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いい発想に上下関係はない。今が旬の発想を大切に、変化する時代に対応した作品を作りたい。荒川 健
 

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに、“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。2008年を締めくくる12月のゲストは、スクウェア・エニックスを代表するRPG『ファイナルファンタジー』生誕20周年記念作品、PSP®『ディシディア ファイナルファンタジー』でシニアディレクターを務める荒川健さん。幼い頃から大のゲーム好き。コンピュータを操り、自作ゲームを作り続けてきた荒川さんは、一直線にゲームクリエイターへの道を邁進してきた。着実にステップアップとキャリアアップを重ねてきた荒川さんのゲーム人生を、自身の言葉で振り返っていただこう。

取材・文/阿部美香(ライター)
 

幼稚園・小学校時代〜早くもゲーム制作に目覚める

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 現在、スクウェア・エニックスでデザイナー/ディレクターとして活躍する荒川さんが生まれ育ったのは、鹿児島県鹿児島市。デザイナー出身だけあって、幼い頃から絵を描くのが好きだったという荒川さんが最初に思い出すのは、やはり絵を描き、工作遊びをしていた記憶だ。

「僕は人の言うことに素直に従う性格だったのか、人を描くときは色鉛筆の“はだいろ”をちゃんと使って、伯母さんから“オレンジをちょっと交ぜて塗ると雰囲気が出る”と教わると、そういう絵作りに興味を持つような子でしたね。だから、できた絵もあまり子供っぽくなかったかも知れません(笑)。描いていた絵は、幼稚園のときは変形ロボット。変形前と変形後をセットで描くのが得意で、パーツの数もちゃんと合わせて、設計的にも無理がない絵を描いていました。
鹿児島は新作アニメの放映数が少なかったので、よく『マジンガーZ』や『UFOロボ グレンダイザー』などの名作を何度も再放送してたんです。その影響で変形ロボットも大好きだったし、ちょうど年代的には“ゴレンジャー世代”。特撮番組とロボット物ばかり観ている子供でしたね」

 荒川さんのご実家は、里芋の仲買業者を手がける会社。一人っ子、お祖母ちゃん子で育った荒川さんは、自宅に転がっていた段ボールを集めては、一人で工作遊びをするのも大好きだった。

「段ボールを組み合わせて、大きな家を作るのが得意で、毎週土日は必ずやってました。それを毎週、平日になると親が捨てる(笑)。その繰り返しです。家は、自分が中に入って遊べるのが前提の大きさ。段ボールを複数重ねて窓をくりぬいて、表には壁紙を貼り、中には布団を入れて寝てみたり(笑)。かなり大きいものをたくさん作ってましたね。
 他には……家の仕事柄、お歳暮をもらうことが多いので、とにかく箱がたくさんあるんですよ。それで作っていたのが、立体迷路パズルでした。小さな箱に間仕切りをたくさんつけて、祖母の持っていたおはじきやビー玉を入れて作るんです。小学校時代はずっと。おかげで図画工作の成績は、5以外を取ったことがなかったですね」

 そんな荒川さんが、テレビゲームに目覚めたのは小学校中学年のことだ。

「伯父さんがゲーム好きだったので、よくゲームセンターに連れてってもらってたんですよ。当時は『ザクソン』『トランキライザーガン』(セガ)、『ドンキーコング』(任天堂)なんかをよく遊んでました。そのうち、『ドンキーコング』がファミコンで出るという話を聞いて、その伯父さんがファミコンを買ってくれたんです。伯父さんにすると、僕ら子供を連れていればゲームセンターに行く口実になるので、お礼のつもりもあったみたいです(笑)」

 家では、図画工作に夢中だった荒川さんだが、友達同士が集まれば子供らしい外でも遊びも楽しんだ。

「僕の住んでた地域が山の近くだったので、よくそこに出掛けては秘密基地を作ってました。漫画の本を持ち込んだりして。ファミコンを遊んでいい時間が、1日1時間と限られていたので、その他の時間は、ちゃんと外で遊んでました」

 さて、話をゲームに戻そう。ファミコンを遊んでいい時間が限られていたため、荒川さんも最初はただゲームを楽しく遊ぶ子供でおわっていたが、あるソフトが“ゲームを遊ぶ”から“ゲームを作る”ことへと意識を変えるキッカケになった。

「それが『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂)だったんです。それまで遊んでいた『ドンキーコング』にも『マリオブラザーズ』にも、配管工やコングがさらわれたお姫様を救出するという、映画にあるようなリアリティを感じられる設定がありました。 ところが『スーパーマリオブラザーズ』は、?ブロックを叩いたらキノコが出てきて、そのキノコがスライドしながら移動して、それに触れるとマリオが巨大化する……。その設定にはまったくリアリティがないし、とてもシュールなわけですよ(笑)。なぜキノコがあるのか、なぜ亀に襲われるのか、僕には全然理解できなかった。でも、それがゲーム内で成立してるし、遊んでみると非常に面白い。テレビゲームというのは、何でもアリなんだということに気づかされたんです。
 そこからは、どうやったらそういうゲームが作れるんだろうという、具体的なことに興味を持つようになりました」

 『スーパーマリオ』の発売は85年。わずか10歳ほどで、荒川さんはゲームを作ることの面白さに惹かれ、クリエイターへの小さな一歩を踏み出す。

「その頃には、チラシの裏とかに16×16のドット絵のキャラクターやオブジェクトをたくさん描いていましたね。その絵の下に、“これを取ったら3方向に弾が撃てる”などの設定まで書いておきました(笑)。 そして5年生くらいの時に、「ファミリーベーシック」(任天堂)が出たんですよ。最初は金持ちの友達の家で触っていたんですが、これがあれば自分でゲームが作れるだろうと、母親に頼んで買ってもらいました。そこからは、自分が書きためた設定をゲームにしていきました」

 わずか5年生で、オリジナルゲーム作りに目覚めた荒川さん。当時の作品を思い出してもらうと?

「最初に作ったのは、サイドビューのシューティングでしたね。1画面固定で、左と右に戦闘機があって、1P2Pに分かれて弾を撃ち合って相手を破壊したら勝ち。ただ、そこでひとつ問題がありまして。作ってるのがなにせ小学生なので、せいぜい計算できるのは四則演算まで。“大なり・小なり”とかは使いこなせないんですよ。そうなると、座標のずれに対応できない。戦闘機と弾がぴったり1ドットで重ならないと、破壊できないんですよね(苦笑)。
 他にも同じようなケースで、マリオ風のアクションも作ってみたんですが、足し算・引き算しか使っていないので、僕の主人公のジャンプの軌道は、放物線じゃなく三角形なんですよ(笑)。二次関数とか全然わかんないんで」

 そこで、市販のゲームとの出来の差に困った荒川さんは、独学でその壁を乗り越えようと……?

「小学生ながら、中学生用の数学の参考書を一生懸命勉強しました。きっとそこに答えがあるはずだと思って。そこで公式も覚えたし、小数点以下の数字というのがあるんだとわかったりして。プログラム言語もBASICでしたから、いじっていれば、「PRINT」が画面に文字を表示することだということはわかるんですけど、本来の意味がわからない。なので、英単語が覚えられる本も読むようになりました。
なので、相変わらず絵を描くのは好きでしたが、興味がすっかりプログラム方面に向いてしまったので、美術部に入ろうとかいう気持ちはありませんでしたね」

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中学・高校時代〜独学と試行錯誤で大作格闘アクションを完成

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 小学生にして、自作プログラムでゲーム制作の魅力を知った荒川さんは、中学生になってますますその勢いを加速させる。学校ではバレーボール部で汗を流していた荒川さんだが、家に帰ればやっぱりゲーム。「ファミリーベーシック」に物足りなくなった彼は、MSXマシンを購入する。

「自然な流れですよね(笑)。最初は、1ヵ月くらいでできるソースから入ったんですが、友達に遊ばせるのが好きで、ストーリーのいらないパズル、アクション、レースゲームを量産してました(笑)。
 そして中3でやってきたのが、『ストリートファイターII』などの対戦格闘アクションブーム。僕も1作、キャラがたくさんいて、コマンド入力式で、ストーリーモードもあって……という大きな格闘ゲームをやってみたくなって、作り始めました。もちろん、周りにそういうことをやってる人がいなかったので、音楽も全部自作。マウスが高くて買えないこともあって、カーソルキーだけで作業ができるツールから作ってましたね」

 もちろん、その知識も全て独学だ。

「ゲーム作りどころか、パソコンを持ってる人すら周りにいませんでしたから、『マイコンBASICマガジン』やプログラミングの専門書など、知識はもっぱら本から学びました。当然、何か間違っていても誰にも相談できないので、とにかくトライ&エラーの繰り返しでMSXをモノにして。僕にはもっと本格的なパソコンを買うお金もなかったので、それ以上のハイスペックな機種は、友達のとうちのを貸し借りしながら触らせてもらってましたね。友達から借りたX68000(シャープ)を、自転車の荷台に乗せて、鹿児島の繁華街・天文館と山の上にある自宅を往復したものいい思い出です。よく壊れなかったですよねぇ(笑)」

そうやって試行錯誤を繰り返しながら、荒川さんは大作格闘ゲームを完成させる。制作期間は約半年。パソコン誌やゲーム誌を参考に、企画書からプログラミング、音楽まですべて荒川さん一人で作り上げた。ゲーム仲間の友人たちを驚かせたくて、制作していることを全く内緒にしていたというから微笑ましい。

「高校から帰ると、毎日8時間くらいMSXの前に張り付いてましたね。おかげで、リリースしてからの友達の反応も上々で、すごく面白いから続編を作ってくれと言われるようになってしまって。でも、さすがにさらに半年間、夜中の2時くらいまでゲームを作り続ける体力も気力もないと、友達にキャラクターを描かせて、追加キャラを4人ほど加えた『ストII’』的な「1.5」のバージョンアップ版で勘弁してもらいました(笑)。それが出来上がったのが高校2年の時。できたらできたで、やっぱり「2」を作ってくれと言われましたが……さすがに一人では無理と断らざるを得ませんでしたね」

 半年間コツコツを作り上げたゲームだけに、内容も素人一人で作ったにしてはかなり豪華だった。ところで、そのタイトルは?

「これがちょっと恥ずかしい名前なんですが、『パワーフォース』というんです(笑)。RPGもちょっと好きだったので、格闘ゲームの中に属性の概念を入れたかったんです。で、『スター・ウォーズ』も好きだったので、精神的な力である“フォース”と、肉体的な力である“パワー”の両方を使い分けるゲームにしたんですね。それがタイトルの由来です。
キャラクターまわりは、「1」は2頭身キャラ8人がデフォルトで、コマンド入力すると12人使えて、それぞれにエンディングがありました。バージョンアップした「1.5」は、キャラを5〜6頭身にして、追加キャラを4人加えて総勢16人+隠しボス1人。技も1個ずつ足して、超必殺技なんかも盛り込んで、かなり華々しく。ちなみに超必は、HPが1/4以下になると発動できます(笑)。キャラクターデザインは、小学生時代に好きだった『キン肉マン』や『ビックリマン』っぽいテイストでしたね。物量で勝負、的な(笑)。春麗っぽい女性キャラもいちおういるんですけど、どっちかというと男の子っぽい感じでしたかね。実家に戻れば、きっとディスクにデータが残ってるんでしょうけど……読み出せるかどうか微妙ですね。ちゃんと保存して取っておきたいとは思ってるんですけど」

 ここで少し話を戻そう。中学時代で、ゲーム作りにますます意欲的になった荒川さんが、当時目指していたのはゲームプログラマー。中学後半には既に、将来の進路をゲーム業界と決めていたという。

「高校受験の前から、周りにはゲーム業界に行きたいと言い続けてました。でも、先生にはゲームの人気なんか長くは続かないと言われたし、中学卒業してすぐに東京に出たいと思っていたんですが、親からせめて高校だけは地元でとも言われました。でも、親から反対はされませんでしたね。小学校時代からの仕込みが効いてたみたいで、作ったゲームも家族によく見せてましたから、「この子はそういう道に行くんだろうな」と、親も諦めていたんじゃないかと思います(笑)」

 というものの、ずっとゲーム作りばかりしていた荒川さんだけに、成績にはいまいち自信が持てなかった。

「授業中も、ゲームの仕様書ばかり書いてて、全く先生の話を聞かない子でしたから(笑)。さすがに数学は得意でしたけど、その他の科目は全くダメでしたね。なので、そのままゲームにかまけていては合格がアブナイので、中3の1年間は自らMSXを押し入れに封印して、受験勉強に取り組みました。そしたら、勉強しかしなかったので成績もずいぶん上がって。先生にはずいぶん褒められましたよ(笑)」

 だが、勉強にいそしんだのも、その1年間だけ。高校に入学すると?

「ますます遊ぶことに熱心に(笑)。ゲームもそうですけど、友達とボウリングをしたり、ビリヤードをしたり、チョイワルな友達と遊ぶ期間と、一人で黙々とゲーム作りに励む期間と、両極端な暮らしをしていました。
ゲームセンターにもちょこちょこ行ってましたね。当時は『スペースハリアー』(セガ)などのすごい体感ゲームがたくさんありましたし、個人的にはピンボールが好きでした。最近でこそ減りましたけど、その頃はまだピンボールコーナーも健在で。自分で昔、迷路ゲームを作っていたので、その完成品がピンボールという認識(笑)。玉を転がすゲームが、もとから好きなんでしょうね。
ゲームセンターのゲームは、リスクとリターンがはっきりしているので遊びがいもあるし、自分がゲームを作る上で、かなり参考にさせてもらいました」

 高校に入っても、やはり荒川さんの将来の夢はゲームプログラマー。親御さんの希望で高校は地元に進んだものの、卒業後は絶対に上京しようと荒川さんは決意していた。

「高校の進路指導の偉い先生には、ゲーム業界に進むことを反対されましたが、担任の先生はずいぶん応援してくれて。大学を卒業したての若い先生だったのでゲームに理解もあり、よく相談にのってもらいました。そこで僕が選んだのが、設立3年目のヒューマンクリエイティブスクール。大学に行くより、早く社会に出たかったので、最初から専門学校に入ろうと思ってました。ただ、今でこそたくさんゲーム専門学校はありますが、当時は全国的にもそこしかなかったので、やっと就職実績が出だした頃。まぁ、進路指導の先生が反対するのももっともですよね(笑)」

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