オヂュッセーア:第八歌

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第八歌

アルキノオス集會に於てオヂュシュウスの歸國を決す(一 - 四五)。 パイエーケスの貴人らアルキノオスの堂上に酒宴を開く、デーモドコス歌ふ(四六 - 九六)。 競技(九七 - 一三〇) ユリアロス血氣にはやりオヂュシュウスを嘲弄す(一三一 - 一六四)。 オヂュシュウス奮然として出場し圓盤を投げて衆人を驚かす(一六五 - 二三三)。 アルキノオス青年に命じ舞踏をなさしむ(二三四 - 二六五)[。] デーモドコス歌ふ、アレースとアプロヂーテーの戀及びヘーパイストスの復讐を(二六六 - 三六九)。 二青年の球抛げ(三七〇 - 三八四)。 オヂュシュウスに衆人の寶物贈與。ユリアロスの陳謝と寶剱の贈與(三八五 - 四二二)。 アルキノオス侍女の命じオヂュシュウスを浴せしむ、 王妃は櫃を持ち出し衆人贈與の品を收む(四二三 - 四六八)。 オヂュシュウス伶人を譽めトロイア城陷落を歌はしむ(四六九 - 四九八)。 オヂュシュウス懷舊の涙(四九九 - 五三一)。 アルキノオス彼の悲を見、漂浪の話を求む(五三二 - 五八六)。

薔薇の色の指もてる曙《あけ》の神女の現はれに、
強き王者のアルキノス、床を離れて身を起す、
都府の破壞者オヂュシュウス勇士同じくたち上る。
強き王者のアルキノス、船の近くに建てられし
パイエーケスの集會の席に衆人率ゐ行く。
一同そこに着ける後、互に近く磨かれし
石のへ坐しぬ。しかうして神女パルラス・アテーネー、
アルキノオスの從臣の姿を取りて城中を
遍く巡り、オヂュシュウス勇士の歸國もくろみつ、
人おのおのの側に立ち彼に向ひて陳じ言ふ、

『パイエーケスの主領らよ、評定者らよ、いざや立て、
會議の場《には》に赴きてかの珍客につきて聞け、
海を渡りて賢明のアルキノオスの宮中に
到れる客は其姿不死の神明見る如し。』

しかく陳じて各の勇と心を引きたたす。
かくて忽ち集會の席は、續々寄せ來る
衆徒のために滿されぬ。ラーエルテース生める子を、
聰明の子を眺めたる衆驚けり。アテーネー
かれの頭に肩のへに神にも似たる威容添へ、
打見るところ身長を躯幹を共に増さしめぬ。
かくして彼は堂々と威容整へ、一切の
パイエーケスに崇められ、パイエーケスが之により
オヂュシュウスを試めすべき種々の競技に勝つべかり。
衆人かくて集りて共に一つに成れる時、
アルキノオスは口開き衆に向ひて陳じ言ふ。

『パイエーケスの諸頭領、又評定われに聞け、
わが胸中にあるところ心の命をわれ述べむ。
彼れ東方の人なりや?はた西方の人なりや?
何人なりや?我が知らぬ漂浪の客訪ひ來る、
彼は迫りて其郷にわれの護送を乞ひ祈る。
わが從來の例により彼の護送を急がせむ。
わが館さして來る者、何人にまれ、長き時、
こゝに留り、空しくも護送求めて泣かざらむ。
いざ波の上黒き船、初航海に浮ばせよ、
而してわれの國内の五十二人の若き者。
これ迄常に其技倆すぐれし者を撰び出せ。
しかしすべて一切の櫂を漕座に附くる後、
船より出でてわが館に來り、せはしく宴席の
準備つとめよ、われは能く物を豐かに供ふべし。
若き衆徒にわが命はかくぞ。しかして笏持てる
他の主領らは華麗なるわが宮中に訪ひ來れ、
かの珍客を堂上に共に款待なさんため、
誰しも拒むこと勿れ、また神聖の歌ひ手の
デーモドコスを呼び來れ、彼はすぐれて吟謠を
神に授かり、興ずれば歌ひて人をたのします。』

しかく陳じて先頭に行けば笏持つ諸頭領
つゞけり、使者は神聖の歌人のもとを訪ひて行く。
また撰ばれし五十二のわかき人々、國王の
命を奉じて[革|堂;#1-9380]鞳と高鳴る海の岸に行く。
かくして舟に海岸に到れる時に、一同は
その黒き舟[さんずい|亢]瀁《こうやう》の大海原に曵きおろし、
帆柱立てて帆を張りて、革もて造る環の中に、
漕座における環の中に、すべての櫂を整へつ、
すべてを型の如くして白帆《はくはん》高く張りひろげ、
波上に舟を泊らしてすべてを終へて、アルキノス
秀いで賢き國王の居館をさして進み行く。
其柱廊に中庭に室にひとしく、此國の
老いたる者と若き者、みな一齊に群りぬ。

彼らの爲めにアルキノス屠りし羊十二頭、
牙のましろき八頭の家豬、又歩み蹣跚の
二頭の牡牛、皮を剥ぎ調理し、宴の備なす。

令使その時そば近くいみじき歌手を導きぬ、
詩神は彼をいつくしみ、禍福ひとしくわけ與ふ、
かれのかたへにポントノス、酒宴の客のたゞ中に、
銀鋲うてる椅子を据ゑ巨柱に之を支へしめ、
又玲瓏の音つる琴を頭上に、留釘《とめくぎ》に、
懸けて釣りさげ、手をのして之に觸るべく指し示す、
更に令使は伶人のそばに卓据ゑ籠をおき、
また意の儘に飮ますべく葡萄の美酒の盃を添ふ。
衆人やがて目の前におかれし美味に手を延しぬ、
かくておのおの口腹の慾を飽くまで滿たす時、
詩神はめづる伶人を促し、高き勇將の
あと歌はしむ、其ほまれ大空高くひびくもの、
ペーレーデース・アキリュウス、オヂュシュウスと[8-75]爭へる、
あとを歌へり、そのむかし諸神の宴のただ中に、
兩雄荒く口論《くろん》しぬ、アカイア軍の兩雄の
其爭を衆の王アガメムノーン喜べり。
神の宣託たづぬべく、王神聖の[8-79]ピュートーの
宮の閾《しきみ》を越えし時、アポローン爲めに豫言しき、
高きヂュウスの旨により其時すでにトロイアと、
アカイアの間《あひ》おほいなる禍難の禍《うづ》は捲き寄せぬ。

[8-75]トロイア戰爭の進行に付きて、アガメムノーン神託を祈りし時、
神答へて曰く、アカイア軍中の二名將爭を起さばトロイア敗るべしと。
其後宴會の時アキリュウスはトロイアは勇戰に因り敗らるべしと曰ひ、
オヂュシュウスは計略に因るべしと曰ひて爭ふ。
[8-79]デルポイのこと。

これらの事を微妙なる伶人うたふ。オヂュシュウス
其時強き手を延ばし黯紅色のおほいなる
上衣を引きて頭上《とうじやう》におほひ、華麗の面隱す、
眉毛の下の涕涙をパイエーケスに耻づるため。
されどいみじき伶人の其吟誦を終ふる時、
涕拭ひて頭より被りし上衣取り去りつ、
二つ把手ある盃を取りて諸神に酒そゝぐ。
伶人またも歌ふとき、パイエーケスの諸頭領、
歌の言葉を喜びて、彼を促し立つる時、
オヂュシュウスは其頭おほひ隱してうごめきぬ。
其流涕を一切の他の衆客は認め得ず、
王アルキノスただひとり彼のかたへに坐を占めて、
之を認めつ悟り得つ、はげしき呻《うめき》耳にしつ、
ただちに王者アルキノス、櫂を愛する友にいふ、

『パイエーケスの諸頭領、また評定者われに聞け、
ひとしく衆に分たれし、宴は今はや滿ち足れり。
豐かの宴に伴へる絃歌はたまた滿ち足れり
いざ今起ちて外に出ですべての競技試みむ、
わが客人が其郷に歸らん時に其友に、
告げんがために、拳鬪に相撲に速き駈足に、
また跳躍に、いかばかり我らが衆を凌ぐやを。』

しかく陳じて先頭に進めば衆は從へり。
音玲瓏の豎琴を留釘の上つるし懸け、
デーモドコスの手を取りて令使は堂を立ち出でつ、
パイエーケスの諸頭領、競技見るべく進みたる
其同じ道踏み行きてかの伶人を導けり。
かくして彼ら集會の場《には》に到れば、百千の
群は續きぬ、高貴なる青年あまた身を起す、
[8-111]アクロネオース身を起す、オーキュアロスとエラトリュス、
ナウチュウス又プリムニウス、アンキュロスとエレトミュス、
プローリュス又ポンチュウス、アナベーシオネス又トオーン、
ポリネーオスの息にして、テクトニデース祖父とする
アンビアロス等身を起す、又アレースに似たるもの、
ナウボリデース・ユリアロス立てり、いみじき風彩は
ラーオダマスに、相次ぎてパイエーケスを凌ぐもの。
無雙の王者アルキノス生める三人ハリオスと、
ラーオダマスと、神に似るクリュトネーオス皆立てり。

[8-111]「泳ぐ者の意」、他も皆海に縁ある語。

徒歩競走をまつさきに衆一同は試みぬ。
其出發のはじめより、徑路はるかに連るを、
衆一同は飛ぶ如く塵を蹴立てて走り行く。
中に最もすぐれしは、クリュトネーオス、無雙なり。
衆をこすこと、畑の上、二頭の騾馬の[8-124]鋤かむ程。
さほどの距離を拔んじて、後れし相手凌ぎ勝つ。
衆人次に鬪爭のはげしき角力試みつ、
ユウリアロスは此技《わざ》にすぐれし勇士打ち破る、
アムビイアロスは跳躍の技にて次の勝を得つ、
エラトリュウスは圓盤の投げの競技に他を凌ぐ、
アルキノオスのすぐれし子、ラーオダマスは拳鬪に。
競技にかくも衆人の心おのおのたのしめり、
アルキノオスの子息なるラーオダマスは次に曰ふ、
『友よ彼の客、とある技《わざ》學びて知るや?試みに
問はずや、かれの躰格はあしきに非ず、眺め見よ、
股は腓《こむら》を兩腕を其強剛の頸筋を、
其おほいなる勇力を、若き勇氣は見るところ、
彼は缺かさず、只種々の惱みによりて挫かれぬ、
人間いかに強くとも海は力を打ち挫く、
海に優りて挫く者他にあるまじく我れ思ふ。』

[8-124]一日に鋤く程の距離か。

ユウリュアロスは之を聞き、彼の答へて陳じ曰ふ、
『ラーオダマスよ、いみじくも正しく君は説けるかな、
いざ客に行き、しか述べて彼に挑戰試みよ。』

アルキノオスのすぐれし子、其言聞きて立ち上り、
衆のもなかに進み行き、オヂュシュウスに向ひ曰ふ、
『ああ珍客よ、ある技を學びしならば、君も亦
試みること善からずや?學べる君と我は見る、
その生命のある限り、手足を以て成し遂ぐる
業に優りておほいなる譽は絶えてあらざらむ。
いざ試みよ、辛勞を君の胸より取り拂へ、
歸郷の旅は長らく延引されず、はや既に
船は波のへおろされて水夫の用意整へぬ。』

智謀豐かのオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『ラーオダマスよ、何故に我を嘲り、斯く曰ふや?
競技に越して憂愁はわれの心の中にあり、
是迄われはさま〜゛の艱難うけて苦めり、
今汝らの集會に坐して、故郷にあこがれて、
國王及び衆人に求めて祈るわれ見ずや?』

ユウリアロスは侮りて彼に向ひて陳じ曰ふ、
『異郷の客よ、世の中に競技は廣く行はる、
之を學べる人々に我は汝を比ぶまじ、
むしろ漕座の多き船、あなたこなたに乘りまはし、
商事營む水夫らの頭となりて、商品に
心を配り、強慾に利益を求めあさるもの、
此らの輩に比ぶべし、競技學べる者に似ず。』

智謀に富めるオヂュシュウス目を怒らして彼に曰ふ、
『汝何者!亂言を吐きて愚《おろか》の者に似る、
げにも諸神は人の子にあらゆる長所得さしめず、
美貌を智謀を能辯を誰か一つに兼ね得べき?
ある一人は風彩に於ては劣る、然れども
巧妙の言神は貸す、かくして衆は喜びて
彼を仰げば、欣然と蜜の如くに甘美なる
言句を陳じ、集會の席に視聽をそびやかす、
途行く時に衆人は神の如くに彼を見る。
またある人は其風姿さながら神を見る如し、
されども彼の言句には優雅なるもの絶えてなし
汝もさなり、風彩は燿くばかり、神も亦
之を補ふことを得ず、されど心は愚かなり。
汝叨りに亂言を吐き、胸中のわが心、
かくも劇しく激せしむ、われは汝の言ふ如く、
競技を知らぬ者ならず、わが青春にわが腕に
たよりし頃は、其道に首先のほまれかち得たり。
今憾むらく災難と憂によりてわれ弱る。
げに戰場に海上に經たる苦難は幾何ぞ!
さはれ斯く迄惱めどもわれは競技を試みむ、
汝の述ぶる亂言はわれの心を激せしむ。』

しかし陳じて外套を纒へるまゝに飛び出し、
厚き巨大の[8-187]圓盤を -- パイエーケスが競ふ時、
用ゐるよりは重量のはるかに優るものを取る。
こを振り廻し、強剛の手より遙かに投げとばす、
[8-190]盤は唸りて飛び行きぬ、飛び行く下に、長き櫂
使ひ、航海巧みなるパイエーケスは一齊に、
地上にかがみうづくまる、盤は飛び行き從來の
すべての記録打越しぬ、その時パラス・アテーネー、
人の姿を取り來り、記號をつけて彼に曰ふ、
『ああ客人よ、盲目の人も手探り明かに、
これこの記號認むべし、外にまぎるゝことあらず、
遙かに他より拔きいでぬ、競技に對し信を措《お》け、
パイエーケスの何人もこれに屆かず、飛びこさず。』

[8-187]圓盤扱げは後、特にスパルタに行はる。初めは石にて造られ、後、鐡、錫等に。
[8-190]原文は「石」。

智謀豐かのオヂュシュウス其言聞きて喜べり、
群集中に好意ある伴を認めて喜べり。
かくして勇士手も輕くパイエーケスに向ひいふ、
『若き人々飛ばし見よ、かしこに、 -- 我はまた後に、
等しき距離に、更に又一層遙か飛ばし得む、
心と意氣と促さば、誰人にまれ、こゝに來て、
別の競技をなさしめよ -- 汝ら我を怒らせり --
拳鬪、角力、駈け走り、いづれを問はず試みよ。
ラーオダマスを別にして、國人すべて試みよ。
かれは今わが主公たり、誰れか主公と爭はむ?
他國にありて客となり、厚き款待うけ乍ら、
主公に對し苟くも競技を挑む者あらば、
そは配慮たらぬうつけ者、やがてすべてを失はむ。
主公を除き何人もわれは拒まず、侮らず。
むしろ親しく彼を知り、試みんことわが願ひ。
世間の人のなす技のいづれも我は拙ならず、
よく磨かれし圓弓をわれは扱ふことを知る、
同僚われの傍に近く並びて敵人を
目がけて勁矢飛ばすトキ、其敵軍の群りに
我は眞先に矢を放ち、其一人に射當つべし、
わがアカイオイ、トロイアの戰場中に射たる時、
[8-220]ピロクテーテースただひとり、弓勢《ゆんぜい》われを凌ぎたり、
彼を除けば、食を取り地上にすめる一切の
他の衆人に優れるを、敢て自ら我は曰ふ。
ただし昔の諸英雄 -- ヘーラクレースあるは又、
[8-224]オイカリエーのユウリトス、之らと競ふことをせず、
彼ら弓技に打誇り、神明とさへ爭へり。
かのおほいなるユウリトス、此故をもて早く死し、
家中に長壽享けざりき。アポローン彼に憤《いきどほ》り、
弓技挑みし故をもて、彼れの一命亡ぼせり。
われ又槍を他の人の矢さへ到らぬ距離に投ぐ。
ただ競走はわれ恐る。パイエーケスのある人ら、
われに優らむ、船中屡々食に乏くて、
われ激浪のただ中に痛く劇しく惱まされ、
かくして爲めに無慘にも手足弛みて力なし。』

[8-220]アカイアの弓の名將。イーリアス二歌七一八。
[8-224]同七三〇。

しか陳ずれば、衆人は默然として言葉なし、
王アルキノスたゞひとり答へて彼に陳じ曰ふ、
『客人 -- 君のいふところわれらの耳に惡からず、
集合の場《ば》にそばに立ち、君に無禮の言吐ける
かの一人にいきどほり、君は望めり一身に
備はる勇を見すべしと、言句正しくいふ術《すべ》を
心に悟り知る者は君の勇氣を誹謗せじ。
さはれ今わが言を聞け、國に歸りて館の中、
君、恩愛の妻と子と並びて宴を張らん時、
われらの長所思ひ出で、他の勇士らに説かんため、
遠き祖先の昔よりヂュウスが斷えず連綿と、
此國人に與へたる長所を君の説かんため。
角力《すまひ》に又は拳鬪にわれらすぐれし者ならず、
さはれ我らは善く走る。又、善く船を乘りまはす。
われらの常に愛づる者、饗宴、絃歌、また舞踊、
衣服の着換へ、温浴と又温柔の閨とあり。
パイエーケスの舞踊者のすぐれし者よ、いざや立て、
踊れ、しからば客人は故郷に歸りつかん時、
親しき友に語るべし、航海及び競走に、
舞踊並に吟謠にわが國人の秀づるを。
たそ今行きて、わが館の中に必ずありぬべき、
音玲瓏の豎琴をダーモドコスに運び來よ。』

神の姿に髣髴の王アルキノスしかく曰ふ、
令使は立ちて王宮の中より琴を持ちきたす。
民の中より擧げられて場の整理を司どる
監督九人一齊に今立ち上り、舞踊場《ば》の
地面をならし平げて、其れの區劃を取り擴ぐ。
令使は側に近づきて、デーモドコスに玲瓏の
音する琴を與ふれば、場裏眞中《まなか》に彼は行く。
彼を廻りて花やげる舞踊たくみの少年ら、
おのおの脚に清淨の場を踏みつゝ舞ひおどる。
オヂュシュウスは其脚の動き眺めて驚けり。

今伶人は琴を彈き、アプロヂーテー、王冠の
美なる神女とアレースの[8-267]戀をいみじく謠ひ出づ、
ヘーパイストスの館の中、二神ひそかにかたらへり。
神は神女に數々の贈與をなして主公たる
ヘーパイストスの閨汚す。其かたらひを先に見し
使者ヘーリオス急ぎ行き、彼の委細を洩し告ぐ。
心惱ます消息をヘーパイストス耳にして、
鍛冶場に來り、物凄き計略思ひ廻らしつ、
彼ら身動きならぬため金床《かねとこ》の上おほいなる、
金砧《かなしき》据ゑて斷ち難き、ゆるまし難き鎖鑄ぬ、
斯くアレースにいこどほり、罠を造りて終へし時、
彼の臥床のあるところ其寢室に足運び、
床脚めぐり幾重にも、鎖うちかけ、更に又
幾條となく、天井の高き上より蜘蛛の巣の
細きが如き鎖埀る、そを何者も、慶福の
神明さへも見るを得ず、巧極めて造られき。
斯くして床をめぐらして罠をあまねく張れる後、
地上あらゆる郷の中、彼の最もめで思ふ、
都市レームノス、堅牢に築ける場《には》を訪ふまねす。
今黄金の武具着くるアレース、看る目鋭くて、
ヘーパイストス、巧みなる神工遠く去るを見つ、
ヘーパイストス、巧みなる神工の館訪ひ來る、
寶冠美なる[8-288]キュテレーの愛を求めて訪ひ來る。
威力の猛きクロニオーン、父なる神の宮居より、
神女は今し歸り來て座しぬ、其時アレースは、
内に入り來て手を握り、名を呼び彼に陳じいふ、
『戀しき君よ、閨に行き、うれしき夢を結ばまし、
ヘーパイストス今家にあらず、怪しき言句吐く
[8-294]シンテーイスのレームノス郷を目ざして立ちさりぬ。』
アプロヂーテー其言を聞きて合歡樂みて、
共に連れ立ち、床の上《へ》に添臥なしぬ、然れども、
ヘーパイストス巧みたる鎖その時降り來て、
彼らは四肢を動かすを揚ぐるを共に得べからず、
しかも今更逃走の術はあらずと悟り得ぬ。
レームノスの地つける前、脚を返せる跛行神、
ヘーパイストス、其時に(神ヘーリオス彼が爲め
看守し、報を齎せば)彼らに近く迫り來ぬ。
(心惱みておのが家《や》にヘーパイストス歸り來つ、)
激しき憤怒身を焚きて、室の戸口に立ち留り、
聲すさまじく高らかに諸神に向ひ叫び曰ふ、

[8-267]三六六行迄つづく。
[8-288]アプロヂーテー。
[8-294]イーリアス、一歌五九四。

『父のヂュウスよ、もろ〜の常住不死の神々よ、
來りて、こゝに笑ふべく、しかも宥せぬわざを見よ、
われの跛行の故をもて、アプロヂーテー、ヂュウスの子、
常にわが身を侮りて、不義のアレースめでおもふ、
彼は美にして脚直し、されども我は生れ得て、
不具なり、しかも其責は他に探すべき要あらず、
ただただ父と母とのみ、われ生れずば善かりしを!
さはれ乞ふ、見よ、わが閨に入りて二神が愛慾に
耽らんずるを、われの目は見るに忍びず、惱むのみ。
さはれ愛慾強しとも、こゝに彼らは一瞬も
横はること叶ふまじ、すぐに直ちに同牀の
望捨つべし、然れども無耻の息女を娶るべく、
われの贈れる結納の其一切を悉く、
われ其父に返さずば、罠と鎖は解かるまじ、
彼女誠に美なれども情を抑ゆる術《すべ》知らず。』

『しか陳ずれば黄銅の家に諸神は群りぬ、
大地を抱くポセードーン來れり、人を救ふもの、
ヘルメーアスと銀弓の神アポローン亦來る、
(神女らさはれ憚りて各々宮に居殘りぬ。)
恩賜豐かの神明はかくて戸口に佇みつ、
ヘーパイストス行へるこの巧妙の策を見て、
慶福永き神明は笑ひ崩れてはてしらず。
中に各相隣る神は互に告げて曰ふ、

『不義の行遂げがたし、遲きは疾《と》きに追ひつかむ、
ヘーパイストス遲けれど、ウーリュンポスを家とする
諸神の中の疾《はや》きもの、アレース神を捕へたり、
跛行なれども術をもて不義の償拂はせむ。』

斯の如くに群神は相互に間《あひ》に語り合ふ、
ヂュースの寵兒アポローン、ヘルメーアスに問ひて曰ふ、
『ヂュースの子なる[8-335]ヘルメーア、恩賜豐かの使者、汝、
堅き鐡鎖に縛られてアプロヂーテーもろともに
臥床の上にいぬること、いかに汝は慾するや?』

[8-335]呼格。

使、アルゲーポンテース彼に向ひて答へ曰ふ、
『銀箭放つアポローン、其事われに起これかし、
[8-340]アプロヂーテー金髮の傍《かたへ》に床に臥すを得ば、
三倍強き解けがたき、鐡鎖縛るも不可ならじ、
汝等諸神、女神らと共に見るとも厭ふまじ。』

[8-340]好笑。 -- 土佐の高知の幡摩屋橋に女犯の罰として美人お馬と共に若き僧がさらしの刑を受けた時、之を見たる行人は「お馬と共ならばさらしも可」といひしとぞ。

しか陳ずれば天上の不死の神明皆笑ふ。
ポセーダーオーンただ獨り笑ふはず、術は巧妙の
ヘーパイストスにアレースを許さんことを乞ひ願ひ、
即ち彼に翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

『願はくは彼を解き放て、われは約せむ、命のまゝ、
彼れ神明を前にして正しく科料拂ふこと。』

技術たくみの跛行神答へて彼に陳じ曰ふ、
『大地を抱くポセードーン、この事、われに求めざれ、
狡兒のために保證する。其事宜しからざらむ。
科料と鐡鎖まぬがれてアレース逃れ去らん時、
我いかにして神明の前に汝を縛り得ん?』

大地を抱くポセードーン其時答へて彼に曰ふ、
『ヘーパイストスよ、アレースが科料正しく償はず、
逃亡なさば其科料我は汝に拂ふべし。』

技術巧みの跛行神答へて彼に陳じ曰ふ、
『汝の言に背くこと有り得べからず、善かるまじ。』

ヘーパイトス斯く陳じ堅き鎖を解き放つ、
その堅牢の鎖より解き放たれし二位の神、
直ちに起きて奔り去る、トレーケースに彼は行き、
これ矯笑をめづる神キュプロス島の中にある
バポスに行けり、祭壇はそこに薫りて森深し。
そこに册づくカリテスら神女に湯沐《ゆあみ》なさしめて、
天上不死の神明の用ゐる香油まみらして、
目を驚かす纖麗の衣服膚に纒はしむ。
しか巧妙の伶人は歌へり、聞きてオヂュシュウス、
其胸中に喜べり、櫂の長きを使ひ馴れ、
航海の術すぐれたるパイエーケスも喜べり。

その時國王アルキノス、ラーオダマスとハリオスに
命じ、もろとも踊らしむ、二人に競ふ者あらず。
技術すぐれしポリュボスが二人のために作りたる
眞紅美麗の球を手に彼らおのおの取りし時、
一人は後に身を曲げて之を眞直に天に投げ、
一人は地より飛び上り、脚の地上に歸り來て、
着くに先だち欣然とたやすく球を攫み取る。
眞すぐに高く球投ぐる術を試み終る後、
王子二人は手より手に球投げかはし、豐沃の
大地の上に舞ひおどる、わかき人々場中に、
立ちて喝采はてしなく、轟々として騷ぎ立つ。
其時勇士オヂュシュウス、アルキノオスに向ひいふ、
『民の間にいとしるき、あゝ權勢のアルキノス、
舞踊の子らのいみじきを君は誇れり、其言は
正しかりけり、眺め見て我驚嘆の外あらず。』

しか陳ずれば喜べる強き尊きアルキノス、
櫂の友なる國の人パイエーケスに向ひ曰ふ、
『パイエーケスの諸頭領又評定者われに聞け、
わが見るところ、わが客は叡智誠にいちぢるし。
いざ友愛の贈物、ふさはしき物呈せずや!
すぐれし君主十二人、民の間に長として、
こゝ司どる、次ぎて我第十三に位せり。
彼らおのおの外套と善く洗はれし下着とを、
一タランタの黄金に添へてこの場に持ち來れ、
ただちにこれを一つにし、客に渡さば手に取りて
心喜び悠々とわが宴席に就きぬべし
ユウリアロスは言句もて、又贈與もて客人の
意を柔げよ、先きに彼述べし言句は不可なりき。』
しか陳ずれば衆人は之に贊して令下し、
各々使者を家にやり、贈與の品を齎らしむ。

ユウリアロスは其時に答へて彼に陳じいふ。
『民の間にほまれあるあゝ權勢のアルキノス、
君の命ずる如くして客の心を和らげむ。
彼に一振黄銅の劔《つるぎ》贈らむ、柄《つか》は銀、
新たに切りし象牙もて造りし鞘の包むもの、
こを贈るべし彼に取り、價賤しきものならず。』

しかく陳じて客の手に銀鋲うてる劔《けん》與へ、
飛揚の羽を具へたる言句を彼に陳じ曰ふ、
『あゝ珍客よ安かれや!粗暴の言句わが口を
洩れなば風は速かにこれを遠きに吹き去れよ。
神明、君に愛妻を見るべく許せ、郷國に
歸るを許せ、友離れ、君は長くも苦しめり。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『友よ汝も康かれよ、神は慶福與ふべし、
われをなだむる慇懃の言句に添ふる贈物、
後に到りて此の劔《つるぎ》惜み悲むこと勿れ。』

しかく陳じて肩の上、銀鋲うてる剱を懸く。
日は沈みたり、高貴なる贈與の品を彼の爲め、
アルキノオスの宮殿に諸令使共に持ち來す、
すぐれし王者アルキノス、生める子息ら受取りて、
貴き母の傍に此等の寶ならべおく。
強き尊きアルキノス衆を率ゐて先たてば、
皆一齊に内に入り高き椅子のへ座を占めぬ。
その時王者アルキノス、王妃に向ひ宣しいふ、

『あらゆる中の最美なる櫃を、王妃よ、持ち來れ、
而して中に清らかの上着下着を容れよかし。
又彼のため大釜を火に温めて湯を沸かせ、
浴し畢りて珍客がパイエーケスの貴人らの、
持ち來らせる一切の贈與並ぶを見んがため、
又饗宴を樂しみてわが伶人を聞かんため。
我れ亦彼に美はしき金の盃與ふべし、
かくせば彼はおほいなるヂュウス或は他の神に
奠酒の禮をいたす時、とこしへ我を偲ぶべし。』

しか陳ずればアレーテー侍婢らに命じ、迅速に
巨大の鼎烈々の火焔の上に据ゑしめぬ、
侍婢らは命に從ひて鼎を据ゑて水を入れ、
あまたの薪齎らして燃やして熱く湯を沸かす、
猛火鼎を取り捲きて水は次第に沸きいだす。
かなたに王妃アレーテー華麗の櫃を寶庫より、
客のためにと取り出だし、パイエーケスの齎せる
衣服黄金さま〜゛の寶を中に納め入る。
王妃は更に其中に上着下着を添へ加へ、
客に向ひて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、
『客よ、自ら此櫃の蓋を調べて紐かけよ。
黒き船のへ柔かき眠に君の入らん時、
途に或は人ありて君を欺くことあらむ。』

耐忍強きオヂュシュウス勇將これを打聞きて、
ただちに櫃の蓋を閉ぢ、先きに貴きキルケーが、
彼に教へし法のよる祕密の紐をかけ結ぶ。
やがて老女は出で來り誘ひて彼を浴室に
導き浴をとらしめぬ、其温浴を眺め見て
彼は心に喜べり、鬢毛美なるカリュプソー
仙女の館を出でし後かゝる款待あらざりき。
(館にありては神明の如くに彼は遇されき。)
侍女らは客を浴せしめ、香油を彼の膚に塗り、
華麗の上着又下着其身の上に纒はしむ、
斯くして彼は浴室をいでゝ芳醇酌みあへる
衆の間に加はりぬ、其道筋にノーシカー、
美貌を神の惠む者、部屋の柱によりて立ち、
其目の前を通りゆくオヂュシュウスに驚きつ、
即ち飛揚の翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、

客よ康かれ。やがての日、祖先の邦にあらん時、
君それ我を思ひでよ、眞先きに君を救ひたり。』

智謀豐かのオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『あゝノーシカーカー、おほいなるアルキノオスの生むところ、
神女へーレー妻とする雷霆の神クロニオーン、
願はく我にわが郷に歸る喜あらしめよ。
かしこにありてとこしへにさながら神を見る如く、
君に祈願を捧ぐべし、君はわが命《めい》救ひたり。』

しかく陳じて國の王アルキノオスのそばに坐す。
給仕ら正に一同に食を頒ちて[8-470]酒混ず、
やがて令使は衆人のひとしく崇めたふとべる
デーモドコスを -- 伶人を導き、そばに入り來り、
酒宴の客のただ中に、高き柱によらしめぬ。
智謀に富めるオヂュシュウス、令使に物を問ひ乍ら、
多量に殘る野豬《しゝ》の肉、牙眞白なる野豬の背の
肉の一部を切り取りぬ、脂肪豐かに富めるもの、

[8-470]水をまぜて味を程よくす。

『令使よ、これを持ち行きてデーモドコスに喰《はま》しめよ。
我は憂に沈めども彼に祝の言寄せむ。
地上における人間のすべて捧ぐる愛と敬、
そを伶人は身に收む、神女ムーサは伶人の
種屬をいたくめでおもひ、彼らに歌を教へたり。』

伶人即ち命により肉携へてすぐれたる
デーモドコスの手に渡す、受けて伶人喜べり。
衆人かくて眼前におかれし美味に手を延しぬ。
されど衆人飮食を取りておのおの飽ける時、
智謀に富めるオヂュシュウス、デーモドコスに向ひ曰ふ、
『デーモドコスよ、一切に優りて我は君崇む。
ヂュウスの息女ムーサ、はたアポローン君に教へしか?
アカイア軍の運命とアカイア軍の行動と、
その成功と受難とをいみじく君は述べ歌ふ、
さながら之を見し如く、或は他より聞く如く。
さはれ題目今變へよ、アテーナイエーもろともに
木馬作れるエペイオス、其構造を今歌へ。
智謀に富めるオヂュシュウス木馬に戰士滿たしめて、
計りて之をイリオンに入れて都城を亡しき。
君もし、これをいみじくもわれに向ひて歌ひ得ば、
たゞちに我は一切の人に遍く宣すべし、
好意を君に抱く神、君に聖歌を與へぬと。』

しんか陳ずれば、伶人は神の鼓吹を被りて、
歌ひぬ、むかしアカイオイ、其陣營を燒き拂ひ、
漕座よろしき舟に乘り、海に航して別れ去り、
殘れるものは英剛のオヂュシュウスともろともに、
木馬にひそみ、トロイアの堅城外に身をおきぬ。
トロイア軍は知らずして木馬を城に曵き入れぬ。
その城中に立てる時、かたへに坐そて論じあふ
衆は容易く決し得ず、意見は三つに別れたり。
其一は曰ふ剱戟を取りて木馬を撃ち碎け、
更に二は曰ふ懸崖の下に木馬を突き落せ、
第三は曰ふ神明を和らぐ供物たらしめよ。
その三の説行はれ、運命遂に窮りぬ。
トロイア軍の滅亡を案じ勉むるアカイオイ、
其アカイアの勇將らひそみかくるゝおほいなる
木馬を城に入れし時、死の運命は定りぬ。
伶人つぎて又歌ふ、隱れ伏したる木馬より、
現はれいでしアカイアの勇士都城を掠めしを。
アカイア勇士堅牢のトロイア城を掠め去る。
中に、さながらアレースに似たる英剛オヂュシュウス、
メネラーオスともろともに[8-518]デーイポボスの館襲ふ。
勇將そこに猛烈を極め戰ひ打ち勝ちぬ。
神女パルラス、アテーネー助けし故に打ち勝ちぬ。』

[8-518]プリアモス王とヘクーバより生れし子、ヘレネーを返すことに反對したる者。

譽すぐれし伶人はしかく歌へり、オヂュシュウス
心碎けて眼蓋より涕流して頬ぬらす。
子らと都城を無慙なる運命よりし救ふべく、
戰ひつゝも民の前、都城の前に斃れたる
勇士をいたむ彼の妻、今臨終の息を引く
其最愛の良人に、身をなげかけて慟哭の
聲高らかに嘆く時、無情の敵はうしろより、
可憐の妻の背を肩を槍もて撃ちて囚へ去り、
苦難憂愁はてしなき奴隸たるべく逐ひて行く、
その無慘なる運命にあはれ紅頬しをれ行く、
正しく斯くもオヂュシュウス涙流して悲めり。
灑げる涙、然れども、衆はひとしく認め得ず、
ひとり勇士の傍に坐せる國王アルキノス、
知りてはげしき慟哭の聲を親しく耳にしつ、
櫂を愛する國人のパイエーケスに向ひ曰ふ、
『パイエーケスの諸頭領また評定者われに聞け、
デーモドコスに玲瓏の音《ね》の豎琴をやめしめよ、
洩れなく衆は此歌をきゝて樂しむものならず、
宴はじまりて神聖の伶人歌ひはじめたる、
その時以來珍客は慟哭つくることあらず。
思ふ、まさしくおほいなる悲哀は彼の胸閉ざす。
主人も客も一齊にともにひとしく樂しむは、
優《まし》なるべきを、さらば今伶人歌をやめよかし。
崇めたふとぶ珍客の爲めにすべては爲されたり。
護送も然り、心こめ贈る品々亦然り。
少しなりとも知あるもの、彼にとりては賓客も
また哀告をなす者もみな同胞と相等し。
されば客人たくらみて隱すをやめよ、一切を
わが問ふ事を悉く打ち明くること最《もと》も善し。
君の名は何?われに曰へ、父と母とに、城中に
郷に近く住む者に呼ばるゝ君の名は何か?
賤しき者もたひときも、人間の中ひとりだに、
名の無き者は絶えて無し、おのおの生を享くる時、
彼を生みたる父と母、彼に一つの名を與ふ。
君の故郷と住民と都市とを我に今告げよ、
知あり靈あるわが船はそこに導き着きぬべし。
パイエーケスに水先を導く者は絶えて無し。
われらの船は人間の思を情を皆知れり、
また人間のすむ都市を、みのり豐かの野を知れり、
而して更に雲と霧掩ひかくせるわだつみの
其深き淵迅かに乘り過ぐ、しかも其船に
破損或は沈沒を怖るゝ憂絶えて無し。
さはれ、わが父、ナウシトス、われに話せしこと聞ける、
彼は曰ひけり、「ポセードーン怒りをわれに催しぬ、
すべての人を安らかに導く故に催しぬ。
パイエーケスの人々の堅く造れる船舶が、
護送の途を歸るとき、暗き海のへ、海の神、
こを碎くべし、おほいなる山を都城に崩しつゝ。」
老父はしかく述べたりき。神は果してしか爲すや、
しかなさざるや一切は皆神明の命の儘。
さはれ客人僞らず、隱すことなく我に曰へ、
いづくに君はさまよひし?如何なる邦に君ゆきし?
彼ら並びに堅牢に築ける都市をものがたれ、
或は酷く荒くして正義を絶えて知らざるや?
或は客にねんごろに、神を畏れて謹むや?
君また告げよ、いかなればトロイア、アカイア兩軍の
その運命をきける時、君かくまでも悲しめる?
[8-579]その運命を神々は備へて、人の滅亡を
定む -- 子孫の聞き得べき詩の題目となさんため。
イリオン城を前にして君の親屬斃れしか?
息女の夫、妻の親、血筋つづける者に次ぎ、
恩愛特に深きもの、すぐれしものゝ斃れしか?
げに聰明の資を抱きわれに親しみ睦むもの、
そは同胞に比ぶるもいさゝか劣るものならず。』

[8-579]著者の句。

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osawa
更新日:2003/08/30