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歴史を歩く
旧水戸城の薬医門

水戸一高に立つ旧水戸城の薬医門
移転繰り返す数奇な運命
 土塁の先にゆったりと陽が落ちる。学ラン姿の応援団の太鼓の音にも、四百年を超す歴史を刻む大門は静寂を保ち、テニスコートのネットを飛び交う声が漆黒の棟木にしみ入る。水戸市のJR水戸駅北口から国道50号線を右に折れ、銀杏並木を縫って歩くこと約十分。目指す県立水戸第一高校にたどり着いた。

 水戸を治めた佐竹氏は安土桃山時代末期の一五九〇年ごろ、水戸一高の敷地に水戸城の本丸を築城した。その出入り口として使用されたのが同高の敷地内に構える薬医門だ。江戸時代が終わるまで、この門は三百年近くにわたって城を守り続けた。現在も昔の姿を残す、水戸城では唯一の建造物でもあり、一九八三年には県指定文化財となった。

 この門は、明治時代以降、位置や所有者が二転三転するという数奇な運命をたどったうえ、史料の少なさから、水戸城本丸の門とは明確に断定できないともいわれる。

 明治に入り、まず初代県知事の安田定則が、水戸市三の丸に建設した自宅に一八八七年ごろ、門を移築。安田氏が県知事を辞めた後は、豪商の小山田氏が安田邸を買い取り、周辺住民から「小山田邸の開かずの大門」と呼ばれた。

 ところが、間もなく小山田氏も水戸を離れ、あるじを失った門は、第二次世界大戦末期の一九四四年には、水戸市八幡町の祇園寺に再び移築された。四五年八月二日、水戸市はB29の空襲を受け、多くの官公庁の建物が焼失したが、祇園寺周辺は標的からはずれた。移築により、門は戦災を危うく逃れることができたのだ。祇園寺住職の小原宜弘さん(51)は「門は、外の俗と内の聖を分ける結界でもある。その点で、歴史と風格のある薬医門はうってつけだったのだと思う」と話す。

 その後、金銭的な事情から、祇園寺は水戸市に門を寄贈。八一年、水戸一高正門付近の現在の位置に移築されて、今に至っている。

 かつて、城門は重要な軍事施設だった。このため、江戸時代に数回作成された水戸城絵図にも門の詳細は示されておらず、水戸城のほかの門だったとする学説もある。明治以降に、門が変遷した経緯を詳しく知る人も今はいない。県や水戸市の担当者、それに地元郷土史家らの専門家でさえ「史料が少なく調べようがない」と当惑する謎の門なのだ。

 とはいえ、門が水戸城をシンボルとする水戸市の歴史を語るに欠かせない遺物であることは確かだ。元文化財保護審議会委員で一九八二年に門の調査を行った建築文化史家の一色史彦さん(62)は、「雄大さ、風格、どれをとっても水戸城の要の門だったことは間違いない。だからこそ移築が繰り返されたのです」と話している。(足立 大)

 【薬医門】

 薬医門は門の建築様式の呼び名。前後合わせて4―8本の柱の上に切妻屋根をかぶせた雄大な風格から武家に好まれ、城門によく用いられたという。水戸城では橋のたもとにあったことなどから「橋詰門」とも呼ばれていた。高さ約7.3メートル。


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