般に「リョクビン」が使われている。人名の読みは難しい……。

 

 戸籍判明の経緯を続けることにする。

 そこで上田が早速現地におもむき調べたところ、確かに「護国」と間違っており、ご丁寧に生年月日は「明治37年12月21日」と日付まで違っていた。その立て札は、昭和30年秋に下関市文化財保存会の手で立てられたものだが、同会の藤村直は素直にあやまりを認めた。

 ──あやまりだとわかったが、近く立札を立派な石碑にする計画で付近町民が募金をはじめている。その時は正しくなおしたい。

 そして早速月15日に藤村が鹿児島に問い合わせたところ、同市役所東桜島支所から18日届いた公文書で明治36年12月31日生まれが確かめられたという。

 『下関を訪れた人々』からその部分を紹介する。

 

 ──それには

   本 籍 鹿児島県鹿児島郡東桜島村古里三五六

   戸 主 林 久吉(母キクの兄)

   本 人 林 フミコ 林キクの私生児 女

       明治三十六年十二月三十一日生

   となっており、翌三十七年一月五日に出生届けを出している。

 

 ここでちょっと気になったのは、この「公文書」の戸主が〔林 久吉(母キクの兄)〕となっていることで、原文にあるのか、注として書かれたのか不詳だが、事実は戸籍上養子「弟」である。これは引いた手前正したが、実はここに正しく記載されてはいるが、以後誤って引き継がれる「あること」を正したくて引用した。

 その「あること」、それは芙美子の本籍地「古里三五六」という番地である。

 

 ある時点を契機に誤りが引き継がれるとなれば見過ごせまい。

 『下関を訪れた人々』は、すでに紹介したように昭和46年に刊行されたが、昭和49年の『現代日本文学アルバム 第13巻』には林久吉戸籍謄本の写しがある。それは少し読みづらいのだが、その中に〔参百五拾六番地〕の地番が明らかに読みとれるのだ。

 しかし、『林芙美子全集』(文泉堂 昭和52年)所収の今川英子年譜に、明治36年の項で〔古里二五六番地〕と書かれた。それは二ヶ所あり、ケアレスミスあるいは誤植かと思うが、これが今も正されないままに引き継がれており、昭和60年、当地竹本千万吉の『人間・林芙美子』(筑摩書房)もこの地番を引き継いでいる。

 手許にある『林芙美子全集』今川年譜以前の資料はすべての地番が「三五六」。

 この年譜はその時点の集大成として非常によくまとめられてあり、全集巻末年譜故、以後誤りそのままに引き継がれていったのだろうと推察している。その経緯を見るために、手にある主だった年譜を作成順で出していくことにしたい。

 まずは昭和63年、井上貞邦が編んだ小学館の『昭和文学全集 第8巻』の林芙美子年譜。

 これも〔古里二五六番地〕となっており、平成2年筆名井上隆晴で出した『林芙美子とその周辺』(武蔵野書房)において年譜編纂を以下のように振り返っているので、その引き継がれる経緯をうかがい知ることができる。

 ──なお、この年譜作成では、林芙美子全集〈文泉堂出版〉の編集者・今川英子氏からご懇切なるご教示を頂いたことを心より感謝致します。

 尾を引く次は『尾道の林芙美子』(尾道市立図書館 平成6年)、この年譜注釈には次のように書かれている。

 ──これは、小学館「昭和文学全集」第8巻の井上貞邦編年譜、「林芙美子記念館」の新宿区立歴史博物館編年譜をそれぞれ参考にして「尾道と林芙美子・アルバム」の神本節子年譜に補筆、訂正したものです。

 実は、この年譜上には芙美子戸籍の番地は出てこないのだが、所収の清水英子「評伝 尾道の林芙美子」に〔古里256番地〕の記載があり、同じ誤りを引き継いでいるのだ。

 そしてなんと、昭和女子大学近代文化研究所の『近代文学研究叢書 第六十九巻』。

 これは、既述したように膨大な林芙美子の著作年表と平成6年までの資料年表がまとめられているバイブル的書物であるが、その最初の頁「一 生涯 イ 出生と幼少女期」にも〔古里二五六番地〕と誤って書かれていた。

 しかもこれには、すぐに気づく誤りがまだあった。

 出所が出所だけに、これもちょっと見過ごせないので付け加えるが、驚き斜めに読み進めていくうち、次の頁にもう一つの誤りを見つけたのである。

 ──横内の娘佳子は芙美子の一歳年長で幼少期、芙美子が「乳姉妹」とよんだ

 この佳子は、『林芙美子とその周辺』の著者井上の母親で、〔明治三十七年十二月十四日〕生まれであるから、〔佳子は芙美子の一歳年長〕は逆なのだ。

 そして『【芸術…夢紀行】シリーズ3 放浪記アルバム』(芳賀書店 平成 8 年)に所収の今川年譜も、自らの文泉堂『林芙美子全集』巻末年譜の〔古里二五六番地〕を二ヶ所引きずっている。

 

 私がここに指摘したものは、過去研究者により、膨大な資料をできるだけ簡潔にまとめるという意図で注意深く編纂されてきたものばかりであろう。だが、ケアレスミス皆無というわけにもいかないということだ。これと意は異なるが、既刊書などの資料に依拠して、あるいは推論して書き残すということの難しさを痛感する次第である。

 本書も似たような誤りを残す可能性を秘めている。

 過去の書を引く場合、できる限りその原文に立ち戻るべきで、可能な限り集められる資料に基づき考証せねばならぬとは思っている。本書ではその依拠した文献を記すことを旨としているのだが、それを徹底すれば非常に読みにくいものになるということもまた事実であろう。出典のすべてを記していない。もし本書を引くことがあるならば、そのあたりも配慮願いたい。

 

 ところで文泉堂『林芙美子全集』所収の著書目録によると、芙美子の最初の年譜は『昭和文学全集 19』(角川書店 昭和28年)の板垣編だが、それにある誕生日は明治37年12月31日生まれとなっている。彼女の『林芙美子の生涯 ─うず潮の人生─』には、芙美子生年に関する以下の記述が見られる。

 ──世の中の出版社のなかには、訂正以前の私の年譜を、私の相談なしに、勝手に使ってきたからずっとあとになってからさえ、37年度出生説がすっかり通っていて、他に私以外の年譜が全くないので、ずっとあとになってまで私が無責任であるような印象を与えるがと、しごく迷惑におもったことだった。

 これがいささか気になったので、彼女に迷惑をかけたと思われる「出版社」をちょっと調べてみることにしたのだが、それは意外と簡単に判明した。

 『昭和文学全集25 林芙美子』(角川書店 昭和38年)巻末の板垣年譜が、表現など多少は修整されているものの、その十年前に編纂された同じ角川書店の『昭和文学全集 19』所収の板垣年譜と殆ど同じなのである。それを板垣が、『昭和文学全集25 林芙美子』に付せられたルビーセット5「林芙美子年譜正誤・補正表」で正している。

 彼女の言う迷惑出版社は角川書店だった。

 文泉堂『林芙美子全集』所収著書目録で見てみると、角川書店が芙美子著書を扱ったのは、奇しくも板垣が最初の年譜を出した年から「正誤表」を出した年までである。

 

 その板垣は、芙美子生年について、前引のすぐ前にこう書いている。

 ──私にこの事を最初にあかしたのは、当時下関市長府川端町にすんでいた藤村直である。同氏は昭和二十八年の八月に角川書店発行の『林芙美子集』(昭和文学全集第十九巻)が出たあと私に郵便で教えてくれた。その本に私は林芙美子についての「解説」と「年譜」をはじめてかいたのであったが、林芙美子の生れた年を、私は明治37年度にしていたからだ。・・・藤村の教示を、さらに他でも確かめたあとは、私は林芙美子の生年月日を明治三十六年十二月三十一日とかくようにしてきた。

 つぎは『下関を訪れた人々』にある「執念に似た友情 ─平林たい子─」からの引用。

 ──この二人のむすびつきは、かつて上田が市内名池小学校にのこっている学籍簿から、従来、明治三十七年十二月三十一日となっていた林芙美子の生年月日が、明治三十六年十二月三十一日であることを、林芙美子のことを調べていた平林に指摘したことからはじまっている。

 

 前に、上田が和田に訂正の通知をしたと書いたが、この二つの引用も踏まえ言えることは、下関の上田と藤村から、少なくも、和田・平林・板垣三者に対して、昭和32年の芙美子生年月日確定時期に報告が出されたということだ。おそらくこの時点で緑敏にも伝わったのだろう。

 この訂正経緯を考えると、当時の情報がいかにアナログ的であったかということが分かる。

 板垣が〔かくようにしてきた〕というのは事実かもしれない。

 だが、生年が明らかになったあと正誤表で正されるまで約5年あまりの間に、板垣が手がけた芙美子関係文献は〔かくようにしてきた〕努力が、少なくも知れ渡るほどの影響力はなかったと言うのも、また真実であろう。

 それ故か、『林芙美子の生涯 ─うず潮の人生─』の初めに〔もし世の人々が林芙美子の参考資料の中に私の文献を求めるならば、私の旧書でなく、本書を用いてほしい〕と書いている。

 

 さてここで芙美子自身の叙述の不確かさを見ておこうと思う。

 二つ提示するが、いずれも既出の文芸臨時増刊『林芙美子読本』からである。

 まず一つ目は、フランス文学者・中島健蔵が寄せた「人間・林芙美子」。長くなるので引用はしないが、芙美子が中島のことをあるとき幼馴染とし同じ年齢だと言ったので、一つ違いなのに彼はずっと信じていたという内容である。随分酔ったときの思い出らしい。

 芙美子没後のあるとき、年令の話題が出たので「同い年」と言ったら、強く否定されたので調べてみると、彼は明治36年2月21日生まれなのだが、芙美子は明治37年12月生まれであり、あきれたという意であった。

 これをどう解釈すべきなのだろうか。

 芙美子が中島の生年を知っていたなら、深層心理が引き出される「酔い」の状態で、本当の生まれ年が出てきたのだろうか。

 ──わたくしは、実は、作家の告白を余り信用していないのである。もちろん、第三者のうわさは、もっと信用がならない。第三者の話が怪しいから、作家自身の話の方を重んじがちだが、どうしても怪しい場合が多い。

 これは、その「人間・林芙美子」から引いている。

 文脈から芙美子批判ではなく、一般的な思量を書いたものであろうが、作家の著作物は創作として読まねばならぬが、告白内容もまた、特に林芙美子の場合は一層この引用に従い怪しんだほうが良いように思われた。

 

 次は作家・舟橋聖一の「林さんのこと」より。

 ──新潮社からは、「新興藝術派叢書」がでて、このシリーズの中で、僕の作品が一冊にまとめられた。この時、この叢書に対抗して、改造社から「新鋭文学叢書」が出て、これに林芙美子の『放浪記』が収録された。この二つの叢書は、当時の若い文壇の対立的存在になった。早くいうと、林芙美子は改造派であり、僕や阿部知二は、新潮派と目された。この反目は相当深刻で、僕の作品は中々「改造」に掲せてもらえなかったし、林さんの小説は、ついに戦前には「新潮」に一度も掲らなかった。僕は一々調べていたわけではないが、林さんが死ぬ前に僕に話してくれたことだから、まちがいはあるまい。

 しかしこれを〔一々調べて〕みれば、事実は全く異なるのである。

 文泉堂『林芙美子全集』著書目録をみれば、『新潮』には昭和6年3月の「恋愛グラフ」、9月「雨戸と女」を皮切りに数多くが載せられているし、昭和14年には昭和名作選集『清貧の書』、『私の紀行』、『放浪記─決定版─』、15年『女優記』そして16年には『十年間』が戦前新潮社より刊行されている。その後にまとめられた『近代文学研究叢書 第六十九巻』「二 著作年表」も参考にするならば、より多くの否定的資料をみることができるのだ。

 これは芙美子の勘違いではあるまい。良心的に考えれば、芙美子が舟橋聖一を気遣いついた可愛い嘘だということもできようが、もっともらしい言葉にも虚構が混じるとも言えるだろう。

 

 さてここで、手紙を書く少し前の芙美子年齢詐称を探っていくことにする。

 『俳優』(春秋社 昭和35年)は、「舞台生活五十年」とうたった田辺若男の自伝であり、「十二 市民座と林芙美子(大正一三年)」に、芙美子と同棲した頃がよく記され、芙美子研究ではしばしば参考にされている。装幀は、田辺率いる市民座で舞台装置を担当し後年『広辞苑』の動植物の挿図を描いた牧野四子吉であり、表紙に梟が描かれてある。

 大正11年春、明治大学在学中の岡野軍一を追って上京した芙美子だが、翌月岡野の卒業の少しのちその恋は破局を迎え、その次、約一年後に一緒になったと言われるのが田辺若男である。

 その『俳優』の「一 米山のふもと(明治三十六年)」から田辺の年齢部分を二つ引用するが、田辺経歴の紹介意図ではない。その表記を見たいのだ。

 ──高等小学校を卒業した十五才の春で、私の初旅である。

 ──山のなかのかぞえ年十六の私の胸に

 年齢表記は満年齢で、〔かぞえ〕に丁寧さを感じよう。

 『俳優』の記載はかなり克明で、寺島珠雄の『南天堂』(皓星社 平成11年)にその確実性を見た。寺島は『南天堂』著者紹介に〔アナキズム詩史に通じ、文献の博捜と綿密な考証で知られる。〕とされており、同書は大正から昭和にかけての南天堂周辺に非常に詳しい。〔同書校正中 七月二十二日没〕、残念なことに故人である。

 ──田辺の『俳優』の確実性というのは、この演目三題を記録しているのを一例に、旅興行についても保存資料によって詳しく書いているからだ。

 

 戻って『俳優』から、田辺が芙美子と初めて会った時の記述を、一行だけ引く。

 ──二一才で、生まれは九州、 "林芙美子"と言った。

 この初出は、昭和33年5月の『婦人公論』「林芙美子と同棲した三ヶ月半」であり、それには若干ニュアンスの異なる記載が見られる。

 ──二十一歳で、故郷は九州だと言った。

 この年齢、〔二一才〕はどうか。

 

 引きっぱなしで恐縮だが、ここで参考に、年譜で芙美子生年、ついでに実父名の変遷を追っていくことにしたい。田辺が、昭和32年月15日と同22日の朝日新聞下関版を参考にできたとも思えないので、不確かながら、〔保存資料によって詳しく書いている〕という田辺の資料推測の意である。

 田辺がもし文献を当たったとしてもそれは流布している年譜なのだろうと勝手に推察し、敢えて詮索しないで年譜を探っていくのである。

 まずは、少しはずすが実父名から。

 昭和28年『昭和文学全集第19巻』巻末の年譜で、板垣直子は〔宮田浅次郎〕とするが、翌年『現代日本文学全集45』(筑摩書房 昭和29年 62年)で〔宮田浅太郎(芙美子によると浅次郎)〕に訂正しており、昭和31年の『林芙美子』ではすでに〔宮田麻太郎〕としてある。だが、昭和32年の『文芸臨時増刊林芙美子』年譜では〔宮田浅太郎〕となっている。そして『日本文学全集57』(新潮社 昭和36年 61年)の年譜・解説を十辺肇が担当、実父名はなんと〔宮田浅次郎〕とされている。

 いずれも生年は、当然明治37年であった。

 

 『俳優』にある〔二一才〕の年齢根拠はいったいどこにあるのか。

 下関での明治36年出生の判明は昭和32年だが、板垣が「正誤・補正表」で正したのは38年、その間年譜作成者はこのように実父名を混沌と書き、そろって〔明治37年生〕としている。田辺が、昭和33年から35年に正しい生年を知っていたとは思えない。当時の出生年定説「明治37年生」から逆算すれば、田辺との同棲は大正13年早春なのだから、そのとき芙美子は数え21才。

 『俳優』記載は満年齢で20才のはずだが、田辺は〔言った〕と書いているので〔二一才〕は数えであろう。田辺は流布した年譜から逆算したのか。あるいは年譜などに頼らず回顧して書いたのだろうか。田辺の根拠を、ここからは明確に出来ない。事実は数え22才であった。

 

 つぎに〔生まれは九州〕〔故郷は九州〕を探ってみる。

 過去の出生地下関をくつがえし現在の門司出生説が取り上げられた経過を、『林芙美子とその周辺』より簡単にまとめておこう。

 ことの起こりは、井上貞邦(筆名隆晴)が、昭和47年月から翌年10月にかけて北九州市医師会の機関紙「北九州市医報」に「林芙美子と北九州」を9回にわたり連載したことによる。それが林文学研究者の間で評価されるようになった。そして、それを読んだ和田芳恵が、前述の門司説支持文「林芙美子、出生の謎」を筑摩書房PR誌『ちくま』に発表することになる。

 井上はそれをうけ、昭和49年月光風社から『二人の生涯』、その後「幾山河」「浮雲」「芙美子の死」を書き綴り、それらにより信憑性が一層高まり、毎日新聞学芸欄(全国版)、NHKラジオ放送、週刊朝日に取上げられ、秋田魁新報で国文解釈学会員高橋誠が芙美子門司生まれ論説を掲載した。こういった経緯で芙美子の門司出生説が定説化、井上はそれらを元に、平成2年『林芙美子とその周辺』を出版したのである。

 年譜変遷を念頭に〔生まれは九州〕〔故郷は九州〕を見るならば、「林芙美子と同棲した三ヶ月半」が出された昭和33年5月、そして『俳優』刊行時すなわち昭和35年頃の出生地通説は「下関」なのである。年譜などで確認したのなら〔九州〕とは書かず「下関」としたのではなかろうか。しかも前者での〔故郷は九州〕を、後者で〔生まれは九州〕と書き換えているのであるから、年譜などの資料を参照して書いたものではあるまい。

 田辺は「放浪記」を熟読したのか、多くを引用している。

 改造社の、初刊本冒頭に芙美子が書いたのは、次の一行。

 ──私が始めて空氣を吸つたのは、その下關である。

 あるいは、田辺が読んだのは改稿された、今に伝わる次の一行なのかも知れない。

 ──私が生まれたのはその下關の町である。

 だが、いずれに依ったとしても、当時の通説出生地は「下関」である。

 芙美子は『放浪記_林芙美子文庫』あとがきにも「下関」と記してある。あるいは「放浪記」文中に記載のある〔原籍は鹿児島県東桜島です。〕をみて、田辺が出生を九州と信じた可能性も否定は出来ない。しかし『俳優』の記載をこうして探っていくと、田辺が書いた出身地の出所は、芙美子からの伝聞を記憶をたどり書いたとしか考えられない。

 

 田辺は〔言った〕と、おそらくは数え年齢を〔二一才〕と記した。これは出所を明らかには出来なかったが、〔生まれは九州〕〔故郷は九州〕と記したのは、どうやら記憶をたどるもの。ならば年齢も、自分との年齢差などを頼りに書いたに違いない。

 田辺若男との出会いは大正13年早春、そして実父への手紙は少なくもその後のこと。

 当時芙美子は周囲に対して既にひとつ年齢詐称をしていたのではないか、そう思った。

 ここで、いきなり本論に戻るならば、実父への手紙に自称年齢一つ年下を何気なく書いてしまったとしても、それはあり得ぬことではあるまい。

 私の大正14年説、ほんの小さな根拠である。

 

 つぎにこの年齢詐称を、初期の芙美子作品に探ってみたい。

 勿論創作であるからあてにはしないが、きちんと現実を書いているものもあれば、年齢詐称部分も決して出鱈目でなく、詐称の場合にはちょうどひとつだけ少なく書いているものが多いので、見てみようと思ったのである。

 まずは、前に記した正しく書いているところの紹介である。

 最初に、改造社版「新鋭文学叢書」の『放浪記』から「放浪記以前─序にかへて─」を紹介するがその初出は『改造』昭和4年10月号の「九州炭坑街放浪記」。

 これを『放浪記』初刊本から引くが、総ルビと改行は省略である。

 ──八つの時、私の可憐な人生にも、暴風を孕むやうになった。若松で、太物のせり売りをして、かなり財産をつくっていた父は、長崎の沖の、天草から逃げて来た、濱といふ藝者と一諸になると、雪の降る舊正月を最後として、母は私を連れて家を出てしまった。

 最初に世に出た板垣直子による林芙美子年譜を紹介したが、それはこの記述に依拠したものであったろう。〔天草〕の事実は対馬であり、〔濱といふ藝者〕は堺ハマという麻太郎ののちぞえである。明治44年6月19日に入籍、大正3年11月30日付で協議離婚し実家復帰している。

 芙美子が家を出たのは明治43年とされ、数え年8歳を『放浪記』には正直に書いている……。

 

 ついで同じ『放浪記』初刊本から、同様に小学校不就学部分を引く。

 ──ざつこく屋と云ふ木賃宿から、その頃流行の改良服と云ふのをきせられて、南京町近くの小学校に通つた。それを振り出しに、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾と言つた順に、四年の間に、七度きりきり舞ひさせられて、私には親しい友達が一人も出来ない。お父つあん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ……。せつぱつまった思ひで、断然私は小学校を蹴とばしてしまった。それは丁度、直方の炭坑町にうつり住んだ私の十二の時であった。

 実父・麻太郎との別離のあと芙美子が流れて下関に住んだ頃、麻太郎は対岸の門司に「軍人屋」本店を移した。この〔ざつこく屋〕は、当時麻太郎のもとで働いていた『林芙美子とその周辺』を書した井上隆晴の義母・佳子の父・横内種助と麻太郎次弟・宮田隆二がその頃住んだ家の屋号である。

 ここで、不就学の時期を見るために残された学籍簿から芙美子の転校歴を追う。

 現在、下関市立名池尋常小学校、第二尾道尋常小学校の学籍簿が残されている。私は現物に目を通していないが、過去の資料を併せ読み、転校歴を分かりやすく箇条書きにしておこう。

 

 年齢(数え)

 8歳    明治43年旧正月   キク芙美子を連れ、喜三郎と家を出る

       明治43年4月    長崎市立勝山尋常小学校に入学

       明治43年11月    佐世保市立八幡女児尋常小学校に転入

 9歳    明治44年1月10日 下関市立名池尋常小学校に転入

 12歳    大正3年10月6日 下関市立名池尋常小学校を退学

          ?      鹿児島市山下尋常小学校に転入

                 2年間不就学

 14歳    大正5年6月22日 第二尾道尋常小学校5年に転入

 16歳    大正7年3月28日 第二尾道尋常小学校卒業

 16歳    大正7年4月    尾道市立高等女学校入学

 20歳    大正11年3月   広島県立高等女学校卒業(この年度市立から県立へ)

 

 この〔キク芙美子を連れ、喜三郎と家を出る〕旧正月の年は、『放浪記』の〔八つの時〕から数え年で逆算している。同年の〔長崎市立勝山尋常小学校に入学〕はキクもそう伝えており、『放浪記』から垣間見られる新入学ゆえ〔4月〕とした。

 次の行の〔佐世保市立八幡女児尋常小学校〕は、「下関市立名池尋常小学校 大正三年度半途退学男女」の入学前の経歴記載に依るが、転入日〔明治43年11月〕は関係公文書からの推測である。

 ついでに、参考として学籍簿からの転校歴と芙美子が著作で記した小学校転歴を記す。いずれの地も、しばし滞在したところなのだろう。

 

 学 籍 簿:長崎・佐世保・下関・鹿児島・尾道

 放 浪 記:長崎・佐世保・久留米・下関・門司・戸畑・折尾(4年に7回)

 一人の生涯:長崎・佐世保・下関・鹿児島・若松・直方・尾道

 思ひ出の記:長崎・佐世保・久留米・熊本・佐賀・博多

 

 長崎、佐世保から下関へと小学校を転々とし、その後喜三郎の店が倒産し急遽鹿児島のキクの戸籍上の妹・鶴の元に木札をつけて送られたのは大正3年。『放浪記』に鹿児島の夏の様子があることから推測すれば、おそらくは夏以前であった。

 「下関市立名池尋常小学校 大正三年度半途退学男女」図版に依れば、10月日付けで下関市立名池尋常小学校を退学と処理され、退学理由は「鹿児島市無届転住」とある。よほどせっぱ詰まった鹿児島行き、と解釈できよう。

 その時芙美子は第五学年二学期のはずだが、その図版では、名池尋常小学校での学籍簿は第四学年までしかなく、第五学年はほとんど通っていなかったことが分かる。また、大正5年6月22日、鹿児島市山下尋常小学校から第二尾道尋常小学校へ転入処理されているが、2年遅れで第五学年である。鹿児島でそこそこ通ったなら、不就学を挟んでも尾道で六年になれたはず、鹿児島でもほとんど通っていないことが知れる。

 すなわち下関市立名池尋常小学校第四学年修了後五学年一学期が終わる前までに通わなくなり、鹿児島市山下尋常小学校にもほとんど通学せず、大正月の尾道までが不就学。

 不就学が始まったのは確かに数え12歳であり、『放浪記』には正しく書いてある。

 

 次に「風琴と魚の町」を追っていこう。

 起稿は、あとがきに大正11年とあるが、『放浪記第三部』に依拠し大正15年に帰尾したときとも言われている。この起稿時期は確定されておらず、もしかしたら、大正11年に書き始めたがしばらく放置され、本格的に書かれたのが大正15年だったのかもしれない。

 初出は昭和6年4月の『改造』、これが手にないので『尾道の林芙美子 今ひとつの視点』に紹介された初出を、総ルビ、改行を省略し年齢部分を又引かせていただく。

 本文は「一」から「十」までとされ、その「一」と「七」に年齢が書かれている。

(一から)

 ──蜿々とした汀を汽車は這つている。動かない海と、屹つた雲の景色は、十四歳の私の眼に宮殿の壁のやうに照り輝いて寫つた。

(七から)

 ──「學校へ行かんか?」或日、山の茶園で、薔薇の枝を折つて来て、石榴の根元に植ゑてゐたら、商賣から歸へつた父が、井戸端で顔を洗ひながら、私にかう云つた。「學校か? 十四にもなつて、五年生にはいるものはなかもの、行かぬ。」

 文中ではその後、事実とは異なり五年生を半分飛ばして六年になれたことにしているが、ともあれ尾道に降り立った大正5年に彼女は数えの14歳で、これも数え年齢を正しく書いている。

 

 この「風琴と魚の町」改稿変遷を調べていくと、面白いことに気付いた。

 昭和6年4月に『改造』初出後、同じく改造社から出された昭和6年11月の『清貧の書』及び12年8月の『林芙美子選集第一巻』、15年11月の実業之日本社『林芙美子短編集上巻 風琴と魚の町』、23年6月の鎌倉文庫『風琴と魚の町』に所収されるが、手にあるこれらの年齢は初出と同じである。

 だが、没後にまとめられた昭和26年12月28日発刊の新潮社『林芙美子全集3 清貧の書・牡蠣』では(七)にある〔十四〕が年齢調整のためか〔十三〕に書き換えられており、(一)の〔十四〕は整合をとられず、何故か直されていない。そして、以後、今に至るまでこれが伝えられる。

 文泉堂『林芙美子全集』の底本は、この新潮社『林芙美子全集』なのである。

 生存中には、その後新潮社の林芙美子文庫『風琴と魚の町』にしか収められていないので、その際に改められたか、あるいは新潮社『林芙美子全集』の誤植かどちらかとなろう。

 新潮社『林芙美子全集』の底本は明記されていない。

 その『林芙美子全集2 放浪記』には、「第一部」「第二部」「第三部」として所収されている。これは昭和25年6月に中央公論社から出された『放浪記』と構成が同じであり、新潮社『林芙美子全集』の底本が、初出や初刊本ではないことを物語る。それと同じように『林芙美子全集3 清貧の書・牡蠣』では、当時最新刊の新潮社林芙美子文庫『風琴と魚の町』を底本としたのだろう。

 不思議な年齢操作が「風琴と魚の町」に見られるのである。

 

 さてここまで『放浪記』「風琴と魚の町」の年齢部分を見てきて言えること、それは就学時期の年齢は初期のこの2作品には正しく書いたが、のちに書き換えられようとしていることである。

 これら創作の作品以上に、詩は年齢とか時期推定には役立たないであろう。韻を踏み響きも大事にするだろうし、詩からの年齢論議は一層問題とならないかもしれない。

 しかし、芙美子の詩を紹介するつもりで、敢えて記しておきたい。ふたつ紹介する。

 

 まずは、昭和3年6月23日付で、女学校の恩師今井篤三郎宛に恋文もどきで書かれた書簡に始まる「黍畑」という詩はそこで最近の作とされ、やたら〔二十五〕という年齢が繰り返されている。多少手が加えられ、初出はその8月の『女人藝術』第二号である。

 その後、昭和4年6月15日自費出版された『蒼馬を見たり』に、一部加筆され「自序」として載せられるが、最後に〔一九二八、九〕(昭和3年9月)と詩作時期がある。ついで昭和5年11月の『続放浪記』「放浪記以後の確認」に挿入され、その少し前の「自殺前」の章に引用された。

 「自殺前」にある詩作時期は〔一九二六〕(大正15年)、これは現在文泉堂『林芙美子全集』で伝えられる「第二部」ではすでに削除されている。

 清水英子は『ゆきゆきて放浪記』で「黍畑」を引いている。『新潮日本文学アルバム 34 』と『現代日本文学アルバム第13巻』には、全文ではないが『女人藝術』掲載時の図版があり、それは清水引用と合致する。詩の改稿を鑑みれば彼女が初出から引いたということが知れる。

 以下の詩は、その『ゆきゆきて放浪記』から、私の手にない『女人藝術』初出の孫引きである。

 

 ─黍 畑─

 

 あゝ二十五(廿五)の女心の痛みかな!

 

 細々と海の色透きて見ゆる

 黍畑に立ちたり二十五の女は

 玉蜀黍よ玉蜀黍!

 かくばかり胸の痛むかな

 廿五の女は海を眺めて

 只呆然となり果てぬ。

 

 一ツ二ツ三ツ四ツ

 玉蜀黍の粒々は二十五の女の

 侘しくも物ほしげなる片言なり

 蒼い海風も

 黄いろなる黍畑の風も

 黒い土の吐息も

 二十五の女心を濡らすかな。

 

 海ぞひの黍畑に

 何の願ひぞも

 固き葉の颯々と吹き荒れて

 二十五の女は

 眞實命を切りたき思ひなり

 眞實死にたきおもいなり。

 

 延びあがり、延びあがりたる

 玉蜀黍ははかなや實が一ツ

 こゝまでたどりつきたる

 二十五(廿五)の女の心は

 眞實男の子はいらぬもの

 そは悲しくむつかしき玩具ゆえ

 眞實世帯に疲れる時

 生きようか死なうか

 さても侘しきあきらめかや

 眞實友はなつかしけれど

 一人一人の心故……

 

 黍の葉のみんな氣ぜはしい

 やけなそぶりよ

 二十五の女心は

 一切を捨て走りたき思ひなり

 片瞳をつむり

 片瞳を開らき

 あゝ術もなし

 男の子も欲しや 旅もなつかし

 あゝもせよう

 かうもせよう

 おだまきの糸つれづれに

 二十五の呆然と生き果てし女は

 黍畑のあぜくろに寝ころび

 いっそ深々と眠りたき思ひなり

 

 あゝかくばかり

 二十五の女心の迷ひかな。

 

 詩は空想で時期はずれにも詠めるのかもしれないが、黍はモロコシ、稲科の一年生作物であり季語は秋である。この初出以後の詩では〔男の子〕を「男」と直しており、今井への書簡では最近の作としてあるが、のちに述べるように初恋の岡野軍一と別れた時期は大正12年春、初作はズバリその年の秋、震災後に帰尾したときだろう。

 このとき数えで芙美子は21歳、そして〔二十五〕を「はたち」と詠んだに違いない。

 〔二十五〕と書き『女人藝術』で初出させた昭和3年、芙美子は数え26歳だったはずである。そして、このときも一つ誤魔化していたというのが真相であろう。

 〔一九二六〕と『続放浪記』に書いたのは、時期設定の故であろうか。また『蒼馬を見たり』所収時に〔一九二八、九〕(昭和3年9月)としたのは、本来10月あたりにしたいところ『女人藝術』では8月に出しているので季語とのからみ、苦肉の〔九〕ではなかったか。

 そうはずしてはいないと思うが、ここはすこし深読み過ぎたかもしれない。

 

 その別れの頃の詩に「はたちのころ」というのがある。

 昭和8年の第二詩集『面影』や、昭和14年出された『生活詩集』にも載せられた詩であるが、それを『面影』から引く。

 

 ─はたちのころ─

 

 或夜ガス燈を見てゐたら

 星が一つ落ちて来た

 その星には北海道のスタンプが押してあった。

 

 厚岸は東京より寒いところです

 氷の上を白鳥が飛んでゐる

 おまえは苦労してるんぢゃないかえ

 

 菜の花のやうなお母さんの音信

 私は悲しくなって家へ飛び込んだ

 瞼の中で何かグヂグヂ動いてゐる

 妙な錯覺で切なくなると

 柱へどんと體をぶっつけてみた。

 

 あんな男の子を産んぢゃいけないと思って─

 ガス燈が風でハタハタすると

 星の手紙がポンポン彈じけて

 厚岸の空へすうと飛んで行ってしまった。

 

 そこで初戀は馬の簪よと私は唱ったのです。

 

 この詩の場面に相当する部分、『続放浪記』の「1月×日」当該部分を、参考のために文泉堂『林芙美子全集』から引いてみる。

 ──私は男と初めて東京へ行った一年あまりの生活の事を思ひ出した。晩春五月のことだった。散歩に行った雑司ヶ谷の墓地で、何度もお腹をぶっつけては泣いた私の姿を思ひ出すなり。梨のつぶてのやうに、私一人を東京においてけぼりにすると、いゝかげんな音信しかよこさない男だった。あんなひとの子供を産んぢゃ困ると思った私は、何もかもが旅空でおそろしくなって、私は走って行っては墓石に腹をドシンドシンぶっつけてゐたのだ。

 文面からこれは決して懐妊を示すものではなさそうであり、もし妊娠していても、との行動のように受け止められる。それはともかく、これは大正12年春の初恋破綻の少しのち、芙美子は数え21歳、ここにも一つの誤魔化しが見えるのだ。

 

 ところで、詩文最後の行〔初戀は馬の簪よ〕に目が止まったので、少し触れておく。

 実父の古里の思い出がよく記されてある「耳輪のついた馬」の初出は、昭和8年1月1日発刊『改造』第15巻第1号・新年号と2月号であるが、その冒頭はこうである。

 ──病床の薬の箱に馬がわらってゐたその馬は耳輪をつけて簪をさしてゐた

 この一文で、「耳輪のついた馬」という題の命名が良く分かる。

 だが、昭和月刊行の改造社『清貧の書』ではその冒頭が題名頁に移され〔さしてゐた〕が〔してゐた〕に改稿される。その後の昭和15年11月の実業之日本社『林芙美子短編集 上巻』ではこの一文と最初の一節が削除されており、それが『林芙美子全集』として引き継がれ今に伝えられているのだ。

 芙美子は執筆時に何十枚も書き上げたあとに最初の何頁かを切り落としたりする手法を使ったというから、この「耳輪のついた馬」は発表後にそうした操作がされたものと思うが、私には文学的な意図は分からない。こうした作品の改稿は芙美子著作に多く見うけられるが、初期の詩に以後の作品の気配が見られるのも面白い、と思った。

 

 とは言え、今の課題は「一つ」の年齢詐称である。

 彼女は間違いなく周囲に偽っていた。その時期を推察するに、それは遅くとも上京後すぐであり、初期作品の『放浪記』「風琴と魚の町」に就学時期の年齢を正しく書いてはいるが、のちに詐称の作為が見られる。そして、文壇にのぼったあとの自序的作品、「一人の生涯」「思ひ出の記」そして「文学的自叙伝」などでは過去をあやふやにし、ずっと一つ下で通したのだ。

 

 たった一つの芙美子年齢詐称に関して、多くの筆を費やしてしまった。

 私はこれまでに紹介してきたこの一つの年齢詐称が、実父・宮田麻太郎にしたためた手紙に表れていたと断言するつもりはない。しかし、それを実父宛とはいえ書簡にふと書いたとしても、少なくも私は違和感を覚えないのである。

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Satoh Kouhei
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on Jan 05, 2003
評論・研究
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