◆第20回三島賞受賞作−平成19年−

佐藤友哉「1000の小説とバックベアード」 新潮社刊 (平成19・3)



◆受賞作・冒頭

ヴァレリイを読めば、ヴァレリィ。モンテーニュを読めば、モンテーニュ。パスカルを読めば、パスカル。自殺の許可は、完全に幸福な人にのみ与えられるってさ。これもヴァレリイ。(渡り鳥/太宰治)


   第1章 約一万四千冊の本たちから遠く離されて

     1 作家志望者はまず無職になれ

 仕事をうしない、着弾点をわざと外されたような気分になったその日、僕は二十七歳になったけれど、家族からは愛されて育ったし、自分を嫌う子供じみた幸福時代は終わっていたので、コンビニエンスストアでショートケーキとワインを買って誕生日を祝おうとしたが、蝋燭がなかった。
 誕生日ご愁傷さま。
 アパートに戻った瞬間、チキンを買い忘れたことに気づく。ケーキとワインだけではどうも物足りない。だけどもう一度出かけるのは面倒だし、真夏にチキンは不釣り合いなので、冷蔵庫から生ハムとカットチーズを取り出して、八畳間の床に広げた。
 二十七歳の誕生日に自由にチキンを食べられないのは悲劇だ。
 さらに二十七歳の誕生日に仕事をクビになるのもまた悲劇だ。
 一日二百本もの煙草を喫っていた小説家、石川淳は、体操して、執筆して、飲酒して、牛肉を六百グラム食べて、奥さんと楽しくくらしていたが、死の数週間前に入院し、昏睡状態に入り、そのまま死んだ。死因は肺癌による呼吸不全。享年八十八歳。最後まで健康的に生き、仕事をつづけ、甘い牛肉を喰らい、さほど苦しむことなく、家族に看取られて死んだ。




◆候補作

西川美和「ゆれる」
本谷有希子「生きてるだけで、愛。」
柴崎友香「また会う日まで」
いしいしんじ「みずうみ」




◆選評(抜粋)

筒井康隆
 受賞した佐藤友哉「1000の小説とバックベアード」も、やはり欠点の多い作品である。舞台背景の陳腐さ、批評するために文学を殊さら軽く見ているなどである。実際この作者に、例えば吉行淳之介などの評価はできまいと思えるほどに従来の文学に関する素養は乏しい。しかし逆に言えば、ここにあるゲーム感覚に満ちた、軽がるとした批評精神によるライトノベル的戯作は、自然主義リアリズムを金科玉条にしている今までの文学者にはなし得なかったことである。

宮本輝
 私は西川美和氏の『ゆれる』に最も高い点をつけたが、受賞作として強く推すにはためらいがあった。ノべライゼーションとして失敗しているという意見もあったが、私がためらったのはそこのところではなく、図式的でありすぎる点だ。とりわけ、後半の三分の一は、きっとこうなるであろうと予感したとおりに物語が進んで行き、このように終わるであろうと思ったとおりに終わる。その物語への疑いのなさが、『ゆれる』という小説を、古典的な家族劇と評させてしまうのだと思う。

高樹のぶ子
 受賞作「1000の小説とバックベアード」は、「擬人化された概念」が小説的物語を織りなしてはいるが、批評の変形あるいは異形として読んだ。(中略)批評文学という言葉はあるが批評小説というものもあるのだろうか、と考えさせられた。文学論が楽しいひとにとっては興奮する場面もあるのだろう。エネルギーと確信性は候補作中一番だったので、他の選考委員の意見に従って受賞に賛成した。

福田和也
 佐藤氏は貧しい。文学史の援用も危なっかしい。けれども、貧しいからこその必死さがあり、書かれるべき必然性が露出している。その乏しさだけが、今日、「日本文学」についての真剣な問いを可能にしている。ここにはまぎれもない叙情とロマンチシズムがある。あまりに貧しいとしても。文芸誌的スタイルでなく、『メフィスト』誌でのデビュー時の探偵小説的構成に戻って、「日本文学」を捜索した企図も頼もしいものだ。

島田雅彦
佐藤の文学あるいは文学史への向かい合い方は確かに稚拙である。勘違いも多々ある。しかし、その勘違いが笑える。風車を敵と見誤り、突撃してゆくドン・キホーテはおのが勘違いに気付いていないが、語り手はそれを読者に開陳する。そこに自己批評が生まれる。(中略)『若い芸術家の肖像』の二十一世紀ヴァージョンとして、また青春小説の裏ヴァージョンとして、子どもの教育にはうってつけの作品だと思った。




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