アジア古都物語 第1集 路地裏にいきづく皇都 〜中国・北京〜
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問い合わせメモ

■北京について

▽北京は中国古都学会で中国七大古都の中の一つとしてとりあげられている。
※七大古都は北京、西安、洛陽、開封、安陽、南京、杭州の七都で、詳しくは「中国七大古都」(中国青年出版社1991年)をご参照下さい。

■フートンの由来は?

▽中国で出版されている「北京的胡同」には以下のように記されている。
「フートンという言葉の由来には様々な説がある。モンゴル語、満州族の言葉『HUTO』(井戸のあるところ)から来たなど。しかし'胡同'は中国北方で元の時代から使われ始めた言葉だということは共通の認識である」「元の時代、フビライハンが築き上げた皇帝の都'大都'。皇帝の城を中心に整然と築き上げられた都城の中にある胡同=フートンの幅は六歩(およそ9・3メートル)でそれより幅広いのが小街、大街と呼ぶ。明、清代になるとフートンの幅はそれほど厳格なものではなくなった。現在北京に残っている胡同のほとんどは明、清代の物である」

▽胡同=フートンは北京市内を網の目のように走る'庶民の生活の舞台'である。
その道に多い植物の名前やそこにあった役所、市場、職人の名前などに基づいて、様々に名付けられ、その数は1985年現在で1300本を超えていた。(フートンと直接名前がついているもののみを数えている。直接フートンと付かない街、巷などを含めた広義の胡同は6000本を超えるとも)

▽フートンに住んでいる人の統計データはない。都市部の人口は675万人というデータがあり、都市部の人口の生活を支えている場としてコメントした。

▽胡同の骨董市について
 『報国寺市場』・・・報国寺の境内で開かれている自由市場です。
 (北京市内の地図には『報国寺』は載っています。)

■闘コオロギについて

▽闘コオロギの歴史は1000年以上前の唐の時代に始まるという。庶民から宮中、歴代の皇帝も楽しんだ遊び。

▽コオロギ研究の本の名前は「促織経」。南宋の時代に書かれ、世界で最も早く書かれたコオロギ研究の本と言われている。色による特徴や育て方、怪我をした時の治し方、強いコオロギの見極め方などが詳しく書かれている。

▽闘コオロギは明の時代、宣徳年間に最盛期を迎えた。コオロギに熱中した皇帝は優れたコオロギを集めるよう命じ、「コオロギ皇帝」との異名をとったともいわれている。

▽"紫牙紫"(ズーヤーズー)について。山東省寧陽県でとれた紫牙紫はかつて皇帝に献上されていた、と番組に出ていただいたキョウさんは話している。

▽闘コオロギのシーズンは秋。北京だけでなく天津や上海など全国各地にコオロギ協会があり、様々な規模の試合や大会が行われる。9月中旬から11月末頃まで続く。主な形式は7,8人でチームを組み、各々の育てているコオロギを持ち寄って戦わせ、勝敗を争うもの。

■フートンと行商について

▽清朝は北京に入城するとすぐに住み分けを実施した。皇帝の城の周りに構えられた城門の内側、いわゆる内城は満州族及び従属した漢人と蒙古人が住むこととし、武術に専念する事としたため、商業や演芸などの場は城門の外側、いわゆる外城に移された。その結果、内城には外城や郊外の農村から物売りが行商に入り込むようになった。フートンの通りは窓もなく、門扉も閉ざされているため、物売りが呼び声でしらせるようになり、その独特の行商の呼び声は北京情緒の一つとなった。

▽水売り、豆汁売り、スイカ売り、刃物研ぎなど、行商の種類は80種をこえていたという。

■「正乙祠戯楼」について

▽戯楼は文化大革命中はホテルとして使われ、その後ある人が保護して今にいたる。他にもフートンにいくつか昔からの舞台はあったが、最も古いのはこの正乙祠戯楼で、他の舞台は老朽化で取り壊されたり新しい所に引っ越したりした。300年の歴史を持っていて今も残っているのはここだけ。もう一つは湖広会館だが、途中で修復した。

■四合院について

▽中庭を4つの棟で囲む建築様式は四合院と呼ばれ、3000年の歴史を持つといわれている。紀元前10世紀、西周の時代に陝西省で四合院の原型と見られる遺跡が見つかっている。

▽元々は官僚や貴族の住居として作られ、儒教の男女・長幼の区別に従って、前から後ろに向かって空間が分けられ、女性の場には最も後方が割り当てられた。また風水の考え方が反映され、悪気を跳ね返す'照壁'と呼ばれる目隠し壁や中庭の隅に気の流れをよくするための空き地を設けるなどされている。

▽以前は4つの棟に一家族が暮らしていたが、その後別々の家族が一つの敷地に住むようになり、さらには空いた空間に新たに建物を建てるなどし、かつての四合院の佇まいは大きくその姿を変えることになった。

■八旗について

▽八旗は清朝をうちたてた満州族独特の軍事組織。黄、白、紅、藍の四色があり、それぞれ「正」と縁取りのある「ジョウ(金へんに襄」の二種に分かれ、合わせて八旗を構成していた。八旗は皇帝の城、紫禁城を取り囲むように配置されていた。

▽八旗らは皇帝の警護にあたるとともに、様々な文化の担い手となった。鳩に笛をつけて飛ばす習慣、「鳩笛」や八角形の鼓、「八角鼓」を鳴らしながら歌う単弦など、八旗のたしなんだ風習は清朝から続く伝統として受け継がれ、親しまれている。

■愛新覚羅一族について

▽溥任さんは清朝最後の皇帝だった溥儀の弟。溥儀は辛亥革命で中華民国が成立し、清朝が崩壊した後も1924年まで紫禁城に暮らしつづけた。溥儀の弟、溥任さんらは元皇族としての生活を続け、醇親王府(現在の宋慶齢故居)で暮らしていた。1949年、中華人民共和国が成立した後、溥任さんは王府を出てフートンへと移り住んだ。