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お店での支払い時によく聞く、500円から;1,000円から;10,000円から
の格助詞〜から。使い方は正しいのでしょうか?お金の場合では、〜より
のほうがいいように思うのですが、よろしくお願いいたします。
A まず格助詞「より」と「から」の違いですが、現代では「より」のほうがいくぶん文語的で古い感じをもっているようで、年配の方でも改まった場面、もしくは決まった場面(パーティなどの案内状に「自 午後三時」などと書いてある場合なども含む)に使用が限られるようです。お金の場合に「より」のほうが良いように感じられるのは、おそらく金銭を業務として扱うような(改まった)場合であるからであると思われます。ただ、これはニュアンス的な問題で、個人差や地域差、社会差も大きく関係しており、「より」が正しい、と言うことはできません。
 次に「お店での支払い時によく聞く…」とのことですが、これは最近(いろんな意味で)流行の「1000円からお預かりいたします」用法のことでしょうか。方言学の井上史雄博士は、本来この位置には無助詞でいいはずであるが、
(1) 「ぼく京都行くよ」などのように無助詞であればくだけた言い方に聞こえてしまう、
(2) 「1000円いただきます」などと言われると「あれっ、お釣りは・・・!?」と思わせかねない、
(3) 「1万円でお願いします」の「で」を「から」で言う方言がある、などの理由により、使用範囲の広い「から」を使うようになったのではないかと分析されています。
 たしかに「1000円『を』お預かりいたします」などと言うとかなり直接的な感じがしますね。ご指摘の「より」のほうがより「改まった」感が出るかもしれませんが、あまり口語的ではないことから、「から」のほうが選ばれたのかもしれません。 −桃−

よく一生懸命と 一所懸命が活字で目に飛び込んできます。どちらが正しいのでしょうか? どちらも正しいのでしょうか? 使い分けの基準があるのでしょうか?
Aどちらも使えます。「一生懸命」は「一所懸命」から転じました。もともと「一所懸命」は武士がその所領を、命をかけて生活の頼みにしたことから出ています。世論調査では「一生懸命」派が多いようです。語感には個人差がありますが、「命がけでする」よりも、「全力をあげてする」ことの意で、「一生懸命」が好まれて使われているようです。
古い手遊びのなかに、「おてぶし てぶし てぶしのなかは へびのなまやけ かえるのさしみいっちょばこやるから まるめておいで ど?っちだ」というものがあります。 このなかの言葉で、「おてぶし」という言葉の意味がわかりません。手を握ってグーの状態にして遊ぶものなのですが、 「手節・てぶし」では手の節なので、関節のことならば手を握るのがわかりません。「拳・こぶし」のことなのでしょうか? 何から来ている言葉なのかわからないでいます。
A『日本国語大辞典 第2版』(小学館)によると、「てぶし(手節)」の意味は、「手首の関節。手首」のほかに、方言で「手。また、腕。多くののしっていうのに用いられる」と載っています。残念ながら、「拳」の意味には取っていませんでした。「おてぶし てぶし(銭かくし)」は、両手を握って片方に物を隠して当てさせる遊戯、ということなので、広く「手」という意味で使われていると考えて良さそうですね。「手首」に限定して解釈する必要はなさそうです。
ちなみに、歌詞は「てぶしのなかに」「まるめておくれ いーや」というのが一般的なようです。NHK教育TV「日本語であそぼ」の「わらべうたのコーナー」でも、よく取り上げられるそうです。
最近疑問に思ったことなのですが、「いきがって歩く」のいきがってって漢字にするとどういう字なのですか??
そもそもそういう日本語はないのでしょうか?
A「いきがる」は漢字表記では「粋がる」となります。自分が粋だと思って誇らしく振る舞う行為のことです。ちなみに、「粋」は江戸時代町人の生活全般にわたる美意識や美的理念から広がりました。
「買春」をどうして「かいしゅん」と読むのか。
Aこれは、同音の「売春 ばいしゅん」と混同しやすいため、湯桶読みにしたものです。1999年の児童買春・児童ポルノ処罰法成立時には、「子どもに対する買春」を「かいしゅん」と呼んでいます。
お察しのように「市立」を「いちりつ」と読み分けたり、「化学」を「ばけがく」のように意味説明をしている便宜上のものと若干異なり、行為対象で読み方を区別しているようです。
複数を表す「‐ら」の使い方で、犯罪者だけでなく「参列者ら」「医師ら」とするのは失礼ではないか。皇族には「‐方」と言っているのに。
A「ら」は、ご存知のように、一般的に「複数を表す」場合や、「主だった人物を示してほかを略す」ときに使います。したがって、本来はすべてに使用可能です。しかし、「ら」には、このほかにも、「わたしらのできることではない」「おまえらの出る幕ではない」のように、謙そんや見下した意を表す意もありますので、読者の誤解を避けるために、あえて「方」を付けていると思われます。
新聞で「○○さんと娘二人」に見られる「娘」の使い方に違和感があるが。
A新聞表記では、話し言葉と異なり、世帯主または筆頭者に敬称を付記した場合は、以下の付帯する家族名称は敬称の省略が許されます。
「給う」の品詞についてご教示ください。「動詞」「補助動詞」と記載している国語辞典がほとんどですが『広辞苑』では「動詞」「助動詞」となっております。 また新潮社『現代語・古語 新潮国語辞典』「助動詞とは扱わない」とあります。点訳するにあたり文章の切れ続きが異なるため、「補助動詞」と考えるか「助動詞」と考えるかご教示ください。
A『広辞苑』が「給う」を補助動詞としていない理由は『広辞苑』ではそもそも補助動詞という項目がないことによります。文の述語となる動詞を助ける働きをするものはすべて助動詞という分類となっております。それに対して『新潮国語辞典』のほうは助動詞をおもにそれのみでは文を形成できない付属語(反対語は自立語で、名詞・動詞・形容詞などがあります)に限定しているため、動詞としても用いられることのある「給う」を助動詞とは分類していないと考えられます。これは分類基準が異なってくることによる必然的な結果だということができるでしょう。「海に住む」という基準をとるか、生物学上の性質という基準をとるかでクジラやイルカは魚であるかそうでないかが異なるのと似ています。
点訳にあたってですが、実際の話し言葉ではすべて続いていること、点訳する「前」の段階でも(このメールもそうです)すべて続いていることから、どちらかにしないと読むのに混乱をきたすということはないと思われます。しかしもしどちらかに統一されたいのであれば、同じ連用形接続の補助動詞である「?はじめる」「?続ける」「?きる(例:走りきる)」「?だす(例:泣きだす)」などと同じようにされるといいと思います。
最近雑誌等の記事で、「・・・は現在最も期待されている中のひとりです」といった記述をよく見かけるのですが、「最も」がついているのですから、「期待されている中の…」イコール何名かの候補者のいる「グループ」に対して使うのはおかしいのではないかと思うのですがどうでしょうか? この「最も」は個人に対してではなくグループ自体がたくさんあり、そのグループに対して使われているのでしょうか?
Aこの用法はヨーロッパの言葉で多用される構文です。英語を勉強したとき「彼はもっとも優秀な学生の一人です」「日本は世界でもっとも○○な国のひとつです」という翻訳に多少の違和感を覚えられたことがあるかもしれません(これはひとつにはヨーロッパの言葉は名詞の複数形をもつということが関係しているのかもしれません("one of the bests"のように))。しかし日本語においても「期待される」のような客観的基準をもちにくい形容句である場合、「最上級ランクで期待されている」という人々の中の一人である、という解釈が可能となりやすいのではないかと思われます(それゆえ「このクラスで最も背の高い中の一人です」というのはかなり「悪い言い方」に感じられると思います)。中国語その他、名詞の複数形をもたない言語でもこのような言い方はありますので、日本語的にも言語的にも決しておかしな言い方ではないということができるでしょう。
私は今まで、病気が治る時の表現は「快復」を使うと存じておりましたが、最近は、メディアなどで、よく「回復」と表記されるのを目に致します。これは正しい表現なのか、教えていただけませんか?
A正しい表現ですよ。「回復」は、望ましくない状態になったもの、ことが元の状態にもどることですから、「衰弱を回復させる」のようにも使うことができます。「快復」は病気がよくなることですが、すっかり元の状態に戻るというわけではありません。