水野英子・丸山昭(元「少女クラブ」編集長)対談(第3回) メッセージトップ>>
●トキワ荘で学んだ(?)こと

丸山:この作品は、玄人受けしましたね。編集長は、いいね面白いねって言って、2、3本やろうということになりました。でも、下関と東京の遠隔操作じゃこっちが大変ですから、いっそのこと水野さんを呼んじゃおうと。これは水野さんがラッキーだったんでしょう、そのときトキワ荘がちょうど一部屋空いたんですよ。その当時はもうトキワ荘はマンガ家志望者のメッカになっていて、みんな入りたくて空き待ちの状態だったんです。たまたま部屋が空いたときに、私がすっ飛んでいって、家主さんに頼んで部屋を押さえちゃったんですよ。それで、3か月の滞在予定で来てもらいました。

水野:石森さんの真ん前、向かいの部屋です。

丸山:トキワ荘の連中は、女の子が来るって言ったら、みんな浮き足立っちゃってね(笑)。まだ10代の女の子だったから、狼の群れの中に放り込むというのは、ちょっと心配しましたけど、赤塚さんのお母さんが来ていて、面倒見てくれたんですよ。食事から何からやってくれて、狼にも目を光らせてくれた。

水野:あそこはみんな、ドアに鍵をかけない生活をしてましてね。それこそ24時間誰でも入っていける。私もあけっぱなしにしてたんですが、あるとき赤塚さんのお母さんに、「夜寝るときくらいは鍵をかけなさいね」って言われたの。で、それはそうだなと思って、寝るときだけは鍵をかけるようになりました。のちのち、赤塚さんが私に夜這いをかけたとかいう噂がありましたが、あれはウソです(笑)。ありえませんでした。

― 初めて上京なさったときの、石森先生の印象はいかがでしたか?

水野:ものすごいニキビ(笑)。

丸山:皮膚が弱かったんだね。あれは体質でしょうね。だから風呂に行くのがイヤで、赤塚さんと流しで水風呂に入ってた(笑)。

水野:私は春にトキワ荘に入って、夏になりまして。石森さんと赤塚さんと3人で洗面器持って風呂に行くんですけど、とにかく引っ張っていくのが大変でした。赤塚さんが、「暑いから入ろうよ、おまえクサイよ」とか言って(笑)。裏手にあるお風呂屋さんだったんで、下に降りて暑い中ふたりで待ってるんですけど、なかなか降りてこないんですよ。で、3人で行って、またみんなが出てくるのを待って、一緒に3人で帰っていました。けっこう仲よかったね。映画に行くのも、目白映画というのが近くにありまして、そこにいつも3人連れ立って行ってたので、映画というのは必ず3人で行くものだと、私は思っていました(笑)。

― やっぱりみなさん映画もお好きだったんですね。特に石森先生は、たくさん映画をご覧になっていたし、見たものをすぐに作品に取り入れたりしていたそうですね。

丸山:それは手塚先生譲りですね。

水野:私が上京してトキワ荘に入って3日目に、セシル・B・デミルの「十戒」という映画が銀座のピカデリーという映画館でロードショーされていました。私の上京祝いみたいなこともあったんでしょうけど、それにみんなで行くことになって、初めてロードショー劇場というのに連れて行ってもらったんです。石森さんのおごりで。

丸山:あのころだいたいみんな石森さんのおごりでしたよね。

水野:石森さんがいちばん忙しくて、みんなはいつも手伝ってあげてたでしょ。当時、アシスタントという制度はなかったし、たぶんお礼みたいなつもりでおごってくれてたんじゃないかな。必ず映画と喫茶店に行くと、石森さんのおごり。こっちはそれをなんとなく楽しみにしてました(笑)。

丸山:新人にしては石森さんの原稿料は良いほうだったし、量もこなしてましたからね。

水野:とにかくボスでしたね。親分肌というか。

丸山:年は下なんだけどね。

― 赤塚先生のほうが少し年上ですよね。

水野:私がトキワ荘に行ったときも、最初にお茶を持ってきてくださったのは赤塚さんでした。石森さんはいつも机の前にどかっと座って、何もしない(笑)。

丸山:たばこ吸って。

水野:灰皿に山のように吸い殻ためて。すると、赤塚さんがさっと持って行って捨ててくるんです(笑)。

丸山:赤塚さんはほんとに女房役でしたね。赤塚さんのお母さんが来る前は、石森さんの炊事係は赤塚さんでした。赤塚さんの作る飯はうまいんですよ。よく、商売間違えたんじゃないかって言ってました(笑)。

― 水野さんから見て、石森先生のお人柄というのは、どうお感じになりましたか。

水野:ですからボスですよ(笑)、ほんとに。どかっと座って、物事には絶対動じないというか。

― どこか飄々としたお人柄に見受けられますね。

水野:そうそう。それでいながら威圧的ではない。要するに何でも受け入れるという感じがありましたね。

丸山:大人(たいじん)の風格って言うのかな。年下なのに人の上に立っていられる。ほんとは、まじめで、シャイでしたね。やっぱり良い家の坊ちゃんとして育ったから、あんまり揉み手をして人にすり寄るとか、そういうことのできない、そのかわりいろいろ相談を受けて、何か言えば、石森さんの言うことならって、みんな聞くような、そういう雰囲気のある人でしたね。

水野:自然に、生まれながらに身についたものでしょうね。とにかくどかっと堂々としてるくせに、結構純情で、人から何か相談を受ければ本気で相談に乗ってくれる、非常に頼もしい人ですね。

丸山:そう。それが、奥さんに惚れたときはもうメロメロだったんですよ(笑)。この話はあんまりいっちゃいけないかな。

水野:いや、したらどうですか(笑)。

丸山:池袋に、ぼくたちが会社の帰りに飲みに行く、ちょっとした大衆割烹のようなお店があって、そこをお姉さんがやってるので手伝っていたんですよ。ペコちゃんってみんなに言われてました。石森さんはたぶん一目惚れなんでしょう。酒が飲めないのにペコちゃんのところに行きたくて、ひとりじゃ行けないし、一緒に行ってよって言いたいんだけど言えない。(講談社の前の)音羽通りで夜遅くになって、もう帰りなよって言ったら、「ちょっと寄りたいところもあるし……」って言うので、赤塚さんが察して、「丸さん、行ってやろうよ」って言われて、よく行ってました。ペコちゃんは美人で、「週刊現代」の表紙にも載りましたからね。結局、石森さんが思いを遂げるわけですが、石森さんのお姉さんという人が大変な美人で、ちょっとその面影があったかな。石森さんは姉さんコンプレックスみたいなのがあったから。

水野:石森さんのお姉さんは、優しくって、きれいな人でしたね。素朴な感じの色の白い美人。ほんとにあったかい感じの優しい人でした。みんなが惚れてたんです。

丸山:トキワ荘みんなメロメロでしたよ(笑)。

水野:石森さんにこんなきれいなお姉さんがなんでいるの?って(笑)

丸山:最初、お姉さん見たときに、「まさか!」って言ったもんね。

水野:まさか亡くなるとは思わなかったですけどね。

― 水野先生がいらっしゃるときにお亡くなりになったそうですね。

水野:そうです。急でしたね。お姉さんはぜんそくを持ってらして、治療のために東京に出ていらしていたんですが、あるとき発作を起こされたんですよ。ときどき発作はあったんですが、そのときはいつもより発作がひどかったんで、タクシーを呼んで病院に担ぎこんだんです。とりあえず入院させたので、ひと安心だと思って、みんな引き上げたんですよ。

丸山:ぜんそくというのは、発作が止まるとほとんどどうということがないので、安心しちゃったんでしょうね。

水野:いつものことだみたいな気持ちもあったんじゃないでしょうか。ひと騒ぎしたので、石森さんが息抜きに映画に行こうよって言い始めて、行こう行こうと、いつものように出かけて、映画を見て帰ったら、お姉さんが亡くなったという知らせが来てた。これは石森さんはショックだったと思いますよ。

丸山:石森さんにしてはこたえただろうと思います。石森さんのいちばん大事なサポーターだったし、いちばんいい読者だったし、その姉さんを自分のところで自分のいないときに死なせたっていうのは、石森さんにとって一生のトラウマになったんじゃないかな。

水野:しかも映画なんか見て遊んでいたっていうのがかなりこたえたと思いますよ。

― 石森先生がトキワ荘のことを描いた「トキワ荘物語」の中にも、そういう場面が出てきますね。石森先生にとってトキワ荘というのは、青春の思い出の楽しい部分と苦い部分とがないまぜになったものがあったんでしょうか。

水野:そのマンガは、トキワ荘がかなり苦い思い出のところに描かれていますね。気持ちはよくわかります。なんかちょっと切ないですけどね。

― 水野先生は、結局トキワ荘に6か月いらっしゃったわけですね。石森先生が5年間住んでいたことを考えると短い期間なんですが、その分濃い時間を過ごされたんでしょうか。

水野:濃かったですね。3月に入って10月に帰りましたから、半年。我が青春の半年でした(笑)。

丸山:あのころは、悪書追放運動で、マンガはけしからんと言われていた時代で、まわりが四面楚歌の中で、トキワ荘の2階に行けば、まわりみんながマンガ好きで、みんなマンガを描いてるし、マンガのことを話しても誰も責めない。だからトキワ荘というのは、オアシスですよ。あそこでみんな癒されたというところがあると思います。それともうひとつ、ぼくは旧制の高校で寮生活をしていたんですが、旧制高校の寮生というのは、親兄弟以上に仲間になるんですね。人格形成のいちばん大事なときに24時間一緒にいて同じ釜の飯を食うわけですから、たとえ親に背いてもこいつの面倒を見るっていうつながりができる。それと同じようなものが、トキワ荘でもあったんじゃないかな。

水野:みんな、ひとつの家族みたいだったって言ってますね。私も、赤塚さんのお母さんに、赤塚さん石森さんと3人でご飯を食べさせていただきました。みんな面倒見てくださって、ほんとにひとつの家族でしたね。

― トキワ荘って、トキワ荘に住んでいるマンガ家さんだけではなくて、いりびたっている人や、丸山さんのような編集者が詰めていたりなど、いろんな人たちが集まってくる場所だったんですね。

水野:なんというか、共同体でしたね。

丸山:編集者は、よく通ってたけど、あそこに長居はできないですね。南京虫がひどくて(笑)。

水野:夜出てくるんですよ。

丸山:で、新人を狙うんですよ。

水野:新鮮な血がおいしいらしいです。私は一週間目くらいに、上から下まで腫れ上がるほど刺されてて、目が覚めたら、いったいなんだこれは、という状態でした。アレは強烈な虫ですよ。

丸山:トキワ荘の主はなんたって南京虫ですよ。壁の隙間を抜けて、自由自在に各部屋を歩き回るわけですから。

― U.マイアの話に戻りますが、水野先生がトキワ荘にいらしてからは、U.マイア作品は、3人が同じ部屋で描いていたんですね。

水野:はい、石森さんの部屋で描いていました。石森さんが窓辺の机に座って、その後ろにちゃぶ台をひとつ置いて、私と赤塚さんが向かい合って同じちゃぶ台で描いていました。で、赤塚さんはなかなか気をまわしてくださって、卓上ライトがひとつしかないのを、右手で描くと左から照らされたほうが描きやすいんだけど、自分は反対側に座ってるから描きにくいほうになるのに、必ず私の左側に置いてくれたんです。座布団も石森さんの部屋にひとつしかなかったから、必ず私のほうに置いてくれて。すごくとにかく気をつかってくださいましたね。

― 石森先生は、トキワ荘の前にすごく狭いところにいらして、トキワ荘に来たとき、4畳半の部屋がすごく広く感じたというお話がありますが、その石森先生の部屋もどんどん狭くなっていったとうかがっています。

水野:私が行ったときには非常に狭かったです(笑)。真ん中にたたみ一枚分くらいしか空いてなくて。本が圧倒的に多かったですね。

丸山:やっぱりステレオですよ。

水野:ちゃんとした2スピーカーのステレオがありましたから。あのころあんなの持ってる人はいなかった。私が最初に石森さんの部屋に通されたとき、誰もいなかったんで座って待ってたんですけど、真正面にそれがでーんとあって(笑)、まずはそれにみとれました。

丸山:もう鳥肌が立つような音でがんがんステレオをかけて、下の部屋からほうきで叩かれて、「いま何時だと思ってるんだ!」って怒られてましたね。

水野:私は音楽が好きだったんで、楽しみでした。たくさんレコードも持ってましたね。キャビネットがいっぱいでしたから。

丸山:それに、35ミリの映写機も。ディズニー映画のフィルムを石森さんが買ったんだけど、映せないから、映写機まで買っちゃったんですよ。

水野:あと、あれがありましたね、ほら、丸山さんが歯ぎしりしてた(笑)。

丸山:あの人、3本ターレットの8ミリカメラを買ったんです。レンズを替えられるやつ。それを持って、赤塚さんと長谷さんを連れて、くにに帰ったんですね。このとき、列車からはみ出して冷や汗垂らしながら撮ったりとかしながら行ったらしいんですよ。それで、ぼくが原稿取りにトキワ荘に行ったら、いないんです。どこいったのって聞いたら、藤子さんが口ごもりながら、「石森のうちに遊びに帰ったんだよ」って。もうこれは間に合わないと思ったら、そこに帰ってきたんです。そしたら、3人でぎょっとした顔になったんだけど、8ミリのフィルムがちょっと余ってて、連中、早く現像に出したくてしょうがないんですよ。それで、ちょっとだけ撮影しました。最初に石森さんが入ってきて、玄関を空けると、ぼくが座って待ってるカットを撮って。すると、石森さんがトキワ荘の廊下をぱーっと逃げるんですよ。

水野:あのね、座ってる次のショットが、丸山さんがギーッて歯ぎしりをしてるの(笑)。

丸山:そうでしたか。石森さんが逃げて、トキワ荘の廊下を小さくなっていくところにエンドマークを入れるつもりだったんだけど、まだフィルムが残っちゃった。どうしようって言って撮った次のカットが、石森さんがぐるぐる包帯巻いて、原稿を描いてる、ぼくは後ろで腕組みして立ってる(笑)、という終わりです。これはまだ、石森さんのところにフィルムがあると思うんだよ。

― そんな半年の生活の中で、水野先生が吸収されたのはどんなことでしょうか。学んだのは、マンガのテクニックだけではなかったようですが。

水野:ひたすら面白くて、面白くて面白くて、3か月くらいで帰るつもりが、ついずるずると居座ってしまいました。とにかく毎日毎日が楽しいんですよ。仕事ができるということもそうですけど、みんなといることが楽しくて、くにに便りもせずにいたら、ある日丸山さんのところに祖母から、「何の便りもないが生きてるか死んでるか」と連絡がありまして(笑)。そろそろ限度かなと思って、やむなく腰を上げたのが10月です。もうしぶしぶでした。いつまでもいたかったんですけど、祖母があまり心配してもまずいので、やむなく帰りました。もうここを出たら二度と入れないだろうなってわかってたんですよ。あとに入りたい人が並んで待ってるような状態でしたから。次に上京したときは、しかたがないので、雑司ヶ谷に下宿しまして、そこからバスに乗って通い組になりました。私が出たあとに石森さんがテレビを買ったんで、テレビを見せてもらいに。

丸山:仕事の面では、水野さん、「銀の花びら」の連載を始めた最初のころは、新人という感じがしたけど、毎月毎月、絵が変わってきましたね。新人の水野英子の絵から、作家の水野英子の絵に変わっていきました。

水野:連載をスタートさせていただいたのは、U.マイアが始まる少し前で、その後その連載を持ってトキワ荘に行って、U.マイアと平行して描いていたんです。どんどんうまくなっていったというのは、スタートしてまもなくですよね。トキワ荘でみなさんが描いてるを目の当たりにしたのが、ものすごい勉強になったんです。それで、5、6回目くらいから絵柄ががらっと変わっちゃって。どんどんうまくなっちゃった。自分で言うのもなんですけど(笑)。

― それには、合作の経験も活きているわけですね。

水野:その影響はすごかったですね。特に石森さんの影響は大きいです。ダイナミックさというのがあの方の身上でしたから、それを私はかなり吸収させていただいたと思います。お互い勉強し合った部分があると思いますが。

丸山:そりゃそうですよ。水野さんみたいな絵を描く人はあの中にいなかったから。……石森さんもそうでしたよ。最初は「俺、女の子描けないよ」って言ってたのが、やっぱり毎月どんどん主人公が変わってくるんです。着るものも髪型も。毎号毎号女の子らしくなってきて。ひそかに街に出ては女の子を観察したりしてたんじゃないかな。ぼくはその後、編集をやめて、美術の通信教育の学校をやったんですけど、それでわかったことがあります。通信教育というのは、みんなと机を並べないで夜ひとりで勉強する。そうすると、これはどうなんだろうってちょっとひっかかると、それを乗り越えるまでどうしても気にかかっちゃって次のステップに進めないんですよ。机を並べてみんなと一緒に勉強してると、いつの間にか他の人がやってるから、疑問を持つ前にハードルを乗り越えちゃってるんですよね。水野さんがトキワ荘にいたことも、いろいろ自分だけじゃ気になって疑問に思ったり乗り越えられないこともあったかもしれないけど、赤塚さんや石森さんが横にいると、疑問に思う前にああそうかってわかるところがあったんじゃないかな。

水野:ああ、こういうのはこうやればいいんだなっていうのは、見ててわかりますからね。

丸山:もっとひどいのは、編集者の騙し方まで覚えちゃって(笑)。

水野:石森さんって、非常に前衛的な、実験的なマンガを描くところがあったでしょ、だから、部分的に、ここは編集に見せたら絶対描き直せって言われるなと思うところがあるわけですよ。そうすると、そこはすでにちゃんと描いてあるんだけど、のけといて見せないんです。〆切寸前になって出すんです。もう描き直せって言う暇がないわけですね。で、無理矢理通す、ということをやっていました。なるほどこういう手があったか、と私も勉強になりました(笑)。石森さんは、もう初期の頃からそんな実験的なことをしていましたよね。

水野英子・丸山昭(元「少女クラブ」編集長)対談動画(3)

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