HOME


先史〜弥生古墳時代白鳳・奈良・平安中世鎌倉〜戦国時代江戸時代明治〜現代
妹蓮池尻出土銅鐸 先史〜弥生  −吉備のあけぼの
 およそ数万年前から瀬戸内の沿岸各地で暮らしはじめていたという私たちの遠い祖先。 縄文後期にはすでに岡山県南部では他にさきがけた稲作が始まったとされており、その古代吉備中心の総社平野の一角となった真備町周辺にも、数多くの弥生時代の遺跡が確認されています。
 岡田の山之谷採取の石器、下二万金峯寺裏山発見の石斧、尾崎の熊野神社裏山の黒宮大塚は弥生後期の墳丘墓と推定され、妹の蓮池付近では大正時代に、高さ48センチ余の見事な銅鐸が発見されています。
 小田川沿いの平野周辺部に点々と位置する紀元前後の弥生遺跡は、当時の真備町一帯にかなりの水田が開けていたことを物語り、妹の銅鐸も周辺に散らばる村々の共同の祭器として用いられていたのでしょう。
古墳時代 箭田大塚古墳出土品  −古代吉備国の時代
 吉備が大いなる繁栄のしるしを残す5世紀。 総社平野東端の造山古墳をはじめとする巨大古墳は、近畿の大王墓とも肩を並べ、「日本書紀」にも吉備人の躍動が記されます。
 このころ吉備は東から、上道、下道の二つの地域に分かれ、それぞれに地域リーダーの首長連合体が形作られていたと推測されます。
 古代日本の統一国家建設の過程で、畿内とも協力関係を保ちながら繁栄を謳歌する吉備。 しかし、やがて畿内の地方支配の意志が色濃くなり、吉備は次第に大和政権に組み入れられてゆきます。
 吉備下道地域にあたる真備町には、この吉備の繁栄を偲ばせる大型古墳も点在し、大いなる古代ロマンの息吹がただよう町です。
白鳳・奈良・平安  −吉備真備の世界
 備前・備中・備後・美作を基盤とする吉備王国の大首長だったと推測される吉備一族。 6世紀から7世紀に至り、吉備の諸勢力が歴史の表舞台から姿を消した後も、吉備下道臣氏のみは連綿とその命脈を保ち続け、やがて奈良時代に至り吉備真備という偉大な人物を生み出します。
 二度、遣唐使として海を渡り、数々の文物を日本にもたらし、のち右大臣として奈良朝政治史に大きな名を刻んだ真備。
 真備町に近い矢掛町東三成からは、真備の祖母と比定される「下道圀勝・圀依母夫人」の名を刻んだ骨臓器が出土しており、おそらくこの三成は祖母の出生地だったと思われます。 真備の出生地は明らかではありませんが、父の圀勝は大和の都(藤原京)の官人として仕えた記録が残ります。
堂応寺宝篋印塔 中世  −先人達の息吹き
 吉備国における神社のルーツは、飛鳥時代創建の四つの古代寺院。その一つが、真備町の箭田廃寺です。 出土した瓦は現在吉備寺に所蔵され、国の重要文化財に指定されています。
 真備町呉妹の山中にある穴門山神社は十世紀に成立した「延喜式」に記載される式内社として知られています。 社の背後には古代祭祀の磐座(いわくら)を思わせる巨石、山裾にはあの銅鐸発見の地があり、一帯は古くからの祭祀の地であったとも想像できます。
 奈良時代から平安時代にかけて小田川沿いの平野部には、薗の荘、河辺の荘などの荘園化が進み、東西にのびる山陽道を人馬が行き交います。
 源平合戦のころから西国に勢力を伸ばした平家も衰微し、やがて時代は武士の時代へと移ります。
鎌倉〜戦国時代  −戦乱の真備
 古代からの要路であった山陽道が通り、さらに高梁川の渡しがあった真備町。 そして山陽道をはさんで南北に峻険な山々がそびえる地形は、戦乱の世にあって重要な場所となり、数多くの武将が勢力を競い、あちこちに砦を築きました。
 代表的な猿掛城は1500年前後、あたりに君臨していた庄氏の拠点です。 小田川をはさんでここと向かい合うような鳥ヶ嶽城(とりがだけじょう)は、この猿掛城の出城とも言われており、庄氏全盛期に山陽道をにらんだ重要な城であったことが偲ばれます。
 しかし、成羽を根拠とした三村氏によってこの庄氏も滅び、時代は「備中兵乱」とよばれる混沌の世へと移ります。 最後に猿掛城が戦国史に姿を現すのはあの秀吉の高松城水攻めの時。 対抗する毛利輝元がここに一万の軍勢を率いて陣を敷きました。
江戸時代  −岡田藩と本陣
川辺宿模型  戦乱の世が過ぎた江戸時代、領主として真備に訪れたのは関ヶ原の戦いの際の忠孝が徳川家康に認められた伊東長実でした。 伊東氏は以後代々にわたって備中岡田藩主を務め、仁政を施しました。 家臣もよく藩主を助けて政事に預かりました。 当初は川辺に本陣を築き、水防のため堤防を固めるなど思い切った工事を行いました。 のち藩主は岡田に移りますが、この時の普請が、宿場としての川辺を築いたのです。
 山陽道の渡しの宿として、また高梁川を往く高瀬舟航路の港町として、川辺は世情がおちつくと同時に繁栄していきました。 そこには江戸時代の庶民の躍動がありました。 長く安定した藩政にあったため、この当時の真備町の資料は多く今に伝えられており、ふるさと歴史館にも文書、絵図などが多く展示されています。
初代川辺橋のわたりぞめ披露 明治〜現代  −真備町の成り立ち
 明治4年、政府は廃藩置県の詔書を発し、岡田藩は岡田県に、さらに備中地方の各県が統一され真備町は深津県(のち小田県に改称)内の下道郡に属する十余の各村となりました。< 明治9年には備前、備中、美作の各地域が合併し、昭和27年に真備町が誕生しました。
この間、社会の近代化が急速に進められ、学校や産業振興と、さまざまな建設の槌音が響きます。 こうした中、地域の人々の悲願となったのが高梁川架橋の建設でした。 川辺、清音両村長らを中心とした人々の猛運動の結果、最初の木橋が完成したのが大正8年。 昭和8年には、現在の歩行者橋でもある川辺橋鉄橋が完成しました。 当初幅が広すぎると言われたこの橋も、時代とともに増大する交通量に耐えきれず、現在の川辺新橋が昭和52年に建設されました。

 HOME