子どもの虐待
−虐待増加論への疑問と「子ども」の誕生−
九州保健福祉大学保健科学部 大堂 庄三 出典:宮崎県小児科医会会報(平成13年12月)

 1970年代までは,わが国では子どもの虐待は一般の関心を集めることもなく,ジャーナリズムでとりあげられることもほとんどなかった。まれに新聞紙上に報道されることがあっても,自分の子どもを虐待するような親は「鬼」か「犬畜生」であるとして,人一般の問題となることはなかったのである。しかしこの10年ほど前からジャーナリズムによって,漸次報道される機会が多くなった。また児童相談所の相談件数の増加の報告を根拠にしてのことと思われるが,一部文化人による「児童虐待激増論」が週刊誌や新聞に掲載されるようになった。その原因は,社会環境の劣悪化にあるとされている。
 筆者は30年程前に虐待された男児例を経験したのを機に,一小児科医として子どもの虐待に関心を寄せてきた。その結果では,子どもの虐待は古い時代ほど日常的に行われていた。多くの報道に反し,少なくともわが国では子どもの虐待を起こしにくくする社会・文化的要因が増してきており,子どもの虐待増加の根拠はないと考えている。
 しかし,私たちの弱者に対する暴力への衝動は「薄いベニヤ板によってかろうじて覆われて」いるに過ぎず,「自分が暴力とまったく縁がないという仮定に浸っていることは危険なこと」(Gonzalez−Crussi,F:解剖学者のノート,1989)であり,児童虐待激増論と同様に誤りである。子どもへの暴力の原因を外部に求めるのではなく,私たちの本然のなかに潜む「不穏な傾向」(Coontz,S:家族という神話 1998)を直視することこそが子ども虐待理解の出発点であると考える。

1.子ども虐待のとらえ方
 暴力と攻撃性という点について,
 「我われは皆一つの小舟に乗っている」
(Gonzalez−Crussi,F)

 
子ども虐待が初めて社会的関心を集めたのは,19世紀後半のアメリカといわれる。ニューヨークで虐待を受けていた少女の救済のために児童虐待防止協会が設立された(山下恒男:子どもという不安,1993)。しかし,これも一時的な活動に過ぎなかった。
 今日問題にされている意味での子ども虐待についての最初の記載は,1962年にKempe,CHらによってなされ,米国では小児科領域でも社会的にも大きな関心を集めた。さらに1966年には,Kempeを座長にアメリカ小児科学会で子ども虐待に関するシンポジウムが開催された。わが国での小児科医の多くが子どもの虐待について関心を寄せるようになったのは,それよりさらに20年近く経過した後のことである。
 子どもの虐待は,両親またはそれに代わる保護者から,身体的虐待,心理的虐待,性的虐待,保護の怠慢,拒否(ネグレクト)を受けた場合をいう。国際福祉連合(1981)の定義では,最近の話題まで加えて子どもの虐待を表のごとく分類している。

 表.子ども虐待の分類
  (国際福祉連合の定義)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.家庭内での子どもの不当な取り扱い
 (1)身体的暴行
 (2)ネグレクト(無視,怠慢)
 (3)近親姦・ 性的虐待
 (4)心理的虐待
 2.施設内での子どもの不当な取り扱い
 3.家庭外での子どもの不当な取り扱い
 (1)ポルノグラフィーと買春
 (2)児童労働の搾取
 4.その他
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 (池田由子:斉藤学編『児童虐待』,から改変)


2.子ども虐待の歴史の断片
  子を間引き,馬に沓をばはかせいで,
  濁り酒のむ日向路のく(日向の古歌)

 
親に望まれない乳児を殺したり, 死ぬに任せたりすることは,先史以来たいていの社会で普通に行われてきた(Singer,P.:生と死の倫理,1998)。新訳聖書によると,Herod大王は,ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男児をすべて殺させた。このことについて,Augustinusは『告白』のなかで,Herodの子どもであるより,Herodの豚である方がよいとまで述べている。当時の高名な思想家であるSokrates,Platon,Aristoteles,Cicero,Seneca,Tacitusらはいずれも家長が新生児の生殺を決定する権利を有していることに抗議することはなく,家族の負担となる恐れのある新生児を殺すことを認めている。つまり,乳児殺害は胎児殺害と同様に違法ではなかった(Lerong,M.:育児学,1960)。Aristotelesの『政治学』や『ブルタルコス英雄伝』のなかの『リュクルゴス』でも障害をもつ新生児は育ててはならないとされている。
 わが国でも,古事記や日本書紀など,神話の時代から子どもの遺棄はごく普通に行われていた。伊邪那岐命と伊邪那美命の第1子は3歳まで歩かなかったので,葦船に乗せて流したとある。第2子も「人の類」に入らないものであったとあるから,おそらく奇形児であり,流されたものと推測される。
 平安時代は,優雅できらびやかな時代と思われがちであるが,疫病,災害,飢餓,貧困,ないも同然の治安など悲惨な時代であった。たとえば,養和元年(1181)の様子は,鴨長明の『方丈記』によると,疫病と飢餓のために都である京の町なかに乞食があふれ,捨てられた死体が道をうずめるという状況であった。当時,7歳以下の子どもが死ぬと,葬式はもちろん火葬などもせず,川原や墓地などに捨てるのが貴族も含めた習慣だったといわれる(服部早苗:平安朝の母と子,1992)。
 戦国時代は文字通り弱肉強食の時代であった。天下を統一した秀吉は,1581年に大軍を率いて九州を平定したが,その際にポルトガル人が多数の日本人を奴隷として買い取り,国外に連れていくことについて,イエズス会の宣教師を詰問している。この詰問に対して宣教師Coelhoは日本人が売りたがっているからだとつっぱねている(『イエズス会日本年報』下,1587)。わが国の貿易上の主力商品は,そのごく初期から少年,少女の奴隷であった(藤木久志:雑兵たちの戦場,1995)。江戸時代直前に来日したValignano,A(『日本巡察記』)は,当時の日本について,東洋で最も不毛で,貧困であると述べている。やはり同時代に来日したFrois,L(『日本史』『日欧文化比較』)は,「日本の女性は育てていくことができないと思われる子どもは,みな喉の上に足を乗せて窒息させてしまう」と記載している。
 江戸時代にも乳児殺し(間引き)は,日常的にみられた。九州では五子あれば二児を殺し,土佐では一家に一男二女を限度とする風習があったと伝えられる(立川昭二:病と人の文化史,1984,から)。江戸時代の末期に近い頃でも,「七歳未満之小児死スレハ鳥同然ニテ・・・」(楠瀬大枝の日記「燧袋」)葬式もせず,寺へも届けなかった(太田素子:江戸の親子,1994)。つまり,子どもはいつ死ぬかもわからない不確実な存在であり,時間やお金はかけられない存在であったのである。江戸時代の学者,佐藤信淵の著書『草木六部耕種法』や『経済要録』によると,上総国には約十万の農家があったが,そこで殺される子どもの数は年々3,4万人にのぼった。また,陸奥,出羽の国々では間引きする数が年々7,8万をくだらなかった(宮本常一・他編:1995)。江戸末期の儒学者安井息軒(宮崎県清武出身)は『睡餘漫筆』のなかで,「衣食の為に子を殺す,其皮を衣て其肉を食うなり。其貧暴猫と同じ。其弊俗辺鄙より起りしと見へて,<子を間引馬に背をばはかせいで,濁り酒のむ日向路のく>と云古歌あり。今は其俗追々に弘まりて,子をまびかざる国少し・・」と述べている(黒木盛幸編:睡餘漫筆)。間引きは人口調節の手段がなかった当時では必要悪であった(米田京子:近代母性観の受容と変形−『教育する母親』良妻賢母へ−,1985)のである。当時は間引きのことを別に「子返し」ともいい,殺すのではない,ただ神様に返すのであって,子どもにしないだけだと考えた(今野信雄:江戸の子育て事情1988)。このような状況は,西洋でも同じであり,「子どもは,両親の寝ている寝台のなかでごく当然に生じうる事故として窒息して死んだのである」(Aries,P:<子供>の誕生,1991)。わが国で初めて人口調査が行われた亨保11年(1726)から江戸時代の人口がほとんど増加せず,ほぼ2700万人に安定していたのは,疫病による死亡だけが原因ではない。
 江戸時代には捨て子も多く,幕府から繰り返し捨て子禁止令が出ている。これは子どもの人権を守るという発想から出たものではなく,農家の労働力不足を防止するなどが目的であった。当時,国民の八割が農民であったが,農民が江戸に乞食として出ていくことが多く,「宿なし」「薦かぶり」の群れが吹きだまりのようにあふれていたといわれる(前掲の『日本残酷物語』)。同時代には,嬰児殺しのほかにも,疫病や繰り返される大火,極度の貧困,流言蜚語,突然やってくる台風や治水の不備による洪水などの自然災害に加え,人殺し,辻斬りも多かった。歌舞伎で有名な白井権八(本名平井権八)は現在の東京大田区での白波(追剥)であった。疫病での死者も多かった。富士川游の「日本疾病史」によると,江戸時代には27回のインフルエンザの大流行があった。そのほかにコレラ,赤痢,天然痘,痘瘡,麻疹などの頻回の流行もあり,多いときには十万人単位の死者がでている。結核,ハンセン病,慢性の眼病や皮膚病,梅毒,寄生虫症も多かった(立川昭ニ:江戸病草紙,1998)。江戸時代は,山本周五郎が描いた「飢え」と「寒冷」の時代でもあった。江戸の隅田川や大阪の淀川が凍り,アシカが紀州沖まで姿を見せたと記録されている。疫病で死亡するのは子どもが多かったのは当然であるが,疫病での死者が多かった背景として,医学の未発達のほかに,低栄養,近親婚による身体上の虚弱さ,劣悪な住居環境などが加わっていた。江戸末期の男性の平均身長は155センチメートル程度であった。古く中国人が日本人を「倭」つまり小人と呼んだのもうなずける。当時江戸の庶民の七割は長屋住居であった。平均的な「棟割り長屋」の場合,間口が9尺で奥行き2間であった。つまり,入ってすぐ2畳相当の土間兼炊事場があり,奥に4畳半相当の押入れなしの部屋があるだけであった。家族構成も暮らし向きもおおよそ想像ができる。
 一方,渡辺京二(『逝きし世の面影』,1999)は江戸時代に関する多数の著作,文献を検索し,「18世紀初頭から19世紀にかけてわれわれの祖先の生活は,たしかに文明の名に値した。それを教えてくれるのは実は異邦人観察者の著述」であり,「滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶのは,私たちは異邦人の記述によらなければならない」と述べている。そのうえで,「今日の日本の論客は,彼らの日本賛美をオリエンタリズム的幻影として,否定する一方,彼らの日本批判について鬼の首をとったように引用し,まったく無批判に受容しているのだ」と述べている。また,渡辺は江戸または日本の乞食の存否について,Black,JRの『ヤング・ジャパン』を引用し,「思うに,他の国々を訪問したあとで,日本に到着する旅行者たちが一番気持ちのよい特徴の一つと思うに違いないことは,乞食がいないことだとこともなげに(Blackが)断言していることだけ紹介しておこう」としている。Blackが『ヤング・ジャパン』を記載したときにはすでに15年以上日本に在住していたのであり,「幕吏にあざむかれたというのは噴飯物である」とも述べている。
 同様に,当時の子どもの状況について渡辺は以下のように引用している。AIcock,R(『大君の都』)が「日本は,子どもの楽園」と最初に表現したこと,Morse,AS(『日本その日その日』)が「私は日本が子どもの天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど,子どもが親切に取り扱われ,そして子どものために深い注意が払われる国はない」や,明治になってからのBird,I(『日本奥地紀行』)の「私はこれほど自分の子どもに喜びをおよぼす人々を見たことがない」と記載したことなどを引用して,わが国の知識人が「この種の欧米人の見聞記を美化された幻影として斥けたいという,強い衝動に動かされてきた歴史」を非難している。
 「書かれた歴史は書く人の数だけあり,彼が見直した回数と同じだけある」(山崎正和:歴史の真実と政治の正義,2000)のであり,渡辺の記載も歴史の一つのとらえ方である。
  しかし,行き倒れ,置き去りの孤児,貧民や無宿人の取り締まり令などが幕府から出ていたのは事実である。要人襲撃,押し込み・殺人,幕府浪士組による豪商からの略奪行為,窮民の蜂起などの社会不安があったことも歴史書に書かれている。江戸末期から明治時代初期の主なものをひろってみても,徘徊盗賊の撲殺令(1851),人別改めの強化,外国人旅宿や外国人通行の際の厳重警戒に関する取り締まり令(1860),浮浪者の厳重取締令(1864),外国人への投石厳禁令(1867),政府による非人・乞食の追放(1869),東京在留外国人の遊歩規定の布告(1870)などがある。明治5年(1872)7月,東京ではロシア皇太子の来日を機会に,浮浪者約240人を収容している。渡辺が引用したBirdも,津川,市野野,神宮寺などを旅した時にみた印象を「日本はおとぎの国ではない。男たちは何も着ていないといっていいだろう。女たちは短いスカートを腰のまわりにしっかり結びつけているか,あるいは青い木綿のズボンをはいている」だけであり,「子どもたちはとても汚く,ひどい皮膚病にかかっている」などと記載している。これらの状況は,Satow,EMの『日本旅行日誌』にも詳細に記載されている。以上に述べてきた記載を総合的に判断して,筆者はGriffisが『明治日本体験記』に記載した「日本はその国について書かれた本の読者が想像していたような東洋の楽園ではなかった。その時はまだ日本についてほんの少ししか知らなかった。しかし後に日本を見て,その光景が悪夢のように私を苦しめた」という文章が,当時のわが国の実情について記載した欧米人の紀行文の総括になるものと考えている。
 当時のわが国の男女混浴や,入浴中の男女が通りがかりの外国人を見ようと裸で飛び出してきたり,夏とはいえ屋外で女性が上半身裸でいる状態や,行水を恥かしがることもなく行う風習などが外国人には見られない光景として記録されている。これらの行為を含めて,Heuston,H(『日本日記』)が「この国の人々の質撲な風習とともに,その飾りけのなさを私は賛美する」とした記載は,Gauguinが未開地タヒチで,半裸で性的に開放的な娘達に抱いた楽園幻想と近い視点であり,筆者には素直には受け入れられない。
 江戸時代の日本を賛美した欧米からの旅行者や外交官,通訳などによる初期の記載や渡辺京二の大著も,筆者には偏った見方であるようこ思える。「近世日本に関する妄想じみた思い込み」に対して,小谷野敦は最近『江戸幻想批判』(1999)を著したが そのことばを借りて表現すれば,江戸に乞食はいなかったとか,江戸時代の子どもは大切にされてたなどという記載は,一種の「江戸幻想」といえるのではないかと考える。
 江戸時代に日本人によって書かれた日記や旅行記,たとえば野田成亮(宮崎県佐土原の僧,石川英輔編『大江戸泉光院旅日記』),松崎慊堂(『慊堂日暦』),川路聖謨(『島根のすさみ』,『長崎日記・下田日記』)などは子どもについてほとんど記載していない。外国でも,中世芸術では子どもは認められず,子どもを描くことが試みられることもなかった(Aries,P,前掲)。子どもに関心が注がれることがほとんどなかったのである。
 明治時代になっても子どもへの対応や社会の状況が急速に改善されたわけではない。明治初期には,清国人が日本の子どもを買い取る事件が頻発したために,1870年には子どもを海外に売ることを禁止する取り締まり令が新政府から出されている。当時は,人胆,霊天蓋(人の脳髄),人の陰茎などの密売も行われていた。明治18年に,東京三田の宿経営者の妻しゅんは,貰い子殺しを商売にして70数人を殺している。子殺しはもちろん問題であるが,なにがしかのお礼をして自分の子どもを相手かまわず引き取ってもらうという事実が重要である。当時は,「子殺しの暗示を秘めた里子」もあったのである(横山浩司:子育ての社会史,1986)。同時代に,柳田国男(『故郷七十年』)は自分が過ごした茨城県の一地方について,「ツワイ・キンダー・システム(二児制)」という風習が存在したことを記載している。つまり,3人以上の子どもは間引きするということである。当時でさえ子どもを育てると決まってから後に,誕生の祝いを言っていたといわれる(前掲『子育ての社会史』)。明治の中頃までは,田舎では人買い婆さんがやって来て,12歳前後の子どもを買っていた。女の子の方が値段がよくて,5〜6円で売れた。宮崎県東郷町の「まりつき唄」では,間引きした子を水辺,路傍,藪かげに捨てた風習を歌っている。宮崎市の大淀川では,嬰児の死体が川に浮いて流れていくのが明治になっても目撃された (『日本残酷物語』前掲)。
 大正時代も貧困の時代であった。第一次大戦後の戦後恐慌もあり,大正6年(1917)に大阪朝日新聞に連載された河上肇の『貧乏物語』は「驚くべきは現時の文明国における多数人の貧乏である」で始まっている。柳田國男は『明治大正史−世相篇』(1931)のなかで,「貧しさが四百四病のなかでもっともつらい」と述べたが貧困は当然低栄養につながり,病気に罹りやすくなる。大正2年(1916)の東京市だけで,6,829人が肺結核で死亡している。Coontz(前掲)は「昔の貧しい家庭では,女性や子どもたちが必要な栄養をとらずにすます可能性は,所帯生よりはるかに高かった」と記載している。当時,進歩的な文化人として知られ,大塚らいてうらに影響を与えた生田長江(雑誌『女性改造』,大正13年6月号)でさえ,「婦人や小児は禽獣に近いと述べた時代であり,まして社会一般の子どもの人権に対する認識の程度は推測できよう。貧困と人権に対する認識の低さから人身売買も少なくなかった。そのうえ,米騒動,首相暗殺など,世情騒然とした時代であった。
 第ニ次世界大戦終了までの昭和は,日中戦争や太平洋戦争など国際紛争に突入し,物資が著しく不足した時代であった。「海ゆかば,水漬く屍・・・」など,万葉集の大伴家持の詩が準国歌としてもちだされた時代でもある。昭和12年(1937)には「國體の本義」が全国の学校に配られ,「国民は我を捨て私を去り,ひたすら天皇に奉仕する」ことが求められた。1938年に開設され,生物兵器や毒ガス製造にかかわった731部隊には経済的理由で中学校に進学できなかった成績優秀な子どもが少なからず入隊していたことが,戦後明らかになった。人権はおろか個々人の生命さえも問題にされることが少なかった時代である。
 第ニ次大戦後の食糧や物資の不足については,よく知られているので述べない。昭和10年(1935)頃から,国策として中国・満州に移民し,敗戦を当地で迎えた女性と子どもの悲惨な逃避行は意外とその実情が知られていない。兵隊からの強制で,子どもを絞殺したり,川に流したりした母親が少なくなかった。逃避行の途中で,約20万人の子どもを中国に「残して」帰国したが,これらの子どもの多くは餓死したと伝えられる。13歳以上の一部の女性は,5〜6円で中国人に売られ,妻になった人もいる。これらの人たちが「中国残留婦人」といわれる人たちである。当時12歳以下で中国に残され,生きのびることができた人たちが「中国残留孤児」である。 昭和23年(1948)には,新宿寿産院事件があった。この事件は,新宿柳町の同産院が乳児の預り料をとり,育児用の砂糖,ミルクの,配給を受けたうえで,1年間に102人の乳児を預り,うち85人を餓死や凍死させたものである。この事件が発覚したのは,親の訴えによるのではなく,死体を運んでいるところを,たまたま警察官に発見されたためである。
 戦後の子ども観について,広田照幸(『日本人のしつけは衰退したか』,1999)は鈴木道太が行ったアンケートを引用している。このアンケートは,戦後ある村で300人の親を対象に行われた。その結果をみると,お金をとって自分の子どもをよそに貸してやることについて,「親が苦しい場合には仕方がない」が47パーセント,「それは将来子どもの薬になる」が15パ−セントであった。昭和31年の『経済白書』では,もはや戦機ではないと述べられたが,同年には約26万人の子どもが主に貧困のために長期欠席している。公娼制度が法的に廃止されたのは,昭和33年(1958)である。

3.子ども虐待増加論の背景と考察
 古来,子どもが程度の差はあっても,大人の欲望や衝動のはけ口とされてこなかたことはなかった。(崎尾英子)

 
現在の「子ども虐待激増論」にはいくつかのタイプがある。もっともよくみられるのは,ある領域の専門家が意見を求められて,自分で時間をかけて調査・検討することもなく激増論を述べる場合である。この種の危険性については,すでに70年前に0rtegayGasserが『大衆の反逆』のなかで「専門家の野蛮性」として指摘した。次に,無邪気な誤解として,児童相談所での子ども虐待の相談件数の増加を虐待増加の実態ととり違えてしまった場合がある。もっとも困ったタイプは、親が自分の子どもを虐待するはずがないと思っていたイメージに比べて,最近のジャーナリズムによる報道が多いことから,虐待は増加しているとするものである。
 1998年に子ども虐待による死亡数が,41例であったことが報道され,大変話題になった。年度別ではないが,その10年前の1988年,さらに1978年にも,当時の新聞報道の集計や山本健治の著(『[年表]子どもの事件,1945〜1989』,1989)の死亡例をみると,虐待死が疑われる件数が40例前後存在する。この数値を評価する場合に留意すべきことは,年数をさかのぼるほど「子どもの虐待」について,一般の人々にはもちろん,小児科医でさえ意識して虐待死の疑いをもつことは少なかったし,疑わしいと思ってもやり過ごすことが多かったということである。30年前には新聞紙上でも虐待死を疑わせる報道は非常に少ない。このことの背景として,当時は,死因の判定などは個々の医師の「専権事項」であり,そのことについては他の医師や医師以外の人たちの介入は皆無であった時代である。当時は,遺伝子病や先天異常の診断を両親に告げると,「子どもの将来が可愛そうだから殺してくれ」と依頼される時代でもあった。また,両親を説得・激励して返しても,死亡するはずのないその子が1,2ヵ月後に栄養失調と肺炎などで死亡した,と伝え聞くことも少なくなかった。 両親がパチンコをしている間に,車内に放置された子どもが暑熱障害・脱水症で死亡する例がまれにあり,社会の非難の的となることがある。しかし,戦前までの農家や商家などでは「ツグラ」(藁でつくった篭)に乳児を入れたり,兵児帯で子どもを柱にくくりつけて両親の仕事中の半日を過ごさせ,子どもが泣きつかれて眠りこむことなどは普通に行われていたし,当時の育児書にも記載されていたことである(『子育ての社会史』,前掲)。このようななかで,兵児帯が首に巻きついて死亡するなどの事故も少なからずあったことと推測されるが,これらの行為が「家庭内での子どもの不当な取り扱いなどとして報道されることなどはなかったのである。
 児童相談所における子ども虐待の相談件数の増加が話題になるが,筆者の考えでは,子どもの虐待が児童相談所で取り上げられたり,相談したりできる時代がようやく来たのである。関心をもたないとものは見えないが,関心をもつと偏見が生じる(丸山眞男:自己内対話,1998)ことに留意しなければならない。

 以下に虐待増加論の原因としてあげられることの多い事項について簡潔に考察した。
1)昔は子どもは宝として育てられたのか。
 わが国には,山上憶良以来の子宝思想があり,子どもは大切に育てられてきたという考えには根強いものがある。かつて平井信義(『小児保健研究』,1973)が「昔の母親たちは貧しい生活の中でも子宝としてわが子の養育に励んできた」と記載した文章に代表される考え方である。仮に子宝思想があったとしても,それは歴史的には間引きと両立して初めて可能であったのである。私たちには,現状を憂うあまり過去を美化して考える傾向がある。そのことは,枕草子や徒然草などにも読みとれる。Jacoby,M(『楽園願望』,1988)は「私たちは久しい以前からいわゆるノスタルジーの波に侵されているが,今日ますます広がりつつある。しかし,昔はほんとうによかったのだろうか。率直に言って私は,昔の絵などで麻酔なしで歯が抜かれ,足の切断手術の様子を見る度に,古きよき時代のロマンチシズムは消え失せて,20世紀の医術の進歩を喜びたくなる」と述べている。 Coontz(前掲)は「過去の美化に基づく単細胞的解決法を求めるのをやめるならば,新しい伝統を創りうるという根拠は十分にある」と述べている。現状を嘆いている多くの人たちが,15年,20年後には,現在のことをあの頃はよい時代であったと思うに違いないのである。

2)ストレスの増加が虐待の原因なのか。
 最近ストレスが増加しているといわれる。筆者のとらえ方ではMaslowの「要求の五段階説」から推測しても,生命の安全が当面確保されて,ストレスを感じる余裕がでてきたのである。戦時中には,神経症が減少することが知られている。ストレスの増加や不景気のための自殺者の増加が報道されることがある。しかし,柳田國男(前掲)によると,当時「日本で毎年の自殺者は一万数千人,此頃東京だけでも一日五人づつ死んでいく」とある。人口比で換算すると,現在より自殺者が多いことになる。Walker,S(『狂気と正気のさじ加減』,1999)は,「そもそも生きるということは,いつの時代もストレスの多いものであるはずだ。今の生活がストレスと無縁とは言わないが,我々の先祖の生活ほどではないと思われる」と記載している。

3)核家族の増加が諸悪の根源なのか。
 わが国で,核家族の負の面が強調されるようになったのは,昭和30年頃になってからである。松原治郎は『核家族時代』(1959)のなかで,核家族は父親を無力化し,母親は過保護になり,子どもは暴君化するすると述べた。このことを引用し,岡堂哲雄(『現代のエスプリ,1999)も,核家族は暴力の温床になると記載している。しかし,未開民族(中根千枝:家族を中心とした人間関係,1977)でも,近世町人の家族の多くも(高橋敏:家族と子どもの江戸時代,1997)核家族であったし,核家族率はわが国の歴史上知られている範囲では常に50パーセント以上であった。核家族については,本誌第3号の「しつけ考」のなかでふれたので,詳細には述べないが「大家族が平和に機能していくためには,多くの女性の涙と忍耐を必要とした」(河合隼雄:家族関係を考える,1980)のであり,familyという語はもともは奴隷集団を意味する単語であった。子どもの虐待について「最近の家族の形態だけを非難するのは的外れである」(Coontz,S,前掲)。

4)離婚が虐待の原因か。
 新聞紙上で,離婚の増加がとりあげられることがある。そのこともあって,離婚の増加が虐待の原因としてあげられることも少なくない。確かに米国ほどではないが,1パーセント台のなかで微増傾向にある。しかし,その背景を看過してはならない。平成9年夏の東京部生活文化局の調査報告書によると,夫や同居の男性パートナーから,立ち上がれないほどの暴力を受けた女性が3パーセント、何度も繰り返しひどい暴力を受けたことのある女性は1パーセントであった。平成11年度に総理府男女共同参画室の調査では,結婚している女性の4.6パーセントが生命の危険を感じるほどの暴力を夫から受けている(安宅左知子:殴られる妻たち,2000)。1999年,カナダ・バンクーバの日本総領事が妻に対する暴力で,バンク−バ市警に逮捕された。逮捕された総領事はその事実を認め,これは文化の違いによる問題」だとして物議をかもした。総領事といえば,外務省でもエリートである。警察庁の調べでは,わが国では毎年百人以上の妻が夫に殺されている。この数値は,親による子どもの虐待死の約3倍に相当する。むしろ,夫の暴力が続くなかで,離婚できない状況の方が問題とされるべきである。

5)地域の連携の崩壊や道徳観念の退廃が関与しているのか。
 昔は,なにかと隣同士で助け合っていたといわれる。また,中央教育審議会の答申でも家庭基盤の充実と並んで,地域の連携の必要性が求められている。しかし,昔の地域の連携はまた「相互監視の社会」でもあり,それを嫌う人が多かったことも知らなければならない。

 最近新聞やテレビジョンなどで,医療界はもちろん,実業界,警察,教育,政治の世界などでもさまざまな悪事が露呈し,報道される。そのために,道徳観念の退廃が叫ばれているが,これは物質的に豊になって逸脱行為を行うチャンスが増大したことと,隠されていたものが露呈されるようになっただけのことであると考える。
 1960年代から子どもの虐待について検討を重ねてきた米国では,その原因を「多因子」としている。これらについては,Belsky,J(AmPsycho35:320,1980)やGreen,AM(Child Maltreatment:A Hand for Mental Health and Child Care Professionals、1980)などに詳しい。

4.子どもという存在の誕生
 母性愛は人間の感情にほかならない。あらゆる感情と同様にもろく不完全なものである(Badinter,E)


 子どもの虐待を考える場合には,私たちが現在の文化のもとで抱いている「子どもという存在」の概念がいつ頃社会に定着したのかを理解することが重要である。
 1999年に,グリム童話の残虐性が話題となった。しかし,Grimm兄弟が民話を収集した1800年代前半には,このなかに収集されている民話の内容が残虐であるというとらえ方はなかったと考えられる。たとえば,「ヘンゼルとグレーテル」の場合,明日から食べるパンがなくなった両親がへンゼルとグレーテルの兄妹を森の中に捨てに行くことになるが,グリム兄弟が民話を集めた当時は,それほど稀なことではなく,また恥ずべきことでもなかったのである。「棄」という漢字は,本来子どもを捨てるという意味である。
 Pascal,Bは『愛と情念に関する説』のなかで,「子どもは人間ではない」と述べたし,Moliereは,『病は気から』のなかで,「小さいものは数のうちに入らない」と述べた。わが国で「七歳までは神のうち」といわれていた考え方にも通じる。
 小児期に相当する期間について,古い資料を詳細に調査したAries,P(前掲)は「子供期に相当する期間は小さな大人がひとりで自分の用を足すに至らない期間,最もか弱い状態に切りつめられている」と述べている。18世紀の末においてさえ平均寿命は35歳くらいであったから(木村尚三郎:家族の時代−ヨーロッパと日本,1985)子どもは「小さな大人」として,自分の生活費を得る術を早く身につけなければならなかったのである。
 「子どもの誕生」の時期については河原和枝が『子ども観の近代』(1998)のなかで,詳細に検討している。そのなかで,河原は西洋での「子どもの誕生」について,Rousseau,J-Jが『エミール』(1762)で,「(子どもは子どもであって大人ではない」と宣言し,子どもという独自のライフステージを認める考え方を広めるとともに,子どもが大人になるための心理的成熟や思春期の問題について言及した」ことを引用し,「かくして子どもは(子ども)になった」と記載している。しかし,Rousseauは自分の5人の子どもを次々と養育院の戸口に捨てたこと,その後『告白』のなかで,「自分の子どもが将来ごろつきや山師になるよりも労働者か百姓になるようにしておけば・・」と思って捨てたと苦しい弁解をしていること,をあわせて考慮する必要がある。当時の養育院では新生児でもヤギ乳と小麦粉とを練ったもので栄養しており,大多数は数か月以内に死亡していた(藤田苑子:フランソワとマルグリット−18世紀の未婚の母と子どもたち,1994)。捨て子は「当時は貧しい民衆の間では日常茶飯事で,パリの新生児の1/3〜3/5は養育院に捨てられた」(平岡昇:ルソー,1978)のである。
 一方,わが国での子どもという存在の誕生について,「(子ども)はまず建設されるべき近代国家をになう民の育成を目指して,義務教育の対象として生み出されたということができよう」と河原は述べている。
 先に山崎正和の著書から引用したように,歴史のとらえ方はさまざまであってよいが,現在の文化のもとで私たち日本人の多くが考えている「子どもの誕生」に限れば,昭和30年代半ばではないかと考える。

5.おわりに
 知恵の木の実を食べてしまった人間に,もはや無垢はありえない−アダムとイブ以来のこの言葉がぴんとこない人は幸福ですし,ぴんとくる人はさらに向上するチャンスがあります(中岡成文)

 2000年3月の国際児童基金(ユニセフ)のアジア地区年次総会によると,全世界で生まれる子どもの数は約1億2千万人で,そのう
ちの約4千万人は出生の公的な届け出がなされていない。ブラジルの警察の発表によると1988代末から1991年の3年間にブラジル全土で4,611人の子どもが殺された(毎日新聞夕刊,1991)。世界各地のジェノサイドで殺される子どもは数さえわからない。発展途上国では子どもの人身売買や売春の強要は日常的である。スーダンでは子どもが70ドル前後で奴隷として売られ(ニューズウイーク,日本版,1992),ブラジルでは臓器摘出が目的で乳児が1人200ドル程度で売買されている(大岩ゆり:AERA,1993年12月7日号)。つい最近までの日本でそうであったように,子どもの不法就労は発展途上国では日常的である。
 わが国でも子どもの虐待は少なくないが子どもの虐待を起こしにくくする以下のような要因がわが国では増加してきている。
(1)物質的に豊かになった。
(2)一夫婦当たりの子どもの数が減少した。
(3)避妊法の普及や人工妊娠中絶で,両親が望まない子どもが少なくなった。
(4)教育が普及した。
(5)自宅分娩が少なくなった。
(6)十分ではないが,保険制度や生活保護制度が整備された。
(7)虐待に関心がもたれるようになった。
(8)死因の正確さが法的にも求められるようになった。
(9)人口動態の把握が正確になされるようになった。
 以上の理由で,少なくともわが国では以前に比して子どもの虐待数は減少していると推測されるし,まして激増論などは根拠がないと考えている。結局,子どもの虐待は,「人とはなにか」つまり「自分とはなにか」という根元的な問題として捉えなければ理解は一歩も進まないのである。
 (紙幅の都合で,翻訳者と出版社,および古典となっている著書の詳細は省略した)