日本共産党資料館

科学的社会主義の原則と一国一前衛党論
――「併党」論を批判する

(『赤旗』 1984年7月25日)


一、干渉主義者の「併党」論

二、科学的社会主義と一国一前衛党の原則

三、大国覇権主義による一国一前衛党論の重大な歪曲

四、自己矛盾の結果としての「併党」論

五、科学的社会主義の一国一前衛党の原則の擁護と発展のために


 最近、世界の共産主義運動に、一つの国に複数の共産党が併存してかまわないとする「併党」論が、社会主義大国を中心にあらわれている。

 この「併党」論は、もともと一つであった他国の共産党を自分たちの意向に従わないからという理由で、社会主義大国の党が外部から干渉して分裂させ、その結果生まれた反党分派主義グループと、当の干渉と分裂策動の対象となった共産党とを同列視し、そのいずれとも関係をもつという手法で、分裂の引きがねとなった大国の党の干渉主義そのものを合理化するというものである。社会主義大国の党指導部による他国の共産党への干渉自体新しいものではないが、新たに「併党」論なるものをもちだし、覇権主義、干渉主義の恥ずべき粉飾をこころみているところに、最大の待徴がある。

 しかし、科学的社会主義という基本的に共通の理念と原則で結ばれている他国の共産党に外部から干渉をくわえ、その結果生まれた対外盲従分派主義者の組織と関係をもつなどということは、いかなる日実や方便をもってしても、絶対に正当化できるものではない。

 後にくわしく解明するように、この社会主義大国の「併党」論は、基本的にはそれぞれの国に統一した革命的前衛党を形成し発展させるためにたたかったマルクス、エンゲルス、レーニンなど科学的社会主義の先駆者たちの理念と実践をみちびきとして世界の共産主義運動の歴史のなかで確立されてきた、一国に一つの科学的社会主義の党、共産党という原則と根本的に両立しえないものである。

 同時に、各国の革命運動、共産主義運動に全責任を負うべき共産党が二つも三つも併存してもよいなどとするこの種の議論がまかりとおるとするならば、もともと一国一前衛党の原則を前提として確立されている各国共産党の自主独立、同権、内部問題不干渉という共産主義運動の原則そのものを根底からくつがえし、世界の共産主義運動に際限のない混乱と分裂をもちこむことを正当化することにならざるをえない。これこそ、現在の世界の共産主義運動にあらわれた最悪の分裂主義、干渉主義の合理化論といわねばならない。したがって、科学的社会主義の原則的見地に照らし、社全主義大国の党指導部の干渉合理化の議論としての「併党」論の有害な本質をあきらかにすることは、科学的社会主義の大義を断固としてまもり、覇権主義、分裂主義から各国の革命運動の自主性を擁護し、世界の共産主義運動の正しい前進をかちとるうえでも、きわめて重要な国際的意義をもっている。

一、干渉主義者の「併党」論

 それでは現在、この「併党」論は、どのようなかたちであらわれているのだろうか。その典型例をみてみよう。

 本年1月、ソ連共産党などは、スペイン共産党指導部からの事前の警告を無視して、この党を脱走し対ソ追従にはしった反党分派主義者らによって組織された、「共産党」を名のる「新党」旗揚げ大会に代表を派遣し、この分派組織を支持、激励するという露骨な干渉行為にのりだした。わが党がこの干渉行為をきわめて重大視し、『赤旗』2月5日付主張で、「いっそう悪質な大国覇権主義のあらわれとして、つよく糾弾し、ソ連共産党がこうした干渉をただちにやめることをきびしく要求」したことは、ひろく知られている。

 ところがその後も、ソ連共産党は、こうした干渉行為をやめるどころか、スペインの対ソ追従分派への支持をつよめ、最近では、イグナシオ・ガジェゴら反党分派主義者の「共産党」の代表をモスクワに招待し、会談をおこなっている。5月23日付『プラウダ』で報道された、この会談についてのコミュニケでは、「これまで両党間につくられてきた関係のいっそうの発展をめざすそれぞれの党の意向」が確認されている。

 ソ連共産党による他国の共産党への干渉は、日本共産党にたいするものもふくめ、これまで少なくない事例がある。しかし、今回とりわけ軽視できない重大なことは、ソ連共産党がスペインの反党分派主義者との関係を深めるにあたって、公然と「併党」論をもちだし、みずからの干渉主義を正当化しはじめたことである。

 このことは、ソ連側の「公然とした干渉」に抗議し、その中止をもとめたスペイン共産党指導部にたいする回答書簡(本年1月22日、駐スペイン・ソ連大使館をつうじて送られた書簡)で、ソ連共産党中央委員会がのべていることに端的にしめされている。この書簡では、「階級的立場を堅持し、マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義の諸原則を一貫して支持し、……ソ連共産党と友好関係を維持することを望んでいるスペインの共産主義者」――実際にはガジェゴら対ソ追従分派主義者――と「ソ連共産党が……関係をもつ」のは当然だと主張され、さらにつぎのように言明されている。

 「われわれはあなたがたに、二つの共産党が存在する国ぐに(たとえば、スウェーデン、インド)で、ソ連共産党がその双方の党と関係をもっていることをお知らせすることができる」

 これは、ソ連共産党に忠実なものとなら、たとえ反党分派主義者のグループであっても、「党」としての関係をもち、支持、激励するのは当たり前だという、干渉者の居直りの論理である。

 ソ連側がその「併党」論を採用するにあたってもちだしているスウェーデンとインドの共産党にかぎっていえば、いずれも、かつてソ連の大国覇権主義的干渉をうけ、党の統一と団結に重大な打撃をうけたことは、歴史的にも知られている。

 スウェーデンでは、1977年に、スウェーデン左翼党(共産党)内の分派がソ連などの支援をうけて、対ソ盲従の分裂組織「スウェーデン労働者党(共産党)」を結成した。これは、文字どおり、ソ連の党利党略的な干渉による「別党」の旗揚げであった。この「別党」結成にいたる過程で、スウェーデンの対ソ追従分子が、とりわけ1968年のチェコスロバキアにたいするソ連などワルシャワ条約5ヶ国軍の侵略を全面的に支持し、それ以後70年代にはいってからも、党内にあってチェコ侵略を容認しない党指導部の自主的な立場や政策を攻撃しつづけ、そのことによってソ連側から激励と支援をうけてきたことはよく知られている。こうした外部からの干渉をてことした分裂の要因について、ソ連の公式の文献は「これは、長期にわたる党内闘争の結果であり、その過程では、多くの党員や一連の党組織が、党指導部を、何よりもまず労働者階級に依拠する方針からの離脱、とくにプロレタリア国際主義の原則からの離脱を理由として、批判した」(『政党便覧』、1981年、モスクワ刊)などと、みずからの干渉には口をつぐみながら、スウェーデン左翼党(共産党)の「党内闘争」から自然に生みだされた結果であるかのように描きだしている。そのさい、このソ連の文献は、党指導部を攻撃した対ソ追従分子による「別党」を紹介するにあたって、「労働者党(共産党)の大会(1977年11月)で採択された綱領には、同党の思想的基礎はマルクス・レーニン主義、プロレタリア国際主義であること……がのべられている」などとのべている。これは、ソ連共産党が、スペインの分派主義組織の「共産党」を「マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義の諸原則を一貫して支持」しているとして、それとの関係確立を根拠づけようとしているのと同し論法である。ここでいう「マルクス・レーニン主義」とか「プロレタリア国際主義」という言葉が、実際には、ソ連共産党への忠誠ということをいいかえたものにすぎないことは明白である。

 スウェーデンの反党分裂組織が、いかに「党」を名のっていようとも、この国の現実政治にいかなる基盤ももたない存在であることは、最近の総選挙でも1議席も獲得できず、得票率もわずか0・1%にしか達していないことからも裏づけられている。スウェーデン左翼党(共産党)は5・6%の得票と20議席を獲得しているが、ソ連共産党はこの対ソ追従分派を「党」だとして「公認」し、今日でもなお、惜しみない支持をつづけている。

 インドについていえば、1964年、長期にわたる内部対立など複雑な過程に外部からの干渉がくわわり、もともと一つであったインド共産党が分裂してインド共産党(マルクス主義)=CPI(M)とインド共産党=CPIに分かれ、今日にいたっている。インドの場合、その経過や背景はスウェーデンやスペインなどとは異なっている面はあるが、そのことによって、インド共産党にくわえられたソ連共産党の干渉が免罪されるというものではない。ソ連共産党指導部は、1950年代のはじめ、コミンフォルムをつうしてインド共産党に綱領的路線をおしつけ、その後も、ソ連の対インド政策が変化するたびにそれに従わせようとした。ソ連共産党は、ソ連・インド両国の外交関係の発展をなによりも重視する立場から独占資本や大地主を擁護し、労働者や農民を弾圧するインド政府の対内政策をすらインド共産党に支持させようとさえした。このソ連の干渉をめぐってインドの党内では、自主的に路線と政策を追求しようとした潮流と対ソ追従派との対立が深刻化し、1964年、ついに党の分裂にいたった。これは歴史的事実である。この分裂の背景に、インドと中国の国境紛争、中ソ対立の激化などが複雑にからみあっていたこともあるが、分裂にみちびいた決定的ともいえる要因が長期にわたるソ連の大国主義的干渉であったことは否定することができない。

 こういう干渉の例は、スウェーデン、インドにつきるものではないが、みずからの覇権主義的干渉を決定的かつ重要な要因の一つとして生まれた、党の分裂という不正常な状態がつづいてきたことへの、ソ連共産党の歴史的な責任は重大である。

 ところがソ連共産党は、こうしたみずからの干渉についてはほおかぶりする一方で、スウェーデン、インドなどの「一国二党併存」状態を、さらにスペインの場合にもあてはめて、スペインでも従来からの共産党と併行して、もう一つの「共産党」が存在しているのだから、これとも関係をもつことのどこが悪いのか、と居直っているのである。

 このような「併党」論が大手をふってまかりとおることを許すならば、各国の共産主義運動にはかり知れない障害と困難をもたらすことはだれの目にもあきらかであろう。

 「併党」論を干渉の合理化のために利用しているのは、ソ連共産党だけではない。

 中国共産党も、1960年代前半、とくに国内での「文化大革命」の時期に、他国の革命運動に乱暴な干渉をくわえ、世界のあちこちで対中追従分派主義者につぎつぎと「別党」を結成させたが、この「文革」当時の誤りがあきらかとなり、各党の「独立自主、完全平等、相互尊重、内部問題の相互不干渉」(中国共産党第12回大会、胡耀邦報告)をうたいだして以後、今日では、「文革」時を頂点として歪められた他国の共産党との関係を、実際には「併党」論によって修復しようとしているのが特徴である。このことは、中国共産党の現指導部が、みずからの覇権主義展開の道具として利用した、反党分派分子をふくむ雑多な一連の政治グループとの関係を温存し、新たに正常化をとげた共産党と併行して関係を継続していることに、もっともよくあらわれている。

 たとえば、中国共産党は1982年10月、「完全平等、独立自主、相互尊重、相互内部問題不干渉の原則」のうえに、久しく断絶していたフランス共産党との関係を正式に回復した。ところが、その2ヶ月後の同年12月、中国側は、フランスにたいする干渉の産物である「フランスML主義共産党」の代表団を中国に招いている。この代表団と会見した胡耀邦総書記は、「われわれは、あなたがたとすでに20年近い付き合いがあり、フランス共産党、フランス社会党とも関係をもっている。われわれは、中国共産党と関係を樹立することを希望するすべてのプロレタリア階級政党、民主主義政党にたいし、いずれも独立自主、完全平等、相互尊重、相互内部不干渉の4原則にもとづいて、関係を発展させるつもりである」と、フランス共産党と関係を回復した埋由を中国追従グループに説明している。さらに1983年7月には、同じ干渉の産物である「フランス革命共産党」の代表団も招かれ、喬石書記候補が会見し「親しく友好的に」話し合っている。このように、フランスだけをとってみても、中国共産党は三つの「共産党」と関係をつづけている。フランスだけではない。

 1983年5月には、ベルギー共産党とも関係を回復し、そのさいベルギー共産党のルイ・バン・ゲット議長と会見した胡輝邦総書記は、世界の共産主義違動にかんして「わが党はみずからがかつて誤りを犯したと考えている」とのべたが、その2ヶ月後の同年7月に、同じく中国の干渉の産物である「ベルギーML主義共産党」代表団を招待し、喬石書記候補が会見している。

 さらに、中国側の干渉と結びついてオーストラリア共産党から分裂した「オーストラリア共産党(ML)のヒル議長も、中国側の招待で、これまでたびたび訪中し、中国側はこれとの関係の発展を表明している。こうした例は多数にのぼっている。われわれとしてとりわけ重視しなければならないのは、中国共産党が、いまだ断絶状態にある日本共産党にたいしても、過去の覇権主義的干渉の誤りの明確な清算をあいまいにする手法として、「併党」論を利用しようとしていることである。

 たとえば、中日友好協会副会長で中国共産党対外連絡部顧問の張香山は、1983年2月、総評の槙枝議長との会談で、わが党との関係について、「@関係断絶を招いた原因についてまず中共がその過ちを認める、A日共の分派分子との関係を切れ」という「日共の要求」は「中共にたいする不当な干渉」だなどと、干渉者と干渉をうけた側をあべこべにして居直り、「古い友人を切り捨てることを条件とするようでは解決しない」と語ったと伝えられる。ここでいう「古い友人」のなかに、ただ単に「文革」時に対日干渉の手先となっただけでなく、今日でも日本共産党にたいする攻撃と破壊を基本目的としている「日本労働者党」とか「日本労働党」を名のる反党小集団がふくまれていることは、中国共産党がこれら反党小集団をひきつづき支持し関係を維持していることからもあきらかである。

 こうした中国側の言い分にしたがえば、わが党にたいする空前絶後の覇権主義的干渉で駆使した反党分派集団との関係を温存するというだけでなく、反党分派集団との関係を切らないことを条件にしてこそ、わが党との関係回復が可能だということになる。これこそ「併党」論のおしつけ以外のなにものでもない。

 これは、スペイン共産党にたいして、その反党分派主義者の組織と併行して関係をもつのは当然だと強弁するソ連共産党の干渉合理化論と本質的には共通の、恥ずべき干渉者の論理である。

 4月におこなわれた日本共産党第1回全国協議会の冒頭発言で、官本顕治議長は「日本共産党から除名された反党分子を相手にしながら、しかも日本共産党ともなしくずし的に関係を回復したいというようなことを、われわれは断じて認めない」と明確にのべている。

 以上みてきたように、ソ連流のものであれ、中国流のものであれ、いずれも、その覇権主義、干渉主義の誤りを「併党」論によって合理化しようとしていることは明白である。

 しかも、ソ連流の「併党」論を無条件に支持する立場からのものであるが、この「併党」論の国際的な普及に手をかす論調もすでにあらわれている。

 ソ連の干渉を重大な要因として生まれたヤルゼルスキ軍政下で、ポーランド統一労働者党機関紙『トリブナ・ルド』2月9日付論評は、「スウェーデン、インドの二つの党は、多党間においても、2党間においても、同等に扱われている。他の諸党は、このような実態に慣れ、ふつうのこととして認めている」などとのべ、「一国二党併存」を正常なこととまでいいきっている。

 しかしながら、社会主義大国の側からの有害を干渉合理化論としての「併党」論が、世界の共産主義運動に公然ともちこまれるのを容認するならば、それぞれの国の革命闘争に重大な障害と困難をつくりだすだけでなく、世界の共産主義運動に分裂と混乱の悪循環をもたらすことになるのは避けられない。

 もともと、それぞれの国の革命の事業は、その国の労働者階級が一つの統一された力を発揮することによって勝利を保障するものである。科学的社会主義の革命的原則にもとづき、労働者階級の根本的利益を代表し、その国の革命運動を統一的に指導する政党がなければ、その国の変革を正しくおしすすめることも、最終的な勝利にみちびくこともできない。このことは、これまでの革命運動、共産主義運動の歴史がおしえている。

 現代では、それぞれの国でこの指導的役割をになう単一の科学的社会主義の党のたたかいを相互に支持しあうことによって、世界の共産主義運動はなりたっている。各国の革命運動の過程には、さまざまな局面があるし、また世界の共産主義運動も複雑な幾多の曲折をへてきている。しかし、どのような局面や曲折があったにせよ、一国に単一の科学的社会主義の党という立場こそ、各国の革命通動を勝利にみちびき、世界の共産主義運動を全体として発展させる力ともなるのである。

 社会主義大国の党が、その都度あれこれの思惑から、他国の党の内部問題に干渉し、その党を分裂させ、この分裂によって生まれた二つの組織の双方と関係をもつなどということは、科学的社会主義のほんらいの立場とも絶対にあいいれるものではない。

 その意味からも、一国一前衛党の立場こそが、科学的社会主義の創始者、先駆者たちの基本的、大局的な立場であったことをあきらかにすることは、重要な今日的意義をもっている。

二、科学的社会主義と一国一前衛党の原則

 マルクス、エンゲルス、レーニンは、それぞれの国にさまざまな複雑な状況があったにせよ、また世界の共産主義運動がさまざまな複雑な局面をとおってきたにせよ、大局的には、各国の労働者階級は、革命的原則にもとづいて、単一の前衛党に結集すべきであるという立場を科学的社会主義の原理的見地としていた。

 宮本議長は、日本共産党第1回全国協議会の冒頭発言のなかで、この問題にふれ、つぎのようにのべている。

 「科学的社会主義の先駆者たち、マルクス、エンゲルスやレーニンの考えは、いろいろの歴史的時期において問題の状況は変わったことがありますが、その基本的な考えは、当然科学的社会主義の世界観からみて、また労働者階級が団結しなければ解放闘争に勝利しえないという点からみても、一つの国の革命の責任を担うのはその国の一つの共産党、一つの科学的社会主義の党であるという考えであり、これは全体として明白であります」

マルクス、エンゲルスの立場

 マルクス、エンゲルスは、1847年に、「共産主義者同盟」を創立し、1848年にはこの同盟の綱領である『共産党宣言』を発表し、労働者階級の解放の事業に科学的基礎をあたえるとともに、この事業の勝利を保障するのは、プロレタリアートの前衛党であることをあきらかにした。2人は、そのなかでこの党が他のプロレタリア諸党とはちがい、「プロレタリアート全体の共通の利益」を代表し、プロレタリアートの「運動全体の利益」を代表する党であることを強調した。これは、それぞれの国において、そのような党が理論上、実践上、一つしか存在しないことをしめすものである。

 「共産主義者が他のプロレタリア諸党と異なるのは、ただ次の一点においてである。共産主義者は、一方では、プロレタリアのさまざまな一国的闘争において、国の別にかかわらないプロレタリアート全体の共通の利益を強調し、主張する。他方では、プロレタリアートとブルジョアジーとの闘争が経過するさまざまを発展段階において、つねに運動全体の利益を代表する。
 だから、共産主義者は、実践的には、すべての国の労働者諸党のうちで、もっとも断固たる、たえず推進していく部分である。理論的には、プロレタリア運動の諸条件、その進路、その一般的結果を理解している点で、残りのプロレタリアートの大衆に先んじている」(『共産党宣言』、全集4巻、487−8ページ)

 同じ労働者階級の内部においても、さまざまな傾向や潮流が生まれるし、それにあわせて労働者階級に基盤をおく複数の政党が存在しうる。マルクス、エンゲルスは、それらを排除するどころか、「共産主義者は、他の労働者諸党に対立する特別の党ではない」(同上)とのべ、それら諸党との共同を主張した。しかし、科学的社会主義の理論にもとづき階級全体の利益、階級闘争全体の利益をつねに代表しうる党は、理論的にも実践的にも一つしかないことを強調したのである。

 レーニンは、このマルクス、エンゲルスの見地をつぎのようにのべている。

 「マルクス主義がおしえるところによれば、労働者階級の政党、すなわち共産党だけが、プロレタリアートおよび勤労大衆全体の前衛を統合し、そだて、組織することができるのであって、この前衛だけが、勤労大衆の避けられない小ブルジョア的動揺や、プロレタリアートのあいだの職業組合的な偏狭さ、あるいは職業的偏見の避けられない伝統や再発に対抗でき、プロレタリアート全体の統合された活動全体を指導すること、すなわちプロレタリアートを政治的に指導し、プロレタリアートを通して勤労大衆全体を指導することができるのである。これなしには、プロレタリアートの執権は実現できない」(「わが党内のサンディカリズム的および無政府主義的偏向についてのロシア共産党第10回大会の決議案」、全集32巻、257ページ)。

 このように前衛党とは、階級全体の利益を代表し、そのたたかいを指導するからこそ前衛党なのである。マルクス、エンゲルスがあきらかにした見地は、これであった。一国に「複数」の前衛党を想定することは、階級をばらばらにし、プロレタリアートを自覚的な階級として結集することを不可能にし、結局階級全体を指導する前衛党の存在そのものを否定することになる。マルクス、エンゲルスが明らかにした理論的見地が、一国一前衛党の原則であることは明白である。

 2人は、このような科学的社会主義の原則にもとづく真のプロレタリア政党を各国に結成するためにたたかった。

 しかし、2人が「共産主義者同盟」を創立した当時、この同盟に参加したのは、ドイツ、フランス、イギリス、ベルギー、デンマーク、スウェーデン、スイスの革命家など4百人たらずであった。まだ、これらの国に科学的社会主義の原則にもとづく大衆的なプロレタリア政党を結成するにはいたらなかった。2人は、真の大衆的プロレタリア政党の結成をめざして、なお長期のたたかいをすすめなければならなかった。

 マルクス、エンゲルスが、「共産主義者同盟」の伝統のうえに、各国の労働者階級のなかに科学的社会主義の理論をひろめ、労働者のばらばらな闘争を団結した、統一的な闘争に発展させるために、1864年に創設したのが、プロレタリアートの最初の国際組織、国際労働者協会(第1インタナショナル)である。当時、マルクス、エンゲルスの理論と思想は、労働者運動のなかで、その地位を獲得していたものの、広範な労働者のなかには、まだ、イギリスの労働組合主義、ドイツのラサール主義、フランス、ベルギー、スイスのプルードン主義などさまざまなマルクス主義以前の理論と思想が影響力をもっていた。換言すれば、労働者運動はまだ多種多様な発展段階にあった。

 こうした状況のもとで、科学的社会主義の理論と思想を広範な労働者に普及するため、マルクスエンゲルスは協会の加盟資格を既存の各種労働団体や個人にもひろげた。マルクスが執筆し、協会で承認された「国際労働者協会暫定規約」は、「本国際協会ならびに本協会に加盟するすべての団体および個人は、真理、正義、道徳を、皮膚の色や信条や民族の別にかかわりなく、彼ら相互のあいだの、また万人にたいする彼らの行動の基礎と認める」(全集16巻、12ページ、強調引用者)とのべている。

 こうして、労働組合、労働者の共済団体、協同組合、労働者教育団体が協会に加盟し、また、各国の労働者運動の活動家が個人としても加盟した。マルクス、エンゲルスは、国際労働者協会は「ぜひとも、あらゆる傾向の社会主義者に門戸を開放せねばならなかった」(「社会民主同盟と国際労働者協会」全集18巻、325ページ)とのべている。

 これは、各国のプロレタリア解放の事業の未成熟な段階においてとられた組織上の措置であって、マルクス、エンゲルスが労働者運動を統一した闘争に結合していく、一国一前衛党の原理的立場にたっていなかったことをいささかも意味しない。マルクスは、労働者は一致団結した力に依拠しなければ勝利できないという見地にたち、同じ「規約」の第7条で協会員の任務をつぎのようにさだめている。

 「各国の労働者運動は一致団結の力によらなければ成功を確保することはできず、他方ではまた、国際中央評議会の有用性は、中央評議会と交渉をもつ相手が少数の労働者協会全国中央部であるか、それとも、多数のばらばらな地方的小団体であるかによって、大部分決定されざるをえないのであるから、国際協会の会員は、各自の国のばらばらな労働者諸団体を、全国的な中央機関に代表される全国的団体に結合するために、最大の努力をはらうべきである」(全集16巻、13〜14ページ、強調引用者)

 このようにマルクスは、労働考階級の解放のためには、労働者が「一致団結」しなければならず、労働者がばらばらな団体に分散するのではなく、「全国的団体」に結合されること、換言すれば単一のプロレタリア組織に結集することの必要性を強調している。

 1866年、ジュネーブで協会の第1回大会が開催されたが、それに先だってひらかれた総評議会の会議で、マルクスは、大会にのぞむ総評議会代表団の統一的立場をつくった。マルクスは、そのなかで、2年間の協会の活動を総括しながら、国際労働者協会の目的は、「従来さまざまな国の労働者階級がばらばらにおこなってきた解放の努力を結合し、普遍化するということ」(「個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示」全集16巻、190ページ)であるとのべている。

 国際労働者協会の創立の初期には、労働者党が存在していたのはドイツだけで、全体として労働者階級の運動は、労働者党の結成を日程にのぼらせるところまで国際的に成熟していなかった。しかし国際労働者協会のメンバーは、1871年のパリ・コンミューンの経験を頂点とするさまざまな闘争をつうじて、マルクス、エンゲルスが主張していた各国に単一のプロレタリア政党を確立することが、それぞれの国の労働者階級の勝利の保障であることを実践をとおして確認していった。マルクスは、1871年9月にロンドンで開催された国際労働者協会代表者協議会の諸決議を執筆し、労働者階級は、つぎのことを考慮しなければ勝利しないと書いた。

 「労働者階級が有産階級のこの連合勢力に対抗して階級として行動できるのは、有産階級によってつくられたすべての旧来の党から区別され、それに対立する政党に自分自身を組織する場合だけであること、
 労働者階級をこの政党に組織することは、社会革命の勝利とその終局目標――階級の廃止――とを確保するために不可欠であること」(「1871年9月17日から23日までロンドンで開催された国際労働者協会代表者協議会の諸決議」、全集17巻、395ページ)

 マルクス、エンゲルスに指導された協会は、労働組合主義、ラサール主義、プルードン主義、さらにはバクーニンによってもちこまれた無政府主義などあらゆる非マルクス主義的思想と潮流にたいしてたたかい、また各国の労働者運動の実践をとおして、マルクスが書いたこの結論に到達したのであった。1872年にハーグでひらかれた、協会の事実上最後の大会となった第5回大会は、科学的社会主義の原則にもとづいた自主的を大衆的プロレタリア政党を各国に結成しなければならないというロンドン協議会の決議を確認し、総評議会の所在地をマルクスの提案によって、アメリカにうつすことを決定した。(協会は、1876年7月アメリカでひらかれた第7回大会で解散を決議した)

 ハーグ大会は、科学的社会主義の理論的、組織的勝利をしめすものであり、マルクス、エンゲルスがめざした協会の本質的任務を果たした。こうして、世界の共産主義運動は、各国の民族的基盤のうえに、真のプロレタリア政党を結成していくことをそれぞれの国の労働者階級の任務とすることになったのである。レーニンは、つぎのようにのべている。

 「第1インタナショナルは、その歴史的な役割をおわって、世界のすべての国々の労働者運動がはるかに巨大な成長をとげる時代、すなわち、労働者運動のがひろがり、個々の民族国家を基礎にして大衆的な社会主義的労働者党がつくりだされる時代に席をゆずった」(「カール・マルクス」、全集20巻、36〜37ページ)

 このようなマルクス、エンゲルスの活動は、労働者運動の未熟な段階におけるさまざまな歴史的状況のもとで、2人がその状況に合致した対応をとりながらも、科学的社会主義と真の国際主義の原則にもとづいて各国の労働者階級の前衛を単一の政党――真の大衆的プロレタリア政党に結集することこそ、労働者階級の事業の勝利の保障であるという見地にたっていたことを明白にしめしている。

レーニンの立場

 レーニンも、ロシアにおける革命闘争の全段階にわたって、一国には前衛党は一つであるという原則的見地に一貫してたっていた。ロシアにおける党建設は、世界の社会主義運動の発展段階と口シアの革命闘争の複雑な状況に対応して、その内容や形態のうえで、さまざまな段階を経過したが、一国一前衛党の見地は、レーニンにとってはじめから不動のものであった。

 1898年に創立されたロシア社会民主労働党は、ロシアに存在していたさまざまな革命闘争の組織・グループを一つの党に結集しようとするものであった。レーニンは労働者のばらばらなたたかいを一つに統一するという見地から、この党の創立をロシアの労働者のたたかいが「ロシアの革命運動と融合するうえになしとげた最大の一歩」(「ロシア社会民主主義派のうちの後退的傾向」、全集4巻、273ページ)と評価し、この「融合」をうちかため、強化していくことに「耳をかそうとしない者は、ロシアにおける労働者社会主義と労働者運動との事業に、利益ではなく害悪をもたらすものである」(同前、275ページ)と強調した。

 しかしこの党は、創立大会をひらいただけで弾圧によって破壊された。現実にロシアで科学的社会主義の立場にたつ綱領をもった労働者党が誕生したのは、イスクラによるレーニンらのねばりづよい努力をつうじて準備された1903年のロシア社会民主労働党第2回大会においてであった。党創立のこの闘争にあたって、レーニンはマルクス主義の立場にたつロシアのすべての革命勢力、社会主義勢力を単一の党に結集するために奮闘した。

 レーニンは第2回大会を準備するさいに執筆した「なにをなすべきか」(1902年執筆)のなかでも革命的原則にもとづいた「単一の組織」によって発行される全国紙が、党の分散性を克服し、革命の成功を保障すると強調し、「まさにそのような仕事こそ、ロシア各地いたるところのすべての革命的組織を訓練して、党の実際上の統一をつくりだす」(同前559ページ)とのべている。

 また、第2回大会後の1904年に執筆した「一歩前進、二歩後退」のなかで、メンシェビキ派の見地を徹底的に批判し、論文をつぎのような一節によって結んでいる(ロシア語でメンシェビキは「少数派」、ボリシェビキは「多数派」の意)。

 「プロレタリアートは、権力獲得のための闘争において、組織のほかにどんな武器ももたない。ブルジョア世界における無政府的競争の支配によって分離させられ、資本のための強制労働によっておしひしがれ、まったく貧困と野蛮化と退化の『どん底』にたえず投げおとされているプロレタリアートは、マルクス主義の諸原則による彼らの思想的統合が、幾百万の勤労者を一つの労働者階級に融合させる組織の物質的統一でうちかためられることによってのみ、不敗の勢力となることができるし、またかならずなるであろう」(全集7巻、445ページ、強調引用者)

 しかし、当時は、ロシアにおいても、国際的にも、日和見主義的潮流との絶縁とか、分派の排除とかいう問題は、党建設の原則として確立されておらず、党の綱領を認めその規律に従うかぎり、党の門戸はあれこれの日和見主義的潮流にもひらかれていた。第2回大会には経済主義者の諸グループも招集されたし(大会の途中で脱退)、大会とその後の時期に、新たに党内の日和見主義的潮流の代表となったメンシェビキは分派を形成して党の指導権の独占を企てた。レーニンが指導するボリシェビキも分派としてこれに対抗し、党の革命的原則をまもるためにたたかい、その組織と活動を発展させた。こうしてロシア社会民主労働党は党の分裂と統一の変転を何回かくりかえしたが、1903年〜1912年のあいだは二つの潮流、二つの分派の共存する党として存在した。

 ロシアにおける党建設のたたかいにおいて、一つの画期をなしたのは1912年のロシア社会民主労働党プラハ協議会である。メンシェビキは、このときまでに、完全な日和見主義――革命党の存在と活動を否定する解党主義に転落してしまっていた。プラハ協議会は、解党主義などとのたたかいの多年の経駄をふまえ、ロシア社会民主労働党を、日和見主義的潮流と完全に絶縁し、科学的社会主義の革命的原則にたって政治的・思想的にも統一された単一の革命的党に発展させた。レーニンはこれを「新しい型の党」とよんだ。

 プラハ協議会で、ボリシェビキは、メンシェビキと組織的にも完全にたもとをわかったが、そこでおこったのは、“二つの労働者党”の併存などではなく、協議会の決議でメンシェビキをふくむ各種解党主義者は「その行動によって最後的に党を脱退したものと声明する」(レーニン「ロシア社会民主労働党第6回(「プラハ」)全国協議会」全集17巻、473、474ページ)とされたように、メンシェビキなどの日和見主義的潮流の変質と党からの脱落だった。そして、ここで確立された、日和見主義と絶縁し革命的原則にもとづく「新しい型の党」こそ、新しい段階における一国一党を体現していたのである。そのことは、第1次世界大戦とロシア革命のなかで全面的に立証された。

 この党自体も、その後の革命運動の実践のなかで、新たな組織的発展をかちとってゆくが、その到達点の一つとして、今日も重要な意義をもつのは、革命後の第10回党大会(1921年)で、党の統一と分派の存在は両立しないという立場を確立したことである。

 このように、レーニンの活動を歴史的にふりかえるならば、レーニンが、ロシアの革命闘争のはじめの段階から科学的社会主義の立場にたつ単一の党が労働者階級の解放闘争を指導するという一国一前衛党の見地を当然の原則として終始つらぬいたこと、この一国一党の内容的到違点が政治的、思想的にも組織的にも統一された「新しい型の党」であり、分派の存在を許さない民主集中の党であったことは明白である。

レーニンとコミンテルン

 ロシアで確立された「新しい型の党」が一国一前衛党の内容として国際的な意義をもつようになったのは、1914年7月に第1次帝国主義戦争が勃発し、第2インタナショナルの諸党が社会主義と革命の立場を公然と放棄して「祖国擁護」の名のもとに帝国主義戦争を支持する社会排外主義に完全に転落したときである。この第2インタナショナルの崩壊に直面し、レーニンは、日和見主義、社会排外主義と絶縁した新しい党の建設を訴え、第3インタナショナル(コミンテルン)の結成の旗をかかげた。

 レーニンは、1914年9月に執筆した、ロシア社会民主労働党中央委員会声明「戦争とロシア社会民主党」のなかで、「日和見主義ときっぱり手をきり、日和見主義がかならず失敗することを大衆に説明しなければ、現在、社会主義の任務を遂行することはできないし、労働者のほんとうの国際的団結を実現することもできない」とのべ、声明の最後を「日和見主義から解放されたプロレタリア・インタナショナル万歳!」(全集21巻、18、20ページ)と結んだ。

 同じ年の11月に執筆した「社会主義インタナショナルの現状と任務」のなかでも、「日和見主義にうちまかされた第2インタナショナルは死滅した。日和見主義を打倒せよ。『投降者』はもとより……、日和見主義をも一掃した第3インタナショナル万歳!」(全集21巻、27ページ)と書いた。

 こうして、レーニンは国際的にもあらゆる日和見主義、非マルクス主義的潮流と絶縁した、真の革命政党の結成をよびかけた。

 コミンテルンが結成されたのは、周知のとおり、ロシア革命後の1919年であった。レーニンは、コミンテルンに参加の希望を表明する外国代表団にたいし、「改良主義、メンシェビキを自分たちのあいだにおいては、プロレタリア革命に勝利することもできないし、それを守りとおすこともできな」かった(「イタリア社会党の党内闘争」、全集20巻、384ページ)ことを説明し、革命的原則と民主集中制の組織原則にもとづく党の建設を訴えた。

 レーニンが執筆したコミンテルンへの加入条件には、「共産主義インタナショナル加入をのぞむ党には、改良主義および『中央派』の政策と完全に、絶対的に絶縁する必要があることを承認」(第7項)することと、「共産主義インタナショナルに所属する党は、民主主義的中央集権制の原則にもとづいて建設されなければならない」(第13項)ことが明記された(「共産主義インタナショナルへの加入条件」、全集31巻、202、203ページ)

 そして、レーニンは、そのような真の革命党は一国に一党しか存在しえないという原理的立場から、「一国単一党」の原則を明確に提起した。レーニンが執筆した、1920年のコミンテルン第2回大会の「基本的任務についてのテーゼ」は、つぎのようにのべている。

 「国際プロレタリア運動の見地からみて、現在各国共産党の主要な任務は、分散した共産主義勢カを結集すること、プロレタリアートに、国家権力の獲得、しかもまさにプロレタリアートの執権の形態をとった権力の獲得を準備させる活動を10倍につよめるため、各国に単一の共産党を創立すること(または、既存の党の強化と革新)である」(全集31巻、180ページ)

 レーニンは、ある国で「単一の党」がすぐに実現できない「過渡的」な段階では、一時的な並存をやむをえない事実としてみとめたが、それは「単一の党」の結成の過程の問題として扱ったことは、いうまでもない。

 「二つの党がある期間並存しても、どんな戦術が正しいかという問題にたいする答を拒否するよりまだましであろう。もちろん、大会の全代議員の経験にもとづき、また、この席であげられた論拠に立脚するならば、諸君は、あらゆる国に単一の共産党を即時つくる決定を、なにもここで採択するように、主張しはしないであろう。それは、できないことである。しかし、われわれの意見をつつみかくさず述べ、指令をあたえること――それは、われわれにできることである」(同上231ページ)

 これはイギリスの場合のことをさしている。レーニンは、イギリスについてつぎのようにのべている。

 「もしイギリスでこうしたことを一挙になしとげることができないとすれば、……二つの党が並存することでも、現状にくらべれば巨大な進歩でしょうし、それが完全な統一への、まだ共産主義の急速な勝利への橋渡しになることは、九分どおりまちがいありません」(「シルヴィア・パンクハーストへの手紙」、全集29巻、581〜2ページ)

 こうしたレーニンの指導のもとに、コミンテルン第2回大会が採択した共産党の役割にかんするテーゼには、「一国単一党」の原則が明記された。

 「各国にはただ一個の、統一的共産党が存すべきである」(『コミンテルン資料集』)

 レーニンは、ロシアの革命闘争と世界の社会主義運動のさまざまな発展段階に対応した党建設をすすめたが、ロシアにおいても、国際的な共産主義運動においても、レーニンがつねに科学的社会主義の原則にもとづく「一国一党」の見地にたち、その実現のために奮闘したことは明白である。

 科学的社会主義の原則にたった「一国一党」の建設は、マルクス、エンゲルス、レーニンの共通した原理的立場である。

三、大国覇権主義による一国一前衛党論の重大な歪曲

 コミンテルンは、レーニンによって確立された一国一前衛党の原則にもとづいて活動を開始したが、レーニンは各国の党にソ連共産党を模倣することをもとめたり、コミンテルンが各国の諸条件の多様性を無視したりすることをきびしくいましめた。

 1921年のコミンテルン第3回大会は、共産党の組織的構成、活動の方法と内容にかんする決議を採択した。しかし、この決議は、あまりにも「ロシア的」であった。レーニンは、つぎの第4回大会でこの決議は「一貫してロシア精神で貫いて」おり、「だれか外国人がそれを理解したところで、彼はそれを実行することはできないであろう」とのべ、「私は、われわれが、この決議で大きな誤りをおかしたという印象、つまり、われわれが自分で今後の成功への道を断ってしまったという印象を受けた」(「共産主義インタナショナル第4回大会」、全集33巻、447、448ページ)と指摘している。

 そもそもレーニンは、「共産主義内の『左翼主義』小児病」のなかで、ロシア革命が国際的意義をもっていることに疑いはないが、その国際的意義は、「基本的な特徴と多くの第二義的な特徴が、すべての国に影響をおよぼすという意味で、国際的意義をもっているのではな」く、「ごく狭い意味で」意義をもっているのだとのべている。そして「真理を誇張し、それをわが国の革命のいくつかの特徴以外にもひろげるなら、非常に大きな誤りであろう」(全集31巻、5ページ)ときわめて謙虚で慎重な態度をとっている。

 第2にコミンテルンは、各国の条件の多様性を十分に考慮して決定をくだし、すべての加盟党を拘束できるような決定は、そのような決定が可能な場合にのみ、そうすべきであるとしたことである。レーニンは、コミンテルンへの加入条件のなかで「共産主義インタナショナルとその執行委員会とは、いうまでもなく、各党の闘争し行動している条件がきわめて多様であることを考慮に入れて、全体を拘束する決定は、そういう決定を可能とする問題についてのみおこなうようにしなければをらない」(「共産主義インタナショナルへの加入条件」、全集31巻、204ページ)と明記している。

 ところが、レーニン死後、スターリンがソ連の党と国家の最高指導者となって以降、その大国覇権主義的誤りと関連して、こうしたレーニン的原則からの逸脱がおこった。これは科学的社会主義の一国一前衛党の原則にも、重大な歪曲をもたらすものとなった。

 スターリンも、建前としては、一国一共産党の立場をとっていた。しかし、その実態は、ソ連共産党を「手本」とし、ソ連に無条件に従うかどうかを各国の党をおしはかる尺度として絶対化し、それを前提としての「一国一党」論であった。これが他国の党に重大な打撃をあたえることになったことは、いうまでもない。若干の例をあげよう。

スターリンによる歪曲

 スターリンは、1934年に間始したソ連の党と政府のあらゆる機関におよぶ大量弾圧を、1937〜38年には、コミンテルンなどで活動していた日本をふくむ各国の共産党代表にまで拡大した。

 とりわけ重大な弾圧をうけたのは、ポーランド共産党であった。1938年、コミンテルンは、スターリンの指図で、非合法下で活動中のポーランド共産党にたいし、「指導的活動家たちのなかに敵の手先がおびただしくもぐりこんでいる」という事実無根の誹誹をおこない、その解散を決定した。スターリンの思うようにならなかったポーランド共産党が強制的に解散させられるという事態の根底には、ソ連=スターリンへの“忠誠”を絶対の基準とする「一国一党」論が横たわっていた。当時、各国の党が単一の国際的指導機関であったコミンテルンの一支部であったとしても、こうした専断が正当化しえない暴挙であったことは、コミンテルン解散(1943年)後10年余りを経た1956年に、ポーランドの党の「名誉回復」がおこなわれ、ソ連などの党によって正式にその誤りがただされたことでもあきらかである。

 また、国際的な反ファッショ連合にアメリカ合衆国政府をひきいれるために、アメリカ共産党の解散を指示したり、同じくイギリス政府をひきいれるために、インド共産党にイギリス帝国主義との闘争をやめるよう指示したことも、スターリンによる他国の党への弾圧と干渉の典型例だった。

 コミンテルン解散以後も、スターリンの歪んだ「一国一党」論の立場が典型的にしめされたいま一つの例は、1948年のコミンフォルムによるユーゴスラビア共産党の“破門”事件であった。これが、当時のユーゴスラビア共産党指導部に敵対するユーゴスラビア国会の対ソ追従の反党分派主義者――いわゆる「コミンフォルミスト」たちをソ連などが支持、激励し、同指導部の転覆をはかる策動となってあらわれていったことは、周知のことである。コミンフォルム時代のスターリンによる一国一党論の歪曲が、その後も、日本共産党をふくむ一連の諸党への干渉となってあらわれたように、世界の共産主義運動で主導権を維持しようとする大国覇権主義の野望を実現させるためであったことは、今日ではあきらかとなっている。

 このように、スターリン時代のソ連共産党の一国一党論が、ポーランドの場合のように「一国零党」に歪められ、今日ではそれが、スぺインなどでの場合のように「一国二党」併存論にもなるという事実は、なにを物語っているのだろうか。われわれはここに、みずからに忠実な党であるかどうかを最大の基準とする社会主義大国の指導党思想の根深い存在をみないわけにはいかない。

 コミンテルンは、スターリンの大国主義の誤りと結びついて、とくにその後期に、さまざまな誤りや限界をまぬかれなかった。しかし、これらの誤りや限界にもかかわらず、世界各国の共産党が創立されたばかりで経験も浅く、いろいろな点で未成熟であった状況のもとでは、コミンテルンの結成とその後の活動が、全体としては、歴史的に必要なものであり、世界の共産主義運動の発展に貢献したことは否定されるべきではない。

 その後コミンテルンは、各国の党と革命運動が成長したことなどとも関連して、1943年に解散されたが、この解散にともない、各国の革命運動については、その国の党、科学的社会主義の党が全責任を負うものであり、コミンテルンが存続していた当時とはちがって、指導する党も指導される党もなく、各党が独立した平等な党であるという自主独立の原則が、世界の共産主義運動の鉄則として確立される第一歩となった。コミンテルン解散が、マルクス、エンゲルスが追求し、レーニンによって確立された一国一前衛党の原則をさらに明確に徹底させるものであったことは、コミンテルン解散の趣旨そのものからもあきらかである。

 こうして、コミンテルン解散後は、一国には一つの共産党が活動し、各国の党は独立、同権、内部問題不干渉の基準を基礎に関係を確立し発展させるという原則が、公認のものとして、共産主義運動の国際的な文書でも再三確認されるようになった。この歴史的事実は、いかなる覇権主義者、干渉主義者も、否定することはできない。

中ソ両大国の党による歪曲

 コミンテルン解散後も、スターリンの指示のもとに1947年にコミンフォルムがつくられ、これを事実上世界の共産主義運動の指導センターとして、一連の国の党にたいし各党の独立、同権の原則をふみにじる干渉がくわえられたことは、すでにのべた。しかし、コミンフォルムが解散(1956年)されて以後も、社会主義大国の党は、それぞれ「指導党思想」にもとづく他国の党にたいする干渉をやめなかった。

 とりわけ、1960年代にはいり、いわゆる「中ソ対立」が表面化し、これを契機に世界の共産主義運動に深刻な不団結が生まれるなかで、ソ連共産党と中国共産党の双方の側から、他国の共産党にたいする覇権主義的干渉が組織された。

 かつて、中国共産党は、基本的には、一国一党の当然の見地にたち、それを前提として各国共産党、労働者党の独立、平等、内部問題不干渉の原則の重要性を強調していた。

 ところがその後、「中ソ論争」が激化するにつれて、「1が分かれて2になる」などと称し、一連の国で「マルクス・レーニン主義」と「日和見主義、修正主義」との分裂が必然だとする議論を展開しはじめた。

 「国際的範囲にしろ、あるいは一つの国のなかにしろ、そこで日和見主義と修正主義が横行しはじめると、そこのプロレタリアートの隊列には必然的に分裂がうまれる。共産主義運動の分裂はつねに日和見主義と修正主義がマルクス・レーニン主義に反対し、そむくことによってひきおこされるものである」(「ソ連共産党指導部は現代最大の分裂主義者である――七たびソ連共産党中央委員会の公開状を評す――」、1964年2月4日「人民日報」編集部、『紅旗』編集部)

 当時の中国共産党のこの主張は、今日の彼らの「併党」論とはちがって、彼らがいうところの「修正主義の党」を分裂させ、それが成功しなければ撤底的に排撃し打倒して、中国共産党を中心に「マルクス・レーニン主義」と称する対中追従分派(中国共産党が今日でも開係をつづけている各国の分派主義グループがほとんど一様に「ML主義共産党」などと名のっているのは、当時のこの干渉の名残を歴然としめしている)を結集することにあった。その後この議論は、毛沢東の指導下で中国に「文革」が発動されてから、いっそう極端に実行にうつされていった。

 周知のように、毛沢東を中心とする中国共産党の「文革」指導部は、自国の中国共産党すら修正主義におかされたとして解党的な打撃をくわえた。さらに彼らにとって「反革命勢力の側」にうつったと映る世界の共産主義運動にたいし、その極左日和見主義の路線をおしつけ、彼らが以前から「修正主義の党」とみなしていた諸党はいうまでもなく、日本共産党をはじめ、毛沢東一派の主張や見解に無条件にしたがわない外国の共産党にたいしても、「造反有理」のスローガンのもとに、その破壊と転覆をよびかけるという大国排外主義的な干渉をすすめた。

 とりわけ、中国共産党「文革」指導部による日本共産党への干渉は目にあまる露骨なものであった。彼らは、「毛沢東思想」や「文革」の礼賛、「反米反ソ統一戦線」論、「鉄砲から政権が生まれる」論などをわが党と日本の民主運動おしつけようと企て、日本共産党がこうした無法を拒否すると、それを唯一の口実として、わが党にたいする破壊的な攻撃をしかけてきた。そのさい彼らは、「むほんはたいへんけっこうだ」として、中国側に盲従した反党分派主義分子をけしかけて、日本共産党の打倒を公然とよびかけた。

 「日本共産党の一部の下部組織はマルクス・レーニン主義、毛沢束思想を武器とし、革命の旗じるしを高くかかげ、つぎつぎと立ち上がってこれら修正主義分子にたいしさかんにむほんを起こしている。このむほんはたいへんけっこうであり、それは道理にかなっている」(1967年6月16日付「人民日報」)

 この彼らの恥ずべき日本共産党打倒のよびかけは、対中盲従反党分派主義者による別党結成のよびかけでもあった。

 「われわれは、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想の偉大な赤旗を高くかかげた、まったく新しい、真の日本共産党が、宮本集団反対の闘争の烈火のなかから、かならず生まれでるものと固く信ずるものである」(1967年12月12日付『北京周報』)

 しかし、日本共産党の打倒をよびかけたこの覇権主義的干渉は、日本共産党の断周たる反撃にであい、決定的な破産をこうむった。中国側に盲従して日本共産党打倒の先兵となった雑多の反党分派分子は、離合集散をくりかえし、今日では、日本の現実政治とまったく無縁の小さな徒党に転落している。

 一方、ソ連共産党は、この当時、現在彼らが採用する「併党」論とはうって変わった「一国一党」論にもとづいて、中国共産党を批判したものである。

 1964年2月14日のソ連共産党中央委員会総会での報告「国際共産主義運動の団結のためのソ連共産党のたたかいについて」では、つぎのようにのべられている。

 「最近、中国共産党指導部は、少数の多数への服従という原則に反対する闘争のなかで、国際共産主義運動がこれまでにぶつかってきたいっさいの日和見主義や分裂主義者のうちではじめて、同一の国にいくつかの共産党が存在するのは『法則にかなったこと』だというテーゼをもちだしました。しかも、彼らの議論によると、これらの党は労働者階級の敵とたたかうよりは、むしろ相互のあいだでたたかうべきだ、ということになります。いまここで、この根本的に有害な考え方にくわしく反論する必要はありません。というのは、プロレタリアートの階級的利益と意思の統一、そのイデオロギー、その階級的組織性が、一枚岩のような単一のマルクス・レーニン主義党に体現されるということは、自覚ある労働者ならだれにもわかっているからであります」
 「共産主義運動の歴史上、こんなことはかつてなかったとはっきりいわなければなりません。他国の共産党から除名された分裂主義者のみじめなグループをほんものの『党』と称する一方、ほんとうの共産党を『元の』党と呼ぶようなことを、どんな共産党もまったく考えついたことはありませんでした」

 しかし、ここでソ連共産党がのべている対中国批判の論拠が、実は、そっくりそのままみずからの頭上にもむけられるべきものであったことは、彼らの実際の行動をみるならあきらかである。

 米英ソ3国の部分核停条約が1963年調印されてのち、それへの支持の国際的なおしつけがソ連によってはじまったが、日本共産党がその支持のおしつけをうけ入れないと、ソ連共産党は、日本共産党と日本の革命運動への分裂・破壊活動を開始した。そのさい彼らは、ソ連に追従してわが党から除名、追放された志賀一派を「愛国者」、「国際主義者」などと党機関紙でもちあげ、志賀ら反党分派主義者らによる別党の結成も辞さない乱暴な分裂策動をすすめた。

 実際に志賀一派は、当初「新党」の結成をめざして準備をすすめていたが、1966年10月、突然「結党中止」をいいだした。その理由は、「新党」結成が「ある外国勢力の意向に反する」というものであったが、この「外国勢力」がだれを意味するかはいうまでもない。

 いずれにしろ、日本共産党が、志賀一派を支持するソ連共産党の干渉行為の中止をきびしく要求し、反党分派との関係維持に断固反対して、党間の関係の基準をあくまで擁護する原則的立場をつらぬいたことはよく知られている。

 このように、外国の党の排撃、打倒をよびかけ対中追従分派の結集をはかった中国共産党の当時の「一国一党」論も、それを「併党」論だと批判しながら他国の党への干渉・分裂活動をすすめたソ連共産党の「一国一党」論も、科学的社会主義のほんらいの一国一前衛党の原則にたいする重大な歪曲のうえになりたっていたのである。

 たがいに他方を分裂主義者などと非難しながら、自分たちの意向に従わない党には干渉と攻撃をくわえ、その党の指導部に態度変更をせまり、それに成功しなければ、その党の対外盲従の反党分派にてこ入れしてその党の指導部の転覆、打倒をはかるというように、そのいずれも、世界の共産主義運動において自己を中心に勢力の結集と拡大をはかるという共通の動機から出発している。これこそ、世界の共産主義運動において「勢ヶ国」思想を実現しようとしたものにほかならない。

 しかしながら、こうした干渉者の論理と行動は、日本共産党の不屈の闘争や世界の共産主義運動における自主的な潮流の発展のなかで、理論的にも実践的にも、みじめな破たんやつまずきに直面せざるをえなかった。

四、自己矛盾の結果としての「併党」論

 ところで今日、社会主義大国の党は、その歪曲された「一国一党」論にもとづく過去の覇権主義、干渉主義の誤りから、徹底的に教訓をひきだすのでなく、すでにその破たんが歴史的にもあきらかになっている誤りを、いずれも「併党」論によって合理化したり、修復したりしようとしている。

 しかし、この「併党」論は、干渉の合理化あるいは干渉の誤りと破たんの修復をねらいとしているからこそ、それ自体に数かずの矛盾をはらんでいる。

 わが党の宮本議長は先の第1回全国協議会で「大国主義的干渉によって分派がつくられたり、大国主義的干渉あるいは大国主義的盲従路線によって、その党がほとんど破産するような状況のなかで自主的な党が生まれるというような事情とか、いろいろあります。そのなかで、盲従派への支持をつづけるが、力のある自主派も無視できないという結果が、『併党論』であります」とのべ、「併党」論が、そもそもそれを採用する干渉主義者たちの矛盾した対応から生まれたものであることを指摘している。

 まず第1に、この「併党」論の矛盾性は、それが権力につく社会主義大国の党だけに都合のよい仕かけになっていることである。

 ソ連共産党も中国共産党も、一連の資本主義国については、共産党が複数で併存してもかまわないとする「併党」論をつかうが、自国にたいしては、そういう「併党」論を許容しない。しかし、社会主義国の党であるか、資本主義国の党であるかにかかわりなく、すべての党は独立した対等、平等な党であるという党間の関係の基準からいっても、自国では共産党は単一でなければならないが、資本主義国やその他の国では共産党が二つも三つも併存して当たり前だとする勝手な議論は、特定の党に「特権」をみとめるのでないかぎり、なりたちうるものではない。ここに、「併党」論をもちだす社会主義大国の党の重大なごまかしがある。

 このことは、社会主義大国の党の組織原則にてらしてみると、いっそうあきらかである。

 ソ連共産党の現規約(第24回大会で採択)では、「ソ連共産党の生活の破りがたいおきては、その隊列の思想的・組織的統一と強固な団結、全党の自覚にもとづく高い規律である。あらゆる分派性とグループ主義の現れはマルクス・レーニン主義的党派性と両立せず、党内にとどまることと両立しない。党はソ連共産党の綱領と規約に違反し、その行為によって共産党員の名誉をけがした者を党から放逐する」とのべられている。また中国共産党の規約(第12回大会で採択)でも、「党の団結と統一をまもり、断固として、派閥性に反対し、すべての分派組織と小集団的清動に反対し、面従腹背の二面派的行為とすべての陰謀詭計に反対すること」を党員に義務づけている。いずれも党の統一と団結を強調するとともに、分派活動をきびしくいましめている。このこと自体、一国に一つの統一した共産党という立場にたつかぎりは当然のことである。

 しかし、自分たちの国内では、党規約で、このように党の統一と団結を強調し、とりわけ分派活動を厳重に禁じておきながら、他国の党にたいしては、みずから干渉してその党の統一を破壊し分派を育成、支持するなどということは、とうてい正当化しえるものではない。しかも、みずからが干渉をくわえた共産党と、その干渉の結果生まれた反党分派組織の双方と関係を結び、二つの「党」が併存するなどという主張がいかに理不尽きわまりないものであるかはあきらかであろう。これは、結果的には、みずからの党規約で禁じている分派活動を、他国の党にたいしては奨励し、その党の統一と団結を破壊することさえ正当化してしまうもっとも卑劣な分裂主義と干渉主義の合理化論とならざるをえない。

 さらに、現在社会主義大国の党によってもちだされている「併党」論は、過去の干渉の誤りを認めている当の社会主義大国の党の言明や約束ともいちじるしく矛盾していることである。

 周知のように、目本共産党にたいするソ連共産党からの干渉の問題は、実に15年におよぶ曲折をへて、1979年に東京とモスクワでおこなわれた一連の日ソ両党会談で、原則的に処理された。これらの会談で、ソ連側は、「かつて『プラウダ』に志賀一派支持の論文を発表したことは正当化していないし、正しくなかった」と、公式に過去の干渉を反省する一言明をおこなっただけでなく、「ソ連共産党が日本共産党を日本の共産主義運動を代表する唯一の党とみなしていること」、さらに「かつて日本共産党員であったもの、あるいは各種のグループが共産主義運動の名においておこなうどのような策動も、反党活動の現れであり、彼らがどのような口実を設けようとも、ソ連側はこの種のグループの活動にたいし、なんらの関係ももたない」ことを表明した。そして、同年12月モスクワでの日ソ両党首脳会談で、ソ連側のこの態度表明があらためて確認され、そのことを前提として、両党関係の正常化が合意されたのである。この日ソ両党会談での確認事項の見地にたつならば、こんにち問題となっている「併党」論が生まれてくる余地はまったくないし、ソ連共産党がこの確認事項を厳格に順守していたなら、スペインにあらわれたような事態も当然おこりえなかったであろう。日ソ両党間の確認事項が、ただたんに日本とソ連の共産党の関係にとってだけでなく、世界の共産主義運動における党と党の関係の原則的あり方をしめすものとして、国際的にもきわめて重要な意義をもつ理由のひとつも、まさにここにある。

 わが党は、スペイン共産党にたいするソ連共産党の干渉を批判するさい、志賀問題の清算にあたってのソ連共産党の態度表明について、「それ自体、科学的社会主義の立場に立てば当然のことで、それはソ連共産党の正しい意味の『威信』をむしろ高めることに貢献するもの」(『赤旗』2月5日付主張)であると指摘しつつ、「日本共産党にたいしてはみずから認め反省まで表明した反党分派への支持という重大な誤りを、今回スペイン共産党にたいしていっそう露骨なやり方でくりかえした」ソ連共産党のつじつまの合わない態度をきびしく追及したが、ソ連共産党の「併党」論の矛盾性は、彼らの日本共産党にたいする態度表明にてらしてみても、あきらかである。

 しかも志質一派が、スペイン共産党への干渉を合理化するためにソ連共産党がもちだした「併党」論にすかさず飛びつき、そこに新たな策動の余地を見いだそうとしていることは、まさに、その「併党」論が日本共産党にたいするソ連共産党のかつての言明と矛盾していることを裏づけている。

 志賀一派らは「一般的に、共産主義運動にとって、一国には一つの党だと、言われてきた」が、「スペインにおいては二つの共産党――ひとつはスペイン共産党、もうひとつは単に共産党という名称――があり、二つの共産党と、ソ連共産党や世界共産主義運動の主潮流の党が交流するという事態がおこっている」などとのべ、さらに「われわれの活動が強化されれば、並行党論にも、客観的にもなっていくかもしれない」(「平和と社会主義」紙5月21日付)と、ソ連共産党とその「併党」論に“期待”をつないでいる。これが、対ソ盲従分子として日本の革命運動から敗走した者たちのはかない「夢想」であり、完全な失敗を運命づけられていることはいうまでもない。しかし、たとえ志賀らの徒党グループがいかに無力でみじめな存在であっても、ソ連共産党の「併党」論が、客観的に、これら反党分派主義者にたいする思想的、政治的な援護の役割を果たすという事実の重大さを、われわれは黙認するものではない。

 中国共産党の「併党」論の矛盾性は、日本共産党にたいする過去と現在の態度にてらしてみるとき、いっそうあきらかである。

 中国共産党指導部は、現在では、各国共産党の関係について、「マルクス主義を基礎とする独立自主、完全平等、相互尊重、相互内部不干渉の四つの基本準則に断固として従う」ことを再三宣言している。さらに、あくまでも一般論としてではあるが、「われわれにもかつて他国の党との関係を処理する面で欠点と誤りがあったこと、とくに一面的に自らの経験と実践に基づいて他国の党の是非を論断し論評し、一部の党に不利な結果をもたらしたことをここで公に認めなければならない」(ユーゴスラビア共産主義者同盟代表団歓迎宴での胡耀邦総書記の演説)とのべ、過去の大国主義、覇権主義の誤りをみとめる態度をあきらかにしている。

 しかし、日本共産党を打倒せよとまでよびかけ、その指導部の転覆、破壊までくわだて、しかもその先兵として利用した対中盲従の反党分派を過去から継続して現在も支持しているという厳然たる事実は、一般的に過去の誤りを認めることによっては、けっして解消されるものではない。中国共産党指導部がいかに過去の誤りや欠点を反省してみせようとも、それが、過去の干渉の遣産を明確に清算するという具体的事実によって裏づけられるのでなければ、空虚なひびきしかもちえないのは当然であろう。

 わが党は、論文「変化の意味とその限界」(『赤旗』1982年9月25日付)で、こうした中国共産党の態度を「今日の中国共産党の国際路線の最大の矛盾」としてつぎのように指摘している。「『文化大革命』下の中国の大国主義的干渉の遣産を温存し、それとの関係を継続するという行為がはたして、『他国の党の内部問題に干渉しない』という原則のもとで、許されるかどうかが問われなくてはならない。それは、わが党にたいする乱暴な干渉主義そのものの組織的遺産を、“日本の内部問題である”とか“日本共産党への干渉とは無関係”だとする、事実にも道理にもまったく合わない勝手な解釈によって合理化するのでないかぎり、絶対に不可能なことである。

 ここに、ことばのうえでは大国主義、干渉主義をきびしく批判しながら、実態的にはみずから問われている対外干渉の遣産の清算にきっぱりとふみきれないでいる今日の中国共産党の国際路線の最大の矛盾がある」

 中国共産党は、いま、この矛盾を「併党」論によってとつつくろおうとしているが、そのような手法は、こと日本共産党には絶対に通用しない。

 わが党は、論文「中国覇権主義の過去と現在」(『赤旗』3月15日付)で、一国における複数の共産党の並存を当然視する「併党」論が、この「併党」論を説く干渉主義者たちをどこへみちびくかをつぎのように明確に指摘したが、この指摘は、中国共産党だけでなく、同じく「併党」論によってスペイン共産党などへの干渉を合理化しようとするソ連共産党の覇権主義的態度にも、当然あてはまるものである。

 「だいたい、こうした議論が正当化されるならば、社会主義大国についても、その国の党の指導部の路線に反対する、あるいは賛成しない党内の勢力やグループを、外部から支持したり、関係をもったりしても、当の社会主義大国の党の指導部の側からはこのことに異論をとなえたり、抗議したりすることができないことになろう。実際には、社会主義大国の党が、そうした事態をけっして認めず、むしろ党規約で分派活動をもっともきびしく禁じていることはいうまでもない。各国に分派勢力を育成、温存している社会主義大国の党は、自分の国については絶対に認めようとしない複数の共産党の並存論を、自分の都合で他国にたいしてだけはおしつけようとしているのである」

 それ自体に重大な矛盾をはらむこの干渉合理化論――「併党」論が、歴史の前進のなかで、とりわけ、日本共産党をふくむ世界の共産主義運動の自主的潮流のたたかいと発展のまえに、あらたな破たんにであうであろうことは必至である。

五、科学的社会主義の一国一前衛党の原則の擁護と発展のために

 干渉合理化としての「併党」論が国際的規模で拡大されつつある今日、これと原則的にたたかい、科学的社会主義の一国一前衛党の原則を擁護するたたかいは、国際的にもきわめて重要な意義をもっている。

 今日の世界の共産主義運動を正しく前進させるうえで、それぞれの国の共産党の独立、同権、内部問題不干渉の基準の厳守がきびしくもとめられているのは、各国の革命運動はその国の科学的社会主義の党、労働者階級の前衛の党としての共産党が全責任を負い、それを相互に支持し合うという、一国一党の原則にもとづいているからである。わが党の第15回大会にたいする中央委員会報告は、それぞれの国の進路はその国の人民が決定するという民族自決権を擁護する課題との結びつきに光をあてながら、各国の党の自主、同権、内部問題不干渉の原則を厳格に擁護することの重要牲をつぎのように指摘している。

 「国際関係を律するもっとも根本的な原則の一つとして、国と民族の進路は、それぞれの国の人民自身が決定するという民族自決権を一貫して擁護することと、国際共産主義運動において各国共産党の自主独立の立場を堅持することとは、現代の世界では、不可分の関連をもつ問題であります。
 わが党は、これまで国際共産主義運動のなかで自主、同権、内部問題不干渉の原則を擁護し、わが国の革命運動や民主運動にたいするいかなる外国の干渉も許さず、こういう干渉のたくらみやその実行にたいしては断固としてたたかってきました。自主独立の立場を堅持し、わが国の運動の自主性を擁護したこのたたかいは、たんに日本共産党と日本の革命運動だけにかかわる問題ではなく、また国際共産主義運動内部の問題にとどまるものでもなく、日本の国と民族のこんごの自主的発展にとっても、民族自決権を擁護する国際的なたたかいにとっても、きわめて重大な意義をもつ闘争だったことを、指摘しなければなりません」

 わが党は、この原則的見地にたって、過去に外部からの干渉を重要な要因として分裂がひきおこされた党や革命運動についても、きわめて慎重な態度をつらぬいてきた。

 日本共産党第16回大会への中央委員会報告は、大国主義、覇権主義を克服する課題をわが党の国際活動の重要な柱の一つとして位置づけるとともに、その立場から、一連の国で大国主義的干渉を起動力として、党の分裂がひきおこされ、「複数」の党の並立というそれ自体不正常な事態がつづいていることと関連して、つぎのような見解をあきらかにした。

 「こうした複雑な状況にある国ぐにの党や革命運動、民主運動との関係を発展させる問題では、それぞれの国の具体的な状況にあった対応が必要になっていますが、わが党は、その場合でも、その党が大国主義、覇権主義にたいしてどのように自主的な立場をとり、自国人民に自主的な責任を負う党であるかどうかを、第一の基準として対処するものであります」

 わが党は、このような見地から、スウェーデン、インド、デンマークなど二つの党のあるところでは一つの自主的な党とだけ関係を持っている。またギリシャにも分裂した二つの党があるが、ここでは状祝が種々の複雑な問題をはらんでいるので二つの党とも関係をもっていない。

 自主的な党とだけ関係をもつという基準が、科学的社会主義を立脚点とすることは当然のことであるが、大国主義、覇権主義にたいして自主的な立場をとり、自国人民に自主的な責任を負うということは、その党が存立するうえで根本的に問われる問題だからである。

 過去に大国主義的干渉によって分裂させられた党と革命運動についてのわが党のこの立場こそ、科学的社会主義の一国一前衛党の原則と各党の自主独立、同権、内部問題不干渉の基準にもとづいて、各国の革命運動、ひいては世界の共産主義運動の生命力を全体として保障してゆく道である。

 この点では、わが党は、国際的にも先駆的な経験をもっている。

 コミンフォルムからの1950年の干渉を重大な契機として不幸な分裂を体験した日本共産党は、この苦い教訓のうえにたって、いかなる外部からの干渉も排し、1958年の第7回党大会で、この分裂を生んだ「50年問題」の根本的総括をおこない、党の統一を回復するとともに、正しい共通の闘争課題としての国際連帯を重視することは当然として自主独立の路線をうちたてた。この路線は、1961年の第8回党大会でさらに確固としたものとなった。

 1960年にモスクワでひらかれた81ヶ国共産党・労働者党会議で、日本共産党代表団は、ソ連共産党が世界の共産主義運動の「中心」だとか「前衛」だとかいう主張にくみせず、また国際的なセンターとしての常設機関を設置しようという提案などに断固反対し、すべての党が独立・平等であるという原則を、各国共産党の関係を律する原則として確立するために、おおいに奮闘した。またこの種の国際会議で諸党間で意見のことなる問題について、決定を多数決で採択することに反対した。

 この会議で確認された各党の独立・平等の原則をふみにじっておこなわれたソ連共産党のアルバニア・中国非難のキャンペーンに、もちろんわが党はくわわらなかった。

 1964年、ソ連共産党指導部が、志賀一派を支持し、わが党に乱暴きわまる攻撃と干渉をくわえてきたとき、わが党は、この大国覇権主義的干渉を、党の存続にかかわる原則問題として重視し、自主・独立の立場を堅持して不屈にこれとたたかった。その後の中国共産党指導部からの干渉にたいしても、同様に断固たる姿勢をつらぬいた。このソ連と中国の相つぐ大国主義的干渉によって生まれた対ソ盲従の志賀一派や対中盲従の雑多な反党グループにたいして、わが党は政治的にも組織的にも完膚なきまでにたたかった。こうして、彼らはいずれも、今日では、とるにたらない徒党集団になり果てている。

 ソ連および中国の覇権主義、干渉主義に反対してきた日本共産党の不屈のたたかいは、まさに、大国の干渉によって生まれた反党分派とのいかなる「併存」も断じて容認せず、一国に一共産党という科学的社会主義の基本的見地を擁護する原則的なたたかいの意義をあざやかにしめしている。

 もしわが党が、これらの干渉に屈して、反党分派集団との「併存」の論理をうけ入れていたならば、今日のように、日本の広範な勤労人民の支持をえられなかったであろうことは明白である。わが党は、大国主義、干渉主義を合理化し、この干渉の結果である一国における複数の共産党の併存を当然視する干渉者の議論を断じて許さず、科学的社会主義、共産主義の大義とその実現への不動の確信のうえにたって、大国主義、覇権主義のいっさいのあらわれを克服するためにこんごも奮闘し、社会主義の勝利と歴史の進歩の道にそって前進するであろう。

(『日本共産党国際問題重要論文集』第15巻より)