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岡山県内随一の豪雪地帯で知られている当村のおいたちは、今から22,000年以上前の旧石器時代に遡る。このころ既に恩原で狩猟をしていた痕跡が、「恩原遺跡」から出土の鏃や石組み炉跡によって知られており、縄文時代の遺物もわずかながら出土している。また本村地区では弥生時代の石包丁がみつかり、当時この寒冷地の当村でも稲作が行われていたことが伺われる。
その後南北朝時代に至り、兵庫県の稗田神社所蔵の「刑部守延坊舎等譲状」(貞和3年=1347・広峰文書)に、「オクツ」とともに「サイ原」が見え、ここに当村関係の地名が歴史上初めて登場する。これは刑部守延が娘に譲渡した財産目録であるが、この文書が北朝年号で播磨のものであることからみても、当時当村域は播磨の武将赤松則村(円心)の勢力圏に属していたことが想像される。また上齋原神社最古の資料である卵形の「御神石」に「大己貴尊 美穂津姫命 康安元(1361・北朝年号) 才原本社 唯一神主渡辺氏」と刻まれており、神社の祭神大己貴尊(=大国主命)からみると、出雲文化の影響が感じられる。また、才原本社ということからみても才原の中心は上齋原(本村地区)であったのであろう。
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関ヶ原の合戦後、才原は津山城主森氏の所領となり、寛文年間に上才原村はのちに上齋原村と書くようになった。上齋原(本村地区)は、津山城下と伯耆倉吉との主要街道「伯州往来(倉吉街道)」沿いの宿場としてささやかながら賑わい、元禄年間に上齋原には既に37軒の町屋が立ち並んでいた。江戸時代の当村の人口は500人〜600人程度であったが、最盛期にはそのうち300人以上を木地師が占めていた。またタタラ製鉄も盛んであった。高冷地で耕地の少ない当村では、木地と製鉄は重要な産業だった。元禄年間に森氏が廃絶の後、当村は松平領を始め天領(幕府直轄領)、私領、預所(天領を藩が管理)を幾度か変転したが、天領の期間が長く、松平氏預所として明治を迎えた。
明治3年(1870)倉敷県、同4年北条県に所属し、北条県は明治9年岡山県に合併された。上齋原、下齋原、長藤、奥津、奥津川西の各村は、明治16年五ヶ村連合戸長役場を長藤村に設置したが、全国に町村自治制が施行されるとともに、当村は明治22年6月単独で村を形成した。昭和34年奥津町が成立する際にも大論議の末、合併を見送り現在に至っている。
以後、豊かな自然に溶け込んだ歴史と文化を大切にしながら「明るく豊かで住みよい村」を目指して大きく発展しようとしている。
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