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資料1

基本問題部会における「宗教教育」に関するヒアリングの概要


(1)上田閑照氏(京都大学名誉教授・宗教哲学)の意見陳述の概要
(中央教育審議会第17回基本問題部会(平成14年12月9日)より)

  本日は、教育とは何か、人間として生きるとはどういうことか、宗教に関する教育についてどのように考えているかについて意見を陳述したい。
  人間が人間であるためには教育という営み、つまり、人間として養い、育てられる必要があるし、人間として学ばなければならない。それを欠くと、人間的であるとは言えなくなる。
  人間は生まれる前からあらゆるものの影響の下に成長する。人間は様々なものの影響を受けて成長するという独特の営みをするが、その段階からどんな人間にならねばならないかについても考えられることが必要。
  人間の意識には「我」がある。それは人の優位性を示すとともに、人間が自分勝手という方向に流れる可能性をはらむものである。その勝手をどのように制御できるか。それができて初めて、自由な自立性が成立しうる。
  現代は、生きるのが難しい条件がある。それは人間自身が作ったものだが、生活文明そのものが非人間的な性格をもつからである。例えばセロテープの発達は「破る」文化を定着させたし、電車に乗ってウォークマンで耳をふさぐことは周囲への配慮の欠如を招いた。そういうふうに人が育てられてしまう環境が整っている。どう対処すべきかしっかり考えて教育に取り組まないといけない。
  母親による子殺しの事件が珍しくなくなりつつあるのは、腹を痛めて産んだから自ずと愛情が湧くというものではなくなっていることを示している。共通した母親像をはぐくみ、それを自らも共有するという営みがないと、これまで自然に思えていたことももはや自然なことではなくなってしまう。

  人間であることがすなわち人間的であることではなくなっているが、「こうあるべき」という像がはっきりしていないと、教育の実践ができない。
  人間として本当に生きるとはどういうことか考えることが重要。自分が「本当に生きる」ことを強調するのは、人間とはおかしくなりがちで、多くは歪んだ姿になって初めて、自分のあるべき姿に目覚めるものだからである。
  人間を特徴付けるのは、「直立すること」と「言葉を使う」ことである。言葉については、相互の意思伝達だけならば動物も行っていることが研究で明らかになっているが、「我」という概念は人しか使うことができない。
  人間は、直立することで自由になった手を使って採集し、加工し、文明を構築してきた。これは従来、人間の最も優れた在り方だったが、手が道具になり、機械になる中で、20世紀後半には人間自らの「必要」というところを超え、「できること」を探求するようになってきている。
  直立することは同時に、自分より高いものへのセンス、自分を支えるものへのセンスをはぐくみ、ひいては自分の力を超越するもの、大地への畏敬のセンスをはぐくむことにつながっていく。言うなれば、これは宗教的なバックボーンである。しかし、現在、人間は自分の周囲のものを何でも構築できるようになっていて、それが畏怖の念の喪失を招いている。

  人間として生きることにはいくつかの段階がある。それは、「人生」「歴史的社会的生」「境涯」である。このうち「境涯」とは、人間の生死全体を含めて、どのような受け止め方をしながら生きていくかに関わることである。最近はこれに加え、自然環境の破壊が進んでいることから、その視点も大事である。従って、「境涯」の前に「生命」というものを置きたい。「生命」は人間が生きるための基盤であり、「生」すなわち「人生」や「生活(歴史的社会的生)」を含むものが定義されると考えている。
  「人生」と「生活」は人間として生きていく上でいちばんの手がかりになるが、両者には質的な違いがある。すなわち、「生活」は質的に豊かであることが必要だが、「人生」はたとえ金銭的に貧しくてもいいかまわないと率直に述べられる側面があり、極端にいうと、「衣食住は三悪道」とさえ捉えられる。
  「命」という問題は、「死」の問題に触れて初めて実感できるものである。ここまで挙げてきた「生命」と「生」と「命」の連関の中で生きることこそが、「人間として生きる」ということに他ならない。しかし、今、生活が非常に肥大しており、人生を圧迫している状況にある。
  世界には厳しい暮らしを強いられる人も多くおり、様々な争いも苛烈を極めているが、彼らを助けようとする活動の多くが、けっきょくは自分たちのためのものになっているという現状がある。
  問題は、いかに自我を抑制するかということ、そして、どこまでも破壊が進みかねない事態に対してどれだけチェックを働かせるかであり、これらの問題をどこかではっきり認識し、正しく対応する必要がある。

  宗教を考えるに当たっては、歴史的現実としての既成宗教から出発するのではなく、人間の真実とは何かから出発することが必要。人間としての在り方の中に、宗教を生み出す所以のようなものがある。ものを大切にし、人に親切にするということで、人間の在り方の真実は言い尽くされていると考える。逆に、それらの感情がなくなったときに人間はどうなるかという認識が切実になれば、それで十分だとも言えると思う。
  今、既成宗教も問題に直面している。各宗教とも、自らの信じるものの相対化ができないため、自らの世界観の中では絶対であるはずの宗教が他の人にとっては最良ではない場合に、衝突を引き起こしてしまう。
  宗教どうしの出会いは、宗教の発展そのものが招くのではなく、宗教とは直接に関係のないはずの科学技術の発達等により起こる。このことも大きな問題。
  本当に人として生きるとは何か。そのことを自覚し直すことが必要である。ものを大切に、人に親切にということを、どうやって実現していくか、それを考え、感じることが大切である。
  漱石の言葉に「自己本位」すなわち自立ということと、「則天去私」というものがあるが、この両方が結び付く在り方が本当の人間の在り方である。また、「死は生より尊い」ことを分かって生きることで生き方が変わり、それを通じて他者やものとの関わりも変わっていくと考える。
  宗教は猛烈な危険性をはらむものである。それは、宗教そのものが危険というのではなく、人間の持つ危険性が宗教によって現れてくるからである。宗教とは本来目に見えないものとの関わりが基礎にあるが、信仰上の必要に迫られてそれを可視化する必要が生じることがある。そのことにより強い思いこみが発生し、人間を縛る可能性があるためである。大切なのは「本当に人間として生きる」とはどういうことかを具体的に、深く問題にし、自覚することである。

  宗教と教育について、両者には結びつきがあるが、両者を結ぶには難しいことも多い。アプローチとしては、歴史的な既成宗教についての十分な知識を与えることがまず必要だ。それを学ぶ場としては家庭科でも地理でも歴史でもいいと考えるが、それはいずれにせよ「宗教教育」とは言い難いのではないか。なぜなら、宗教教育とは人間の真実、すなわち、人はどう生き、どう死ぬべきかであるかについて教えることであると考えるからだ。
  宗教教育と従来の道徳には近いものもあるが質の違いがあると考える。道徳とは、自分で自分の人格を改めていくことを通じて、本当の人間になれるという営みをさす。課せられた義務を果たせるか果たせないかという分け方が基本にあり、そこでは自分の力というものが信じられている世界である。それゆえ、いずれ自分の力の限界という壁に突き当たらざるを得ないものである。一方、宗教の世界では生きていることそのものを根本悪ととらえ、自分が生きるとはどういうことかについて、もっと深いところから問題にするものである。
  よって、道徳教育とは別個に宗教に関する教育が考えられねばならないが、「宗教」を表に出すことにも問題が多い。みんなが同様に宗教的情操に納得するとは限らないし、宗教の多様性、すなわち複数の宗派の存在も難しい問題を惹起するものであるからだ。
  宗教教育においては、人間の経験の中で与えられる人間としての真実をはっきり伝達することが必要だが、その営みはそれを教える人(=現場の教員)自身の人間性が問われる話である。一方で、それを教わる生徒は、社会に存在するあらゆる条件から影響を受けるため、そういう教育が届かないこともあり得る。家庭教育から始めて、長いスパンで考えることが必要な問題である。

【質疑応答】
員)  現在の経済社会、産業社会など大人の社会が非人間的性格をもつものになりつつある中で、養育の場で子どもたちに人間的性格をもたせるのは難しいのではないか。子どもの問題も、子どもがいけないのではなく、社会が非人間的性格をもっているがためのことと考えるが、どうか。

田氏)  決して子どもが悪いわけではなく、子どもが育つ条件、つまり、社会が成立するその水面に非人間化する性格があるということだと考える。社会については行き着くところまでいったときにカタストロフして変わると思う。しかし、個人のレベルはともかく、社会が一瞬のうちにつながる時代においては、劇的な変容はむしろ不可能である。これよりも、社会の中に生きる個人や、個と個の響きあいから成立する共同体についてより強く努力を向けていくべき。阪神大震災を経験した罹災者の一人が「震災を経験して物欲がなくなった」と語ったのを聞いて感銘を受けたことがある。そして、これこそ人間の真実だと思う反面、急速度で復興する中に取り残される罹災者もいて、そこに大きな歪みが生じていると思う。そのことをきっかけにして、生き方について考えてみるのも、宗教教育というならば宗教教育だと考える。

員)  例えば中高生に大岡裁きの「三方一両損」の話をすることがあるが、これは道徳の範疇なのか、それとも宗教の範疇なのか。

田氏)  これは道徳教育か宗教教育かと考える必要はないと考える。「三方一両損」は大岡越前がこのケースに用いた解決法というだけで、これが唯一の解決手段ではない。ただ、この場合は真実の追究を動機として知恵を働かせた事例であるので、道徳教育とは言えないかもしれない。宗教教育の教え方については、なかなか自分が「本当の人間」であることは難しいので、これが本当だと自分に思える人の例を伝え、それを生徒といっしょに学ぶという姿勢が大事であると考える。

居部会長)  人間としてどう生きるか、それをどのように教えるべきか、宗教の複数性から来る問題や、見えないものを可視化することの危険性、知識だけでは宗教教育として不十分だが、人間が狂っている現在、何かやらないといけないという思いについて発表をいただいたと考えている。


(2)阿部美哉氏(國學院大学長・宗教学)の意見陳述の概要
(中央教育審議会第20回基本問題部会(平成14年12月19日)より)

今日は、1宗教教育の状況、2教育基本法9条についての私見、3国公立、私立学校での宗教的情操教育についてどう考えるか、4宗教界や外国からこの問題を見た場合にどうか、について話をしたい。

  1(宗教教育の状況)について。国公立学校での宗教教育の現状として、小学校・中学校の学習指導要領の「道徳」において、自然や崇高なものへの関わりの教育について書いてある。中学校では、更に、畏敬の念を高めることが書いてあり、加えて中学校の「心のノート」にも礼儀やかけがえのない命について書いてある。
  道徳や畏敬の念は、宗教の根幹である。ドイツの神学者オットーによると、宗教のもっとも基本のところの要素であり全ての宗教に共通するものは、畏れや畏敬の念である。自然や崇高なものとの関わり、畏敬の念は、道徳面からも大きいものだが、宗教の根源でもあり、また逆に宗教抜きでは論じがたい面がある。つまり、道徳と宗教の関係は切っても切れない要素がある。
  ただし、いわゆる政教分離でいうところの宗教と、人間の本質としての宗教は違うと思う。宗教の本質にある畏敬の念や崇高なものと道徳とは切り離せない関係にあることが既に認知されている、という意味において、宗教に「関する」教育は現になされている。中間報告においても、宗教に関する教育について、実存に関わる重要なものであるとか、異文化理解の観点であるとか、諸外国で行われている宗教に関する教育を参考にすべきである、という意見が挙げられており、宗教のとらえ方にもよるが、宗教というものを教えないで教育はありえないというのが現実のところである。なぜならば、実存的なものを抜きにしていかに人間が大事かと言っても論じられるものではなく、小さい頃からじっくりと教え、身につけることが大事である。また、異文化理解の際にも、宗教を抜きにすることはできない。
  「宗教」を捉える際の重要なポイントとして、それが翻訳語であるために、「教え」に気をとられがちだが、実際に社会に定着しているのは「教え」を支える儀礼や神話である。特に宗教に関わる儀礼は、それぞれの文化を構成する重要なものであり、儀礼が誤っていれば異文化交流も不可能である。その儀礼が社会生活に浸透し、日常生活の秩序の出発点になっている。日本では、「おはよう」から「おやすみ」までの一日、また新年、植え付け、虫除け、収穫、年終わり、などの一年の中に儀礼があり、その在り方を知ることなくして我々の生活は成り立たない。そういうことを考えるとき、異文化理解のために各国の宗教に関する知識を押さえることは重要である。
  日本の政教分離規定のベースとなった厳格な政教分離原則を持つアメリカにおいても、小中学校から宗教に関する知識の教育は熱心に行われているが、判例の積み重ねによって「宗派教育」は厳密に禁止されている。特に1963年以降、最高裁判例によって、「宗派教育」と宗教に関する知識の教育は大きく変化している。要は、多くの異民族が住む中で信教の自由を守り、政教分離を守るためには、宗教に関する知識は学校教育においてしっかり教育すべきということになっている。州立大学にも宗教学の講座が設けられており、そこで教育を受けた人がさらに教師として小中学校で教えている。例えば、ボストン・カレッジの施設である、教科書などを集めたリソースセンターでは、各国の各宗教に関する資料を集積している。
  そのように、宗教についての教育が全人的な教育の中で必要なものであるとすれば、日本の学習指導要領の「道徳」の中で採り上げている事柄はかなり抽象的である。公民生活の基盤としての宗教が各文化の中にあること(宗教に伴う生活習慣)についての知識は、教育基本法や憲法の枠内でももっと工夫して教えられるのではないか。

  2(教育基本法第9条に関する私見)について。中間報告では、第2項が第1項の趣旨を没却しているので第2項を適切な表現にすべきとの意見、またそれに対し、第2項は現行が適切であるという意見もあり、意見集約されていない。これは、現行基本法9条の1項、2項の関係がうまくつながっていないのが大きな原因であろう。とかく宗教界の人間は「宗教平和」ということを言うが、宗教の基本は、自分たちとそれ以外を区別することである。キリスト教では異端を審判し、ユダヤ教の教義の基本は神と選ばれた民であるイスラエルとの契約であり、神道でも国を治めるべしとの神の命令から神話や国造りが始まっている。基本法第1項の「寛容の態度」が必要なのは、もともと他宗教に寛容ではないから。公立学校には色々な人がいるので、特定の宗教を教えることができないのは当然である。そのときに、宗教は自分たちとそれ以外を区別するものなのだという原点を抜きにしてしまうと、第1項と第2項がばらばらになってしまうので、これをどこでつなぐかが重要。
  そこでまた問題になるのは、神話と儀礼の相補関係。それぞれの宗教には創造神話と儀礼の相補関係があるという認識に立つと、表現とは別に、事柄としてどういう形でつながり得るかという問題整理が大切である。あえて言えば、民族集団あるいは公的存在としての宗教に対する意識が重要なのであろう。
  ついでながら、呪術と宗教を科学に対するものとして同一視する見方についてであるが、科学も宗教の所産である。また、呪術と宗教の関係については、社会学者であるデュルケムによれば、呪術は個人の利益が目的であるのに対し、宗教は集団の団結、集合意識を代表するものである。宗教には個人の救済もあるが、それを他の人と共有することから宗教集団が始まる。この点で、宗教は個人のレベルに押し込まれるものではなく、公的な次元を含み、公的な存在を合理化するものである。宗教と呪術の同一視は望ましくなく、科学との三角関係としてとらえるべきである。
  基本法1項、2項の関係については、切り離して考えてどちらかを強化するのではなく、今のあるがままで、これをいかにつなげるかの視点が大事である。

  3(国公立、私立学校での宗教的情操教育についての見解)について。国公立学校での宗教的情操教育については、戦後長い論争の歴史があり、日本宗教学会でも研究班をつくって意見をとりまとめたことがある。「宗教的情操」が言葉として多義的であるところに問題がある。宗教的情操は、単純に心や思想の問題というわけにはいかない。それを社会生活の上での規範を支えるものとしてとらえる見方もある一方、そんな薄っぺらなものではなく、信仰を重ね修行を積んで悟ることを通じなければ分からない厳しいものとの見方もある。
  学校教育の中で宗教的情操教育を行う場合、まず宗教的情操教育の概念整理が必要。しかし、今のところ整理は困難であり、限定的に条件を付けて、「学校教育の下ではこういう考えに基づき、この範囲において行う」などとして使わないと難しい。
  一方で、私学については、学教法施行規則(24条2項)において、「宗教をもって前項の道徳に代えることができる」とある。いろいろな人が集まる公立学校で宗教教育をすることは押しつけになり、信教の自由に反するが、決まった宗門の生徒が集まる私学では、宗教が道徳教育に当たるとの認識は正しい。つまり論理として、学校教育法で公立学校と並べて私立学校を認め、さらに私立では宗教教育を道徳教育に代えることができるとしているのであれば、道徳と宗教の相互補完的な関係を認定していると言わざるを得ず、別物と言い切ることはできない。
  国公立学校では特定の宗教の知識教育まで避けてしまうことの問題は2つある。まず、知識教育を避けることが一種の特定宗教とも言うべき「宗教否定の教育」になってしまう。また、宗教は教養の一部として必要なものである。どの宗教圏においても、外国の知識人の話には必ず宗教の話が出るが、日本人には宗教に関する知識が欠落している人が多い。

  最後に、宗教界における基本法1項、2項についての反応であるが、根拠は薄いが印象として申し上げる。
  1項をもっとしっかりと書くべきとの意見の人が多いのは確かであり、例えば神道政治連盟などは、宗教的情操教育の名の下に1項を強化するのが望ましいと考えている。反対に、それは危険である、戦前日本への逆流であると考える人もおり、それは主に新しい宗教の人たち、あるいは戦中に弾圧を受けた共通体験を持つ団体である。例えば、創価学会や立正校正会などは、1項の強化にはきわめて慎重だろう。
  2項については、第1項の強化を主張する人の中にはもっと緩めていいと思う人もいるかもしれないが、大勢においては、新宗教も伝統的宗教も、憲法の規定もあり、ほぼこの程度の規定が必要であると認識しているように思う。
  基本法第9条の改正については宗教界にはいろいろな考えや反応があるだろう。結論を言えば、宗教的情操の教育は家庭や宗教団体に任せて、学校教育(特に公立学校)では、客観的な立場から、世界の諸宗教の神話、儀礼、教えの骨格、国際的な紛争の基本的な原因の宗教との関連、カルト事件などの社会不安に関連する問題などについての知識を与えることが大事だと思う。フランスではカルト団体のリストを国会でつくり、カルト問題を教育するための公益団体に公費補助を行っている。ベルギーも同様である。アメリカでは、カルト問題に対して政治家がいろいろと活動をしている。このような、宗教に関する基本的な知識を欠いた場合にいろいろな問題が起こりうるという諸外国の認識は、学校教育の中に宗教に関する知識が必要であるということを訴えている。そうなると、感覚よりも知識の問題であるので、必ずしも宗教教育ではなく、歴史教育や社会科で教えることもあり得よう。

  最後に、道徳教育で取り扱う畏敬の念の教育は宗教の根幹であり、世界の宗教の基幹でもある。この畏敬の念について各宗教がいかなる表現形態をとっているかについて教育することは極めて大切である。

【質疑応答】
員)  宗教については歴史や社会科で教えてもいいとのことだが、どのあたりから具体に始めたらいいのか。今でも高校では宗教の知識について一部教えているが、それでは不十分か。

部氏)  今の指導要領では、小・中学校については感覚的な内容を教え、高校で知識が出てくるが、感覚から始めて知識にいくのがいいのだろうか。儀礼は早いうちから学ぶべきで、自分たちの儀礼が早いうちからわかることにより、他の儀礼との違いもわかってくる。ステップを上手に作ってできるところから始めることが大事である。そのためには、政治学や社会学の先生も動員して検討すべきで、宗教哲学や宗教学だけでは狭すぎる。

員)宗教にはいろいろあるが、教祖の教えと布教活動の内容が一致しないことが多い。そのどちらを宗教と考えるべきか。

部氏)  おもしろい課題であるが、全体でとらえていくということになるのだろう。どこまでが教祖の教義かもはっきりしない。日本では、葬式仏教こそ日本仏教だが、釈迦の思想では葬式を許したはずはない。しかし、日本の仏教が非仏教かというとそうではない。プラクティスが実際に共有されている部分が共通認識の出発点として重要である。

員)異文化理解について、レヴィ・ストロースは宗教的心情という言葉を使っているが、これと宗教的情操とは関係があると思うか。

部氏)  かなり重なり合って使われることが多いと思う。

員)  9条1項と2項の関係について、2項はこの線でいければいいと思うが、1項については憲法に書くべきことだと思う。基本法には、もっと定義を決めれば書けるということか。

部氏)  「具体にこの範囲」という記述があるとやりやすくなるとのご意見は同感だ。今の条文でも読み方、応用によっては十分に使えるが、ある一定条件の中で、この範囲までは大丈夫という補整があれば望ましいと思う。

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