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任侠・実録

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歴史

任侠路線

1963年(昭和38年)時代劇映画が衰退の一途を辿る中、岡田茂所長(当時/元・名誉会長)の号令の下、東京撮影所から野心的な傑作『人生劇場 飛車角』が生まれます。大正時代を舞台に、尾崎士郎の原作では脇役である侠客・飛車角を主役に描いたこの作品は、着流しの鶴田浩二の悲壮感溢れるアクション、佐久間良子の体当たりの演技、そして沢島忠監督の斬新な演出が相まって大ヒットし、後に続く“任侠路線”の先駆けとなりました。

翌64年(昭和39年)京都撮影所で、「飛車角」で強烈な存在感を示した高倉健が主演、中村錦之助が競演した『日本侠客伝』が制作されます。翌65年には、高倉健主演の『昭和残侠伝』が封切られ、そのいずれもが熱狂的に支持され、続々とシリーズ化。これら一群の“着流しスタイルのヒーロー”映画は“東映任侠路線”と呼ばれ、一世を風靡します。

任侠映画からはまた、幾多のヒット曲が生まれます。村田英雄「人生劇場」、高倉健「唐獅子牡丹」、そして主演の北島三郎が自ら主題歌を歌う『兄弟仁義(昭和41年)』など、数々の名曲が大衆の心を掴みました。一方で『博奕打ち 総長賭博(昭和43年)』の芸術性が作家・三島由紀夫から激賞されたり、70年安保闘争に身を投じた学生たちからも、任侠映画のアウトロー像は支持されました。当時、オールナイト興行の新宿東映には、毎週1万人もの観客が押し寄せ「映画館の扉が閉まらない」盛況をみせました。

1968年(昭和43年)、女性版の任侠映画として企画された『緋牡丹博徒』が大ヒットします。熊本弁で啖呵を切る“お竜さん”こと藤純子に観客は熱狂します。「緋牡丹博徒」は、72年の藤純子引退記念大作『関東緋桜一家』まで、9本が制作されるヒットシリーズとなりました。

現代アクション・実録路線

東映創立当初、京都撮影所が時代劇を次々と送り出す一方、東京撮影所は主に現代劇をてがけました。東映以前からの人気シリーズ、片岡千恵蔵の「多羅尾伴内」「にっぽんGメン」を引き継いだ他、1956年から64年まで24本が制作された『警視庁物語』など、後の現代アクション・刑事ドラマの原点がこの時期、誕生します。

1961年(昭和36年)、東京撮影所所長に就任した岡田茂は、第二東映(ニュー東映)などで頭角を現していた新人監督を重用する施策を打ち出し、売出し中のエネルギッシュな俳優と組んだ、『花と嵐とギャング(石井輝夫監督)』『ファンキーハットの快男児(深作欣二監督)』などの作品群が誕生していきます。なかでも『網走番外地シリーズ(65~)』は、任侠路線でスター街道を歩みだした、高倉健のもうひとつの看板路線となりました。

60年代後半になると、任侠路線人気に翳りが見え始める一方で、『不良番長(昭和43年)』『女番長ブルース 牝蜂の逆襲(昭和46年)』など“不良性感度”溢れたアクション映画群が人気を博します。また『現代やくざ(昭和44年)』シリーズ、『日本暗殺秘録(昭和44年)』など、重厚でリアリズムに満ちた映画も誕生します。

この流れが決定的になったのが、1973年1月に公開された『仁義なき戦い』です。旧来の任侠映画とはちがい、ひとりのスターにスポットの当たらない群像劇、実際の抗争に基づいた生々しいストーリー、そして手持ちカメラを用いたスピード感のあるアクションなどが、リアルで鮮烈な印象を放ち、続編シリーズも含めた“実録路線”が、その後の東映のイメージを形作っていきます。

また、この映画に主演した菅原文太を主演に迎えた『トラック野郎(昭和50年)』も大ヒットシリーズとなり、“ユーモア・アクション”という新路線も開拓されました。

実録路線はその後、3部作の大作『やくざ戦争 日本の首領(昭和52年)』や、『鬼龍院花子の生涯(昭和57年)』に代表される女性文芸映画を経て、『極道の妻たち(昭和61年)』シリーズに引き継がれていきます。一方で東京撮影所を中心にしたハードアクション路線は、『ビー・バップ・ハイスクール(昭和60年)』という大ヒットシリーズや、『極道(やくざ)渡世の素敵な面々(昭和63年)』から始まる“ネオやくざ路線”に引き継がれ、後にVシネマという新ジャンルを切り開いていきます。