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ちゃっきりぶし誕生秘話


 こうして昭和2年のある日作詞の取材のため白秋は静岡市を訪れた。なにしろ当代一の詩人の大先生が来るとあって、これをお迎えする静岡電鉄の張り切りかたは並大抵ではなかったらしい。接待にあたる芸者を指名して検番に集めさせたうえ、「よい唄ができるかどうかは、みんなの腕次第で決まるのだ。できる限りの大サービスに努めよ」とハッパをかけるなど、当時の熊沢専務自身が陣頭指揮をしてまさに金に糸目をつけぬ歓迎準備をととのえた。
静岡駅前にあった大東館  これに対して"熱烈歓迎"を受けた白秋先生のほうもさるもの。当時、静岡駅前にあった大東館にひとまず落ち着いたあと、浮月楼で盛大な歓迎の宴にのぞみ、続いて会社側の案内であちこちと飲み歩きながら想を練り、宿も自分の気に入った新求亭へと移した。
  また、遊廓のある二丁目にまで足をのばして痛飲、その酒豪ぶりには周囲の人々も舌を巻いたそうである。
 だが、その実、白秋としては酒を飲み巷に浮かれながらさまざまな階層の人々に接することによって、少しでも静岡独特の人情風俗にふれ、詩想と結びつく言葉や、話題、特にお茶についての知識を得ようと、人知れぬ努力をしていたのであろう。そんな詩人の心を周囲の人々は全く知るよしもなかった。

 酒浸りの幾日かが続いたある日のこと、田んぼに囲まれた遊廓街の一角、蓬苹楼で日暮れどきから杯を重ねていた白秋は、土地っ子芸妓の〆吉が二階の障子を開けながら、だれに言うとなくつぶやいた言葉に、思わず耳を傾けた。「きやァるがなくんて、雨づらよ」なるほど安倍川の土手まで広がる一面の田んぼからは、わきあがるようなカエルの大合唱が聞こえてくる。そのなき声を聞いて〆吉は、土地っ子まるだしの方言で(こんなにカエルがなくのだから、たぶんあしたは雨になるのでしょう)とつぶやいたのである。「おい、僕の宿からすぐ鞄を取ってきてくれ」と、白秋は鞄の届くのを待って、原稿用紙にサラサラと太い万年筆を走らせた。これが民謡『ちやっきりぶし』の各章にくり返し使われる、いわゆる”はやしことば”になったのである。 白秋が遊んだ蓬苹楼

 白秋は当初、原作に「きやァるが啼くから…」と書いたというが、のちに地元静岡出身の作家、長田恒雄から、「方言では『なくんて…』と言いますよ」と言われて、そのとおりに改めた、というエピソードもある。いずれにしてもこの"はやしことば"を決めたことによって、名作『ちやっきりぶし』の作詞に大きなはずみがつき、民謡に欠かせない強烈なローカルカラーが実にほほえましい表現で盛り込まれたのは確かだ。何げなくそのひとことをつぶやいた〆吉姐さんの功績、まことに絶大というほかはない。

作曲は町田嘉章(佳肇)氏
町田嘉章  とにかくこうして待望の民謡がつくられたわけだが、白秋が静岡市を訪れた際、東海道線の車内でばったり乗り合わせたのが、なんと邦楽作曲家の町田嘉章氏だった。同氏は尺八家の中尾都山、田辺尚雄両氏らと共に九州へ演奏旅行の途中であった。
そのとき白秋は、「いま静岡電鉄に頼まれて、民謡をつくるために静岡市へ行くんだがそれが出来たら君に作曲を頼もうかなあ」と言い、嘉章氏も「ぜひよろしくお願いします」と言って別れた。
やがてその年、白秋の奥さんが嘉章氏宅を訪れ、「主人から預かって参りましたが、これをよろしくと申しておりました」と、差し出したのが『狐音頭』と『ちやっきりぶし』の歌詞だった。それから間もなく、静岡電鉄の長谷川部長からも正式に作曲の依頼があって、その年の秋には2曲とも作曲が出来上がり、嘉章氏は静岡市へおもむき、芸者衆に唄の指導をした。

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