■□動物園におけるインタープリテーション
上野動物園の歴史ツアーと動物解説員によるガイドツアー(後編)
「動物園の歴史ガイドツアー」は、
明治15年の開園から今日までの上野動物園の歴史について、
園内に点在する史跡や動物にまつわるエピソードからたどるもので、
東園を中心に約1時間実施されるものです。
毎年3回程度実施されるこのガイドツアーは、
普段、動物たちの生態をわかりやすく来園者に解説する
「動物解説員」により進行されます。
聞くところによると、「動物園の歴史ガイドツアー」は
動物解説員のなかでも
ベテランと言われている解説員が担当するそうです。
■寛永寺五重塔とタンチョウ
ガイドツアーは集合場所に指定された寛永寺五重塔前から始まりです。
寛永8年(1631)
下総国佐倉城主、土井利勝の寄進によって建立された五重塔は、
花見客の失火により焼失してしまいます。
しかし利勝により再び造営、
戊辰戦争の戦火も免れ、今日に至っています。
平成に入ってから、この景観を活かした展示「日本の動物」が計画、
タンチョウなど日本の動物を配した整備が行われました。
桜の咲くシーズンには、
桜と五重塔をバックにタンチョウを撮影しようと
カメラを手にした多くの人々が詰め掛けています。
■ゾウに関わるエピソード
明治21年、始めてのゾウが来園して以来、
上野動物園では14頭のアジアゾウが飼育されています。
このガイドツアーで唯一、動物舎の前で実施されたゾウ舎での解説は、
(1)関東大震災後に、浅草花屋敷に下賜されたオスのインドゾウ、
(2)昭和29年、日本橋高島屋デパートの屋上で飼われていた
ゾウ「たかこ」の上野動物園引越しの顛末、
(3)昭和42年のインディラ脱走と当時療養中だったにもかかわらず
収容に協力し、後日死亡した飼育係
などについてのエピソードが紹介されました。
このようにゾウに関わる思い出やエピソードに事欠かないのは、
概して寿命が長いことも原因にあげられるますが、
動物園での人気の高さと、人々の思い入れの深さが
影響していると改めて感じました。
■園内の聖域 藤堂家墓地
動物慰霊碑のちょうど真後ろには、
安土桃山から江戸前期に活躍した武将、
藤堂高虎と藤堂家累代のお墓があります。
この場所はもともと高虎の下屋敷の跡に建てられた菩提寺、
寒松院があったところで、
東西約26m、南北約38.5m石塀に囲まれた敷地に、
大小17基の墓が並んでいます。
墓地西側、東に向かって累代当主の墓9基が並んでおり、
高虎はその中央に眠っています。
墓地は園内にあるものの、動物園の敷地面積からは除外され、
普段も人が入れない一種の聖域として扱われています
■動物慰霊碑と猛獣処分
動物園で死んだ動物は、解剖などで死因を調べた後、
国立科学博物館等で標本処理されるもの以外は、
全て焼却処分されます。
ですから慰霊碑付近に動物が埋葬されるわけではないそうです。
解説では慰霊碑の意匠(慰霊碑にあるリボンは平和を象徴し、
碑にとまるフクロウは思慮深い動物として
他の動物を慰める役割を持つ)や、
昭和18年、当時の東京都長官が戦時下の国威高揚を狙って
実施した猛獣処分(14種27頭が対象)など、
動物園が政治に利用された、
最も象徴的な出来事についても触れていきました。
■旧正門と明治29年当時の上野公園動物園之図
樹齢300年の大ケヤキを過ぎたあたりに、
明治40年代に建設された旧正門が今もなお保存されています。
ちなみに正門の名称は、この門だけにしか使われていないそうで、
チケットを販売している上野公園に面した門は「表門」、
不忍通りに面した門は「池之端門」と呼ばれます。
旧正門の対面には、明治29年当時の動物園の敷地を俯瞰的に描いた
『上野公園動物園之図』を複製した屋外パネルが設置されています。
明治29年は、日清戦争が終結した翌年にあたり、
絵図の中にも時代の空気が読み取れる動物「しふぞう」が
しっかり描かれています。
「尻尾はロバ、角はシカ、体はラクダ、ひずめは牛」
と言った風体の「しふぞう」は、
中国の清王朝で密かに飼われていたものが
日清戦争の戦利品として日本に持ち込まれたものです。
この「しふぞう」の影響で、
当時、年間30万人程度の来園者が50万人に膨れ上がったそうです。
■閑々亭(かんかんてい)とクロヒョウ事件
藤堂高虎の屋敷跡に建立された東照宮に将軍が参詣する際、
休憩する場所として建てられた閑々亭。
皇室のお休み所としても利用された、この由緒ある場所は、
昭和11年の三大事件のひとつ「クロヒョウ事件」の舞台として
一躍有名になりました。
「クロヒョウ事件」は、
シャム(現在のタイ)から連れてこられたメスのクロヒョウが、
人に不慣れで全く運動場に出ないため、
夜間、寝室と運動場の仕切りを開け放しにしておいたところ、
わずかな隙間から脱走してしまった事件です。
閑々亭裏の仙川(せんがわ)上水の排水溝に逃げ込んだクロヒョウを
700人もの人間が様々な方法で捕獲を試みたものの、
ことごとく失敗に終わり。
最終的には、一人の人間がところてんのように
クロヒョウを押し出す形で捕獲に成功しました。
ちなみにクロヒョウ事件以外の三大ニュースは
2.26事件と阿部定事件です。
■黒川翁記念碑と初代園長について
ガイドツアーは、
こもれびの小径の付近にある黒川翁記念碑で終了します。
黒川義太郎は昭和8年までの40年以上の間、
上野動物園の獣医を勤めた人物で、
記念碑でも動物園事業の祖として称えられています。
この周辺は開園当初の面影を色濃く残している場所で、
何気なく敷かれているレンガも120年前のままだそうです。
上野動物園の正式な職制として園長おかれたのは
クロヒョウ事件の翌年にあたる昭和12年、
古賀忠道がその任にあたったことが始まりとされていますが、
博物館の天蚕部長が動物園長を兼務していたことや
動物園監督という職が園長とも解釈できることから
初代園長が誰であったのか定義するのは難しいのだそうです。
■おわりに
最近、博物館と政治の関わりについて
歴史的なアプローチによる研究が盛んです。
上野動物園100周年を契機に編纂した『上野動物園百年史』の中でも、
動物園と政治に関連した記述を多く見ることができます。
上野動物園では、この過去を歴史研究だけにとどめるのではなく、
動物園が政治の道具として二度と使われないよう、
来園者へのメッセージとして
ガイドツアーの中で積極的に活用しています。
生きものを扱う難しさや、
一歩間違えると生命の危険と隣り合わせている状況。
120年を経過した現在においても
同じ博物館と定義されている他の施設と比べ、
あきらかに動物園はシビアな状況下で、運営されています。
上野動物園では120年の歴史があるから
エピソードがたくさんあるわけでなく、
失敗や負の遺産を含め、積極的な人の関わりがあるからこそ
人々の心をうつようなエピソードが生まれると感じました。
■参考文献
恩賜上野動物園編(1982):上野動物園百年史:第一法規出版
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