◆第17回三島賞受賞作−平成16年−

矢作俊彦「ららら科學の子」 文芸春秋刊 (平成15・9)



◆受賞作・冒頭

     1

 こうして彼は、新幹線“こだま”で日本に帰った。東京駅で降りると、何より先に公衆電話を探した。
 誰でもいい、誰かと話したかった。松崎のバスターミナルで買った西伊豆観光の紙袋を足のあいだに挟んで、電話の前に立った。伊豆で見た電話機は黄緑だったが、ここに並んでいるものはずっと小さく、品のいいグレーだった。まるでヨーロッパみたいだと彼は思った。もちろん、ヨーロッパなど一度も行ったことはなかった。ヨーロッパとたとえて、具体的に思い浮かぶものも、今はもう何ひとつなかった。彼は鼻を鳴らした。
 三島駅で買ったテレホンカードを出した。カードの使い方は、蛇頭に教えられていた。
 さて誰にかけるか、どちらにしろ相手は三人しかいなかった。電話帳は何十年も前に焼き捨ててしまった。暗記していた十いくつかの番号を、ときどき思い出し思い出し、忘れないよう頭のなかで復唱してきた。その記憶もひとつ消えふたつ消え、今は三つしか残っていない。
 カードを入れ、最初のひとつを指でなぞった。自宅の番号だ。やはり通じない。東京まで行けば変わるかと思ったが、同じことだ。受話器には音もない。何か間違えたのだろうか。溶けた鉛のような冷や汗が、背中をとろりと伝った。思わずあたりをうかがった。




◆候補作

いしいしんじ「プラネタリウムのふたご」
安達千夏「おはなしの日」
嶽本野ばら「ロリヰタ。」
鹿島田真希「白バラ四姉妹殺人事件」




◆選評(抜粋)

筒井康隆
 矢作俊彦「ららら科學の子」は、ハードボイルド時代からの文章のキレや情熱はいささかも衰えてはいず、静かに感情を昂ぶらせる場面の技巧はますます冴え、「この年齢になると、自分の癖ほど怖いものはないや」という科白が書ける年輪の厚みが加わっている。(中略)「気分はもう戦争」以来のファンである小生にとって彼の受賞は、あまりにも遅きに失した嫌いがあるとは言え、まことに喜ばしい。

宮本輝
 今回、ほぼ満場一致という形で受賞作となった『ららら科學の子』の行間のあちこち、さりげない一行、もしくは数行に、短い期間における矢作俊彦氏の作家としての見事な発酵を見て感慨深かった。(中略)なによりも小説として面白い。深読みは、あとからついてくる。そのことを改めて思い知らさせる作品だと思う。

高樹のぶ子
『ららら科學の子』は文句なく面白いし、他の候補作の中に置けば持ち重りは一番だ。(中略)若い人たちがこんなオジさんたちの三十年をどう思うか、知りたい。バカじゃん、と言われたら、そうですね、と素直に笑えるけれど、カッコイイ、と言われたら立つ瀬がない。そう、この作品の最後が私には気に入らない。カッコ良すぎる。金にまみれ快楽に汚れ、三十年の人生の空白を後悔し、小市民の切れっ端となり果てて死んでいって貰いたかった。

福田和也
『ららら科學の子』矢作俊彦。現代日本文学の一方の巨匠と呼ぶべき筆者を、候補とする事への違和感を表明する委員もおり、私もこの作者にたいして「選考」という立場で臨む事への畏れがあった。作品自体は、チャンドラー流のハードボイルド小説を文明批評の手法に転化してきた著者の集大成とすべき作品であり、近年の日本文学の成果であろう。受賞を機として、より多くの読者が、本作を手に取ることを願っている。

島田雅彦
全体として矢作氏の独壇場たるハードボイルドの筆致でクールにまとめられているが、そこに七〇年代へのノスタルジーと現代日本への社会批評を交差させることで、独特の遠近感を醸すことに成功している。タイトルと設定を発想した時点で、社会批評をエンターテイメントにするこの試みは成功を約束されていた。きっと七〇年代と現代のディスコミュニケーションもジェネレーションが違う者同士の互いへの無関心によって、実際にはさしたる問題にはならないのであろう。




■ひとつ前にもどる