正月の連日の飲み過ぎがたたって、昼からどうしようもない状態になっていた。つらさをこらえてラジオで劇作家のNと対談をした。
「どうしたんだよ、赤鬼みたいな顔して。うわっ酒臭せー」
そのときはいつもの二日酔いのひどいやつくらいに思っていた。対談を終えてトイレで胃液を吐いたとき鼻血が出た。帰りの車の運転は危険きわまりなかった。シートを前に出して、抱えたハンドルの前に顔を突き出して安全運転に勤めた。ようやくたどり着いた居間の床に電気もつけずに横たわっていた。程なく妻が帰ってきて、電気をつけてぼくの異様な姿に気づいた。血圧を測ると上が二百十七だ。そのまま妻の運転で近所の医者に行った。血圧を測って医者が驚いた。ぼくは鼻血が出たことを医者に告げた。
「鼻血ね」
医者はカルテに書き込んだ。
「先生、鼻血でよかったんですよねぇ」
付き添った妻の言葉に医者は生返事をした。
「頭の中が切れてたら大変でしょう。鼻血が出て助かったんじゃないんですか?」
「そう、そうですよ。頭の血管が切れてたら大変なことになっていたよ」
妻の診断の方がこの初老の医者よりも素早かったようだ。即入院と言われたが、家も近いし仕事もあるので自宅で安静にすることになった。それからしばらく、二階の茶の間に布団を敷いて寝ていた。酒も一週間は完全に抜いた。死を考える年代に入った。
ニュースも終わりに近づいたので、そろそろ寝ようと寝返りを打った。
「いま入ったニュースです。世田谷区在住の直木賞作家」
悪い予感がして体を起こしてテレビの前に座った。
「景山民夫さん宅で火災が起こり、景山さんは意識不明の重体と伝えられています。繰り返してお伝えします……」
立ち上がって妻を呼んだ。
「民夫が火事で重体だって言ってるぞ! すぐに行かなくちゃ!」
と言ってもどこで誰に聞いたらいいのかもわからない。実は最近は彼の連絡先さえ知らないのだ。妻は取りあえずと言って前のかみさんのおうまの携帯に電話した。おうまは駒沢の病院に向かう車の中にいた。あわてて着替えて妻と車に乗った。
「意識不明って言ってたけど大丈夫だろう」
環七に出たときそうつぶやいた。
「あいつが死ぬわけないもんな」
246を曲がるときもつぶやいた。
救急の入り口で面倒だからと家族を名乗って案内されたのは、臨終の患者の家族が通されるような狭い待合室だった。おうまと長女がいた。二人とも冷静だった。受験勉強中の長男はファミレスで勉強中らしく連絡が取れない。
「お医者様のお話だと、いま蘇生手術をしているんですって。一酸化炭素を吸っちゃったらしいのよ」
待つしかなかった。いい報告を待つしかなかった。入ってきたドアの向こうにもドアがある。そのドアの廊下を隔てた部屋に民夫がいる。何度かそのドアが開いてあわただしく看護婦が中をのぞき、なにも言わずに閉めてしまう。ぼくはコメディ映画でダイナマイトをつかまされた男のように、チリチリの頭にすすだらけの顔をした民夫がドアを開けて入ってきて、バッタリ倒れてみせる絵を想像していた。ドアが次に開いて、入ってきたのは白衣の医者だった。全員がすがるような目で見た。
「ご家族の方は?」
「前の奥さんと本人の長女です」
おうまが自己紹介しかねていたのでぼくがフォローした。
「火傷の方はそんなに重度ではないんですが、一酸化炭素を吸っていますんで難しいところですが、まだ蘇生の手当は続けています」
わかる範囲でいいからと言われて、長女に書類の記入方法を教えてから医者はドアの向こうに消えた。十分ほどして同じ医者が戻ってきた。
「ご臨終です」
時計を見て時間を告げた。一時前だったと思う。
ぼくらは初めてドアの向こう側に行った。通された部屋の中央に置かれた移動用ベッドに大きな体があった。民夫は顔だけを出して、身体は白いシーツに包まれていた。部屋は火事場の後の臭いがした。この臭い、一生忘れないだろうなという思いが頭をよぎった。髪はシャワーを浴びてきたような濡れ方をしていたが、多少すすをつけた顔に火傷はなかった。長女が父親の髪を撫でた後で、ぼくはそっと民夫の頬に触れた。
安置室に移すために、ぼくらはさっきの待合室に戻された。よれたスーツの二人の男がぼくらを待つようにしていた。戻った部屋は、なんだかぼくらに馴染んできたような気がしたのは彼らが侵入者に見えたせいだろう。病院の事務関係の人かと思ったら警察手帳を出された。奥さんは別の病院に運ばれたが軽傷だと聞いた。
男たちが帰ると、看護婦に安置室に案内された。そこはさっきの部屋の三つ隣りだった。ここならなにも移す必要がないのに。やがて長男が到着した。彼も冷静だったが、ショックで顔が青ざめている。無言のままぼくたちは扉側に四人並んで立っていた。妻がたばこを吸いに出て行った。ぼくも電話をかけに廊下に出た。
長い廊下の突き当たりから小走りで向かって来る数人の陰があった。先頭は民夫と一緒に出版社の前でシュプレヒコールをしていた女優だった。ぼくは電話を止めて応対することにした。家族の許可を受けて女優ともう一人の男だけが安置室に入った。入るとすぐに男性が民夫の腹の上に小さな本を乗せた。
「どなたなんですか?」
長女がきつい目をして低くしっかりした声で言った。もちろん長女はこの女性が誰だかを知っていたに違いない。ぼくはその場を取り繕うように民夫の友人だと説明した。女優は部屋の天井を見てこう言った。
「そう、ここよ、あたしは見たわ。この部屋で景山さんが亡くなったときに天井を天使が舞っていたのよ」
「父が息を引きとったのはこの部屋じゃありません」
長女は毅然とした態度で言った。女優は聞こえない振りをして、なにやら連れの男性と打ち合わせを始めた。
「後のことは私たちがしますから」
女優がそう言うと、長女は、
「葬式は私がします」
思わず女優が目を逸らすほどの敵意を含んだ鋭い視線で言い切った。
「そういうことはいまの奥さんが考えるんだからね」
妻が長女の肩を抱いてそう言った。
女優たちはその場を離れ一緒に来た人たちと廊下で合流した。
やがて民夫は成城署に運ばれることになったという知らせが来た。
おうまは長男の運転で帰宅し、ぼくと妻は長女と成城に行くことになった。
成城署の前は報道陣でごった返していた。廊下の椅子に三人で座っていたが、再び民夫に会えるわけでもないらしく、時間が経つにつれてだんだん居心地が悪くなった。
「高平さんと娘さんはいらっしゃいますか」
「はい」
ぼくは立ち上がった。待合室で順番を待つ患者の心境だった。部屋にある十数個の木製の事務机の一つの側に奥さんが座っていた。達観したような優しい微笑みを浮かべてぼくら三人を見た。それから長女に、
「ごめんね」と一言言った。
かける言葉も見つからなかったが妻が「無事でよかったわね」と声をかけた。
報道陣を避けるようにして車に乗った。車中ではしばらく無言が続いたが、もうちょっとで長女の家に着くころ、ようやく長女が沈黙を破った。
「やっと父が私たちのもとに戻って来たような気がします。いまは、葬式なんて形式だからどこがやってもいいって気になってきました」
笑顔でそう言った。しっかりしたいい娘だ。
通夜の晩に家に戻るとK書店の編集者から電話で弔辞を頼まれた。ぼくなんかよりふさわしい人がいるだろうからと断ると「奥様のたってのお願いで、高平さん一人だけに弔辞を呼んで貰いたいと頼まれましたので」と言われてしまった。
出棺の前にぼくは妻と先に会場を抜け出し火葬場に行くため駐車場に向かった。出口の大きな柱の陰にいた集団に名前を呼ばれた。振り向くと中学高校の懐かしい同級生の顔だった。どの顔も「高平、つらいだろうな」と気遣う優しい顔をしてくれていた。ぼくは立ち止まらずに軽く手を挙げて走ってその場を離れた。
棺が鉄の扉の向こうに消えたとき、民夫の両親の後ろ姿がもっとも寂しそうに見えた。民夫と同じくらいの背丈の大きな背中は、まだ現役の警察官のように背筋がまっすぐ伸びていた。その隣りにはさっきぼくに「民夫は最後まで高平君に世話をかけてしまいましたねぇ」と言った母親の小さく丸まった背中があった。大きな背中はこれで勤めは終わったんだと言い、小さな背中は大きな背中をいたわるようだった。
民夫の新旧の家族に会えたお陰で、長女が言うように久しぶりに懐かしい彼が帰ってきた気がした。民夫は中学一年でつきあい始めたころと全く同じいいやつの印象を残してぼくの前から消えた。ぼくの読んだ弔辞は「夢で逢いましょう」で結んだ。それは中学生だったぼくらが毎週見ていた大好きなバラエティ番組のタイトルだった。
*ご好評いただきました連載「あなたの想い出──Memories of You」は今回で終了し、単行本として12月中旬に全国の書店で発売になります。くわしい内容は、新刊案内のところをご覧ください。
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