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森永太一郎…苦難乗り越え製菓王へ(佐賀県伊万里市)


町を見下ろす伊萬里神社の本殿裏山にある森永太一郎の胸像

 森永太一郎(1865年、慶応元年生まれ)の生家は祖父の代まで栄華を極めた。陶磁器の積み出し港として栄えた伊万里で一番の陶器問屋。伊万里湾の漁業権を握る網元でもあったが、父の代には家勢も衰え、6歳の時に父が病死すると財産は人手に渡り、母は再婚。親類の家を転々とする幼少時代を過ごした。

 やがて伯父の山崎文左衛門に引き取られ、商人の心構えを教え込まれる。誠実に良品を扱い、むやみに価格を変えないこと。身をもって学ぶために天秤(てんびん)棒を担いで早朝からコンニャクを売り歩いた13歳の森永は、呼び声が大きければ客に商品の存在が伝わり、よく売れることを知る。

 陶器問屋に奉公し、やがて東京へ。肥前陶器を扱う店に出向した森永は妻セキを得たが店が苦境に。金策に帰郷するも失敗し、神戸から横浜までは夫婦で野宿しながら歩き帰った。さらに世話になった陶器店を危機から救うために大量の陶器とともに24歳で渡米。だがこれも失敗に終わる。

 異国の地で無一文となり、公園のベンチで目ざめた森永の目にとまったのがキャラメルの包み紙だった。「これを日本で売ろう」と決意。厳しい人種差別の中でアルバイト生活を続けた森永はキリスト教と出会い、伝道を決意して帰国。しかし、自立すらできていない森永の声は人びとの胸に届かなかった。

 3か月後、再び米国へ。パン、ケーキ、キャンデーなどの製造を学ぶため、一心不乱に働いた。初渡米から12年。帰国した森永は菓子製造に乗り出す。たった2坪の工場でマシュマロにはじまり、チョコレートそしてキャラメル。知名度の低い菓子を売るためにガラス張りの箱車で行商し、品質を守るために包み紙を開発するなど、どんな失敗にも立ち向かってゆく森永がいた。

 1905年(明治38年)、森永は自らの手で天使のマークを描き上げた。かわいい天使が握っているのは森永太一郎のイニシャル、T・Mである。

 キャラメルを皮切りに菓子メーカーとして大成功をおさめた森永は社長業を引退。晩年はキリスト教の教えを説きながら全国をめぐる日々を過ごした。


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