現在、スクウェア・エニックスでデザイナー/ディレクターとして活躍する荒川さんが生まれ育ったのは、鹿児島県鹿児島市。デザイナー出身だけあって、幼い頃から絵を描くのが好きだったという荒川さんが最初に思い出すのは、やはり絵を描き、工作遊びをしていた記憶だ。
「僕は人の言うことに素直に従う性格だったのか、人を描くときは色鉛筆の“はだいろ”をちゃんと使って、伯母さんから“オレンジをちょっと交ぜて塗ると雰囲気が出る”と教わると、そういう絵作りに興味を持つような子でしたね。だから、できた絵もあまり子供っぽくなかったかも知れません(笑)。描いていた絵は、幼稚園のときは変形ロボット。変形前と変形後をセットで描くのが得意で、パーツの数もちゃんと合わせて、設計的にも無理がない絵を描いていました。
鹿児島は新作アニメの放映数が少なかったので、よく『マジンガーZ』や『UFOロボ グレンダイザー』などの名作を何度も再放送してたんです。その影響で変形ロボットも大好きだったし、ちょうど年代的には“ゴレンジャー世代”。特撮番組とロボット物ばかり観ている子供でしたね」
荒川さんのご実家は、里芋の仲買業者を手がける会社。一人っ子、お祖母ちゃん子で育った荒川さんは、自宅に転がっていた段ボールを集めては、一人で工作遊びをするのも大好きだった。
「段ボールを組み合わせて、大きな家を作るのが得意で、毎週土日は必ずやってました。それを毎週、平日になると親が捨てる(笑)。その繰り返しです。家は、自分が中に入って遊べるのが前提の大きさ。段ボールを複数重ねて窓をくりぬいて、表には壁紙を貼り、中には布団を入れて寝てみたり(笑)。かなり大きいものをたくさん作ってましたね。
他には……家の仕事柄、お歳暮をもらうことが多いので、とにかく箱がたくさんあるんですよ。それで作っていたのが、立体迷路パズルでした。小さな箱に間仕切りをたくさんつけて、祖母の持っていたおはじきやビー玉を入れて作るんです。小学校時代はずっと。おかげで図画工作の成績は、5以外を取ったことがなかったですね」
そんな荒川さんが、テレビゲームに目覚めたのは小学校中学年のことだ。
「伯父さんがゲーム好きだったので、よくゲームセンターに連れてってもらってたんですよ。当時は『ザクソン』『トランキライザーガン』(セガ)、『ドンキーコング』(任天堂)なんかをよく遊んでました。そのうち、『ドンキーコング』がファミコンで出るという話を聞いて、その伯父さんがファミコンを買ってくれたんです。伯父さんにすると、僕ら子供を連れていればゲームセンターに行く口実になるので、お礼のつもりもあったみたいです(笑)」
家では、図画工作に夢中だった荒川さんだが、友達同士が集まれば子供らしい外でも遊びも楽しんだ。
「僕の住んでた地域が山の近くだったので、よくそこに出掛けては秘密基地を作ってました。漫画の本を持ち込んだりして。ファミコンを遊んでいい時間が、1日1時間と限られていたので、その他の時間は、ちゃんと外で遊んでました」
さて、話をゲームに戻そう。ファミコンを遊んでいい時間が限られていたため、荒川さんも最初はただゲームを楽しく遊ぶ子供でおわっていたが、あるソフトが“ゲームを遊ぶ”から“ゲームを作る”ことへと意識を変えるキッカケになった。
「それが『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂)だったんです。それまで遊んでいた『ドンキーコング』にも『マリオブラザーズ』にも、配管工やコングがさらわれたお姫様を救出するという、映画にあるようなリアリティを感じられる設定がありました。
ところが『スーパーマリオブラザーズ』は、?ブロックを叩いたらキノコが出てきて、そのキノコがスライドしながら移動して、それに触れるとマリオが巨大化する……。その設定にはまったくリアリティがないし、とてもシュールなわけですよ(笑)。なぜキノコがあるのか、なぜ亀に襲われるのか、僕には全然理解できなかった。でも、それがゲーム内で成立してるし、遊んでみると非常に面白い。テレビゲームというのは、何でもアリなんだということに気づかされたんです。
そこからは、どうやったらそういうゲームが作れるんだろうという、具体的なことに興味を持つようになりました」
『スーパーマリオ』の発売は85年。わずか10歳ほどで、荒川さんはゲームを作ることの面白さに惹かれ、クリエイターへの小さな一歩を踏み出す。
「その頃には、チラシの裏とかに16×16のドット絵のキャラクターやオブジェクトをたくさん描いていましたね。その絵の下に、“これを取ったら3方向に弾が撃てる”などの設定まで書いておきました(笑)。
そして5年生くらいの時に、「ファミリーベーシック」(任天堂)が出たんですよ。最初は金持ちの友達の家で触っていたんですが、これがあれば自分でゲームが作れるだろうと、母親に頼んで買ってもらいました。そこからは、自分が書きためた設定をゲームにしていきました」
わずか5年生で、オリジナルゲーム作りに目覚めた荒川さん。当時の作品を思い出してもらうと?
「最初に作ったのは、サイドビューのシューティングでしたね。1画面固定で、左と右に戦闘機があって、1P2Pに分かれて弾を撃ち合って相手を破壊したら勝ち。ただ、そこでひとつ問題がありまして。作ってるのがなにせ小学生なので、せいぜい計算できるのは四則演算まで。“大なり・小なり”とかは使いこなせないんですよ。そうなると、座標のずれに対応できない。戦闘機と弾がぴったり1ドットで重ならないと、破壊できないんですよね(苦笑)。
他にも同じようなケースで、マリオ風のアクションも作ってみたんですが、足し算・引き算しか使っていないので、僕の主人公のジャンプの軌道は、放物線じゃなく三角形なんですよ(笑)。二次関数とか全然わかんないんで」
そこで、市販のゲームとの出来の差に困った荒川さんは、独学でその壁を乗り越えようと……?
「小学生ながら、中学生用の数学の参考書を一生懸命勉強しました。きっとそこに答えがあるはずだと思って。そこで公式も覚えたし、小数点以下の数字というのがあるんだとわかったりして。プログラム言語もBASICでしたから、いじっていれば、「PRINT」が画面に文字を表示することだということはわかるんですけど、本来の意味がわからない。なので、英単語が覚えられる本も読むようになりました。
なので、相変わらず絵を描くのは好きでしたが、興味がすっかりプログラム方面に向いてしまったので、美術部に入ろうとかいう気持ちはありませんでしたね」
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