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観光・特産品
ボンタン
阿久根の特産品の一つである阿久根ボンタン。その紹介をいたします。
ボンタンは阿久根のシンボルとして昭和46年に市の木として制定されました。直径20センチメートル程度になる大型の柑橘類で、阿久根は全国有数の生産量を誇ります。そのようなボンタンの由来については次の4つの説があります。
- その1
- 元禄年間(1688〜1704年)中国、福州の船が阿久根に漂着したとき、船長の謝文旦が原田喜右衛門に苗木を贈ったという説。
- その2
- 寛保のころ(1741〜1744年)阿久根に唐(中国)の船が来たとき唐の通訳であった原田喜右衛門がこの船に乗っていた唐の人から漢種の乳柑(文旦)をもらって帰り、その実を蒔いて育てたという説。
- その3
- 安永のころ(1772〜1781年)中国・広東の商船がひどい波風にあい阿久根に流れ着きました。このときの船長謝文旦が通訳原田喜右衛門に「朱らん」と「白らん」の2個をあたえた。これを原田が育てたという説。
- その4
- 安永元年(1772年) 福建省と長崎の貿易を行っていた謝文旦が商用で阿久根に錨をおろしたとき、倉津番所の通訳原田喜右衛門からていねいな取り扱いをうけた事に感謝し、「朱らん」・「白らん」を贈ったという説。
このようなことからボンタンは漢字で「文旦」と書き、船長謝文旦からとった名前と言われています。
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ボンタンの市内の主な生産地は、尾崎地区、弓木野地区で、赤瀬川の一部でも栽培されています。
ボンタンの花は4月下旬から5月上旬にかけて咲き始め、12月から収穫が始まり、3月上旬まで出荷されます。
また、12月にはボンタン園を開放する「ボンタン狩り」が行われます。
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阿久根ボンタンの恩人
- 本田小藤太
本田小藤太は、安政三年(1856年)波留の郷士孫之丞の長男として生まれた。小藤太は、生まれつき素直で「仏の小藤太」と呼ばれるほど思いやり深く、温厚な性格であった。 〜中略〜 小藤太家でも何本かの文旦が植えられていたが、その中の一本に、他のものと比較にならぬ程味がよく、きれいで実の離れも良い実をつける木があった。 このことが評判になり、あちこちの人が接木にする穂木を貰いに来ると、小藤太はこころよく枝を切って与えていた。その結果阿久根の文旦は飛躍的に改良されることとなった。
人々は日ごろから小藤太のことを、こつだどん、と呼んで親しんでいたので、この改良された文旦を「本田ぼんたん」「こつだぼんたん」と呼ぶようになった。 また、本田家のボンタンの親木はその後も永く栄えていたが、昭和二十年(1945年)空襲に遭い、消失してしまった。
このこつだ文旦は、今では阿久根文旦として市の特産品となり、農家の収入源として広く栽培されるようになっている。 阿久根文旦改良の恩人、小藤太は昭和七年(1932年)波留の実家で七十六歳の生涯を閉じた。 (「阿久根の人物」阿久根市発行より)
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ボンタンは実だけでなく皮も食べることができます。
- ボンタンの上の部分を切り、深さ1〜2センチで皮を十文字(四等分)または6等分に切る。
- 切り口から親指をつっこみ皮と実を離し、中身を取り出す。
- 実を四方に開き、一房づつ離して種を取り出し食べる。
家庭で出来る「ボンタン漬け」
- 皮を適当な大きさに切る。(皮を6等分したらその半分くらいが目安。食べやすい大きさに。)
- 高温で10〜20分ぐらい水炊きをする。
(少し色が変わるくらいまで)
- 苦味と油成分を取り除くため、一昼夜水にさらす。
- 軽く手で絞り、水分をとる
- その皮と同じ重さの砂糖と水あめ(大さじ1杯くらい)を準備し、砂糖・水あめといっしょに高温で約1時間程度煮込む。
(ボンタンの水分が出て泡状になるが、焦げ目が出ないように充分注意する)
- その後、ザルなどにあげ、少し温かさが残っているうちにグラニュー糖をまぶす。
(あまり温かいと糖分が溶けてしまい、冷めすぎると糖分が付かないので注意)
- 一昼夜乾燥させてできあがり。
- 注意する点
-
- 鍋が焦げないようにかき混ぜること
- 水あめは少々
- 乾燥は充分行うこと
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