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ぷらっと沿線紀行

華ありき 嵐もありき 北鉄浅野川線

2009年6月27日

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写真沿線の船泊まりには、梅雨の晴れ間の光を受けた漁船が揺れていた=石川県内灘町写真「ありがとうございました」。通学の小学生たちが、運転士に大声でお礼を言い降りていった=金沢市写真海岸沿いの砂丘には、風紋が刻まれていた=石川県内灘町写真今も残る米軍の射撃指揮所だった建物=石川県内灘町写真かつて海水浴客でにぎわった海岸では、つりや水上バイクを楽しむ人の姿が見られた=石川県内灘町地図   フォトギャラリー

 「北陸の宝塚」。そう呼ばれた一大レジャーランドの跡地には、住宅団地が広がっている。

 金沢市近郊の海岸沿いの砂丘に、敷地約20万平方メートルの「粟崎遊園」が開園したのは1925(大正14)年。遊園のあった石川県内灘村(現内灘町)と金沢市街地を結んだのが、同年に開通した北陸鉄道浅野川線の前身、浅野川電鉄だった。今でも沿線の人たちは当時の愛称で「浅電」と呼ぶ。

 遊園には500人収容の大劇場、動物園などがあり、少女歌劇が人気を呼んだ。町の資料によると、カンカン帽姿でのタップダンスや、男役スターが活躍するレビューに大歓声が起きた。親子連れや団体客のほか、ロイド眼鏡のモダンボーイや短髪のモダンガールで浅電はすし詰めだったという。

 関西では、阪急電鉄の創始者・小林一三が1914(大正3)年、後の宝塚歌劇団を創設。影響を受けた浅電の発起人の一人で、木材商の平沢嘉太郎(1864〜1932)が私財を投じて遊園を造った。平沢は遊園を「わしの玉手箱」と呼んで愛した。だが、戦時色が強まるにつれ人々の足は遠のき、1941(昭和16)年に閉園。施設は解体され、「砂上の楼閣」のごとく消えた。

 夢とモダンを運んだ鉄道は戦後、海岸沿いにできた米軍施設へ軍事物資を運ぶようになり、浜を追われた住民は激しく反発した。「内灘闘争」の始まりだった。

■時は去り 時は来る。 風よ

 焼けた砂の熱さがじりじりと伝わった。それでも女たちは座り込みを続けた。「自分たちが村を守らんならん」。朝鮮戦争のただ中、北陸鉄道社員だった杉村竹子さん(77)はそんな思いで内灘闘争に加わった。まだ20歳だった。

 半世紀余り前、内灘村は砂丘と防風林が広がり、石川県内で最も貧しいといわれた村だった。男は出稼ぎに行き、女は地引き網で取れたイワシやイカを入れたかごを担いで浅野川線の列車に乗り、金沢まで行商に出た。鮮魚のにおいがたちこめる車内で弁当を広げ、乗務員におむすびをわけた。

     ◇

 その砂丘が米軍の砲弾試射場として接収されることが1952(昭和27)年に決まり、六つの集落が追い出された。兵舎や弾薬庫、砲弾の行方を確認する観測所などが建てられ、女たちの行商の足となった鉄路に、砲弾や軍用の生活資材を積んだ貨車が走った。

 翌年6月と7月、北陸鉄道労組は2回にわたって米軍の物資輸送を拒否してストを実施。「本当に応援してくれるなら、アメリカの物資を運ぶな」。試射場内に座り込む「村のかあちゃん連中の声がきっかけやった」と、当時の同労組書記長・金岩外雄さん(83)は振り返る。米軍はストをきっかけにトラック輸送に切り替えた。

 「補償を得るため試射場を受け入れよう」と考える賛成派の村民も増え、村を二つに引き裂いた。57年3月、米軍は試射場を返還し、闘争は収束した。「平和を勝ち取ったと言う人もいるが、わだかまりを生んだだけだとする人もいる。今も一概に闘争を評価できません」。内灘町教育委員会の竹村文子さん(57)は話す。

     ◇

 総額22億4千万円に上った補償金(「内灘町史」)で道路が舗装、砂丘が開拓され、内灘駅を中心に住宅整備が進むきっかけになった。村から町になり、人口は闘争時の4倍になった。

 浅野川線は現在、金沢駅から内灘駅まで計12駅、6.8キロ。内灘町は金沢のベッドタウンとなり、同線は通勤・通学客でにぎわう。

 町のシンボルは舞い降りる白鳥を模したとされる内灘大橋。砂浜に沈む夕日と橋のたたずまいがロマンチックだと今年3月、NPO法人・地域活性化支援センター(静岡市)から「恋人の聖地」に選ばれた。町と町商工会は「ラブ&ビーチ」をキャッチフレーズに掲げ、観光PRに躍起だ。「カップルで訪れて記念撮影ができる、そんなモニュメントも置きたい」と町商工会の加納渉(わたる)さん(44)。

 内灘大橋のほど近くに、こぢんまりと立つ町の歴史民俗資料館「風と砂の館」には、粟崎遊園のジオラマや浅野川電鉄時代の切符、内灘闘争で使われたむしろ旗などが陳列されている。

 館内ガイドの多田美代さん(60)は思う。「愛とロマンの遊園が戦争でなくなり、試射場を巡って闘争が起き、米軍が去って今がある。まるで砂丘の起伏のよう」

(文・角谷 陽子 写真・寺脇 毅)

鉄ちゃんの聞きかじり〈かつて海側に夏季限定駅〉

 北陸鉄道浅野川線はすべての電車が各駅停車。北鉄金沢駅から乗車して四つ目の「割出(わりだし)駅」は全国で、あいうえお順で最後の駅名だ。「駅名事典」(中央書院)によると、1番最初に登場する駅名は「あいおい」と読む「相生駅」(兵庫県と岐阜県の2駅)と「相老駅」(群馬県)の計3駅ある。

 浅野川線の急行は06年のダイヤ改定で廃止された。半数の6駅に停車し、所要時間は各停より4分短いだけの13分だった。

 粟ケ崎駅手前にかかる橋は、1929(昭和4)年に完成。時速15キロで徐行運転する。「ゆっくり走るので、沿線でシャッターチャンスが多い」とカメラ好きや鉄道ファンに好評だ。

 かつては終点の内灘駅からさらに海側に夏季だけ営業する粟ケ崎海岸駅があり、海水浴客を運んだ。海水浴場が金沢港の整備で閉鎖され、内灘―粟ケ崎海岸駅間も74年に廃止された。

探索コース

 内灘大橋まで、内灘駅から北陸鉄道バスで約10分、町のコミュニティーバスで約25分。たもとには河北潟や金沢の景色を一望できる道の駅「内灘サンセットパーク」があり、近くの牧場の牛からしぼった牛乳と、特製の「はちみつソフトクリーム」が楽しめる。橋を渡ると町の歴史民俗資料館「風と砂の館」(入館料一般200円、小中学生100円)。

     ◇

 ぷらっと沿線紀行は、100回目を迎えました。これを記念し読者の皆様からの反響が多かった10回分の写真にあわせて、担当カメラマンが思い出を語るスライドショーを掲載しました。

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