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日本語ラップのパイオニアに学ぶ~いとうせいこう & TINNIE PUNX『建設的』

連載
サイプレス上野のLEGENDオブ日本語ラップ伝説
公開
2009/12/11   18:00
更新
2010/01/18   08:08
テキスト
文/東京ブロンクス 撮影/かくたみほ 撮影協力/青山 Dining cafe theater

 

希代のエンターテイナーにして、ヒップホップの未来を担うラッパー、サイプレス上野の月刊連載! 日本語ラップへの深~い愛情を持つサイプレス上野と、この分野のオーソリティーとして知られるライター・東京ブロンクスの二人が、日本語ラップについてディープかつユルめのトークを繰り広げます。長らく続いた本連載ですが、なんと今回が最終回! □□□(クチロロ)のメンバーとしても活動しているオリジネイター、いとうせいこう氏を招き、日本語ラップの創成期についてたっぷりとお話を伺ってきました。

 

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建設的_J96

今月の名盤:いとうせいこう & TINNIE PUNX『建設的』 T.E.N.T/ポニーキャニオン(1986)

いとうせいこうとTINNIE PUNX(藤原ヒロシ、高木完)が86年にリリースした日本語ラップの大クラシック。アメリカのヒップホップを意識して作られた、日本で最初のアルバムと言われている。ヤン富田が作曲/編曲で全面参加。ほかにも高橋幸宏、ケラ、大竹まことなど、ヴァラエティー豊かなミュージシャンや文化人が数多くゲスト参加している。(編集部)

 

意識的にヒップホップ・カルチャーをやるんだって気持ちがあった

ブロンクス「2 年以上続いたこの連載もついに感動の最終回ということで、特別ゲストとして日本語ラップのパイオニア、いとうせいこうさんに来ていただきました! 今日は無責任放談というよりも勉強会というノリで、日本語ラップの起源とこれからについて検証して行きたいと思ってます。いとうさんがいちばん最初にラップした時は、何年だったんですか?」

いとう「年数は覚えてないんだけど、放送作家の故・景山民夫さんがTBSで深夜番組を持っていて、そこの1コーナーで〈藤原ヒロシとなんかやってくれ〉って話になって。で、日本語の放送禁止用語を合法的に言うにはどうしたらいいか、みたいなことをやったんだと思う。ヒロシが“Nineteen”っていう曲をミックスして、その上に僕が放送禁止用語を含む日本語を乗せてラップのようなものをやった」

上野「いきなりハードコアっすね、ヤバいなー」

ブロンクス「その頃には、MELONみたいなニューウェイヴ流れの人たちや、〈東京ソイソース*1〉みたいなファンク流れの人たちとか、そういうクラブ・カルチャーを興した人たちもいたと思うんですが、いとうさんが出入りしていた場所はどんな感じだったんですか?」(*1 JAGATARA、MUTE BEATらが出演していたイヴェント

いとう「まだまだクラブ・カルチャーではないね。当時は〈どディスコ〉の時代だったから。あってもピテカン(トロプス・エレクトス*2)くらいじゃない? ほとんど水商売の世界ですよ。僕個人でヒップホップ的なものといえば、恐らくシュガーヒル・ギャングであろうものをFENで聴いていたくらい。若い人たちがクラブ的なものを受け止めて新しいカルチャーを作っていたかというと、なかなかそういうわけではなかった。ピテカンは大人のものだったからスノッブだったし。業界のエッジの立った人たちがみんなピテカンにいたわけ。そこには僕は完全には馴染めない、どこか暴力的なものがあったんだと思うんだよね。でも僕はピテカンでピン芸をやってたから。シティボーイズも、中村有志さんもネタをやってて、その時に客のなかに近田(春夫)さんも、スネークマンショーの伊武(雅刀)さんも、立花ハジメさんもいた。YMO一派的な人たちがいて、そこでたぶん景山さんが僕を拾ったんだよ。講談社に入社したのはその後だね」(*2 原宿にあったクラブ

ブロンクス「ラジカル・ガジベリビンバ・システム*3に参加するようになったのもその頃ですか?」(*3 宮沢章夫、竹中直人らを中心に結成されたお笑い演劇ユニット

いとう「僕が就職してから、2年半くらいしてラジカルができた。僕はほとんどそこに入りたくて会社を辞めちゃうわけだよ。ラジカルの人たちといっしょにクリエイティヴなことをしているのがいちばん楽しいし、二重生活をしていると会社に迷惑がかかっちゃうから。それでラフォーレ原宿でラジカルを旗揚げするわけ。初回の公演では、最後のシーンでヒロシが作ったミックスに乗せて、ラップのような感じの……というか、JB的なラップのやり方でみんなを紹介してた」

ブロンクス「講談社を退社しているということは、すでに〈業界くん物語〉のヴィデオが出ていたんですか?」

いとう「出るか出ないかくらいだね。すごい不思議なことに、講談社が〈お前が作ったんだから、最後までやれ〉って、会社を辞めてるのに本とヴィデオを作らせてもらった。そこには同時に3人のDJがスクラッチ合戦をしている、ヤン(富田)さんプロデュースの“業界こんなもんだラップ”が入ってるわけ。(桑原)茂一さんに相談したら〈じゃあ富ヤンじゃない?〉って紹介してもらった。それでプロデュースをしてもらうことになって」

ブロンクス「当時は日本中からアディダスが消えたっていう話もありますよね」

いとう「その頃は、まだスニーカー屋なんてひとつもないから。みんなで地方営業に行くと、学校指定のスポーツ用品屋を襲撃して、そこにあるアディダスを全部買うみたいなことをやってたよ。骨董通りかな、ヤンさんとヒロシと(高木)完ちゃんと俺かなんかで、紐なしアディダスにジャージ、カンゴールのハットでレストランに入ろうとして断られたことがある(笑)」

ブロンクス「地方営業っていうのは何をされていたんですか?」

いとう「ディスコに行ってたはずなんだよ。とはいえ、ラッパーなんてわからないから、DJの営業に付いていってはやし立てている人だと思われてたんだけど」

上野「DJを紹介する人、みたいな感じですか?」

いとう「そうね。持ちネタもそのくらいしかなかったはずだし。でもね、六本木のどっかだったと思うんだけど……確かジョン・ルーリーが出た時、前座をやったことがある。俺は〈MC SEIKO〉って書いてたジャージを着て。完ちゃんも、ヒロシも、後にシンプリー・レッドに参加する(屋敷)豪太さんもいて。DUB MASTER Xがスクラッチで、ヤンさんが鍵盤かスティール・パンで。持ちネタもないのに4~50分やった」

ブロンクス「いとうさんがメンバーになった□□□(クチロロ)の新作『everyday is a symphony』に収録の“ヒップホップの初期衝動”で歌われてるインクスティック*4っていうのはいつのことですか?」(*4 西麻布にあったライヴハウス

いとう「あれは、富士フイルムかなんかが主催のトンがったイヴェントがあって(笑)。そこになぜかリリースもしてない僕らが呼ばれたんだと思うんだよね。初めて曲も作ったんじゃないかな。ヤンさんがトラックで、DUB MASTER Xが恐らくスクラッチで入って、ヒロシと完ちゃんと俺が3MCで前に出てるって編成だったと思う。たぶんそこでも4~50分は持たせてるはず。リリースされなかった“盗むぜ”って曲があって、〈お前らからパクるけど、それは愛しているからだ〉って、ヒップホップのスピリットを歌った曲で。そのイヴェントの映像を担当してたのが後のディー・ライトのテイ(トウワ)君だったんだよ。おもしろいことに、始まる前に近田さんが〈俺にひとこと言わせろ〉って乱入して。僕らが出る前に10分くらい演説したんだよね。〈いいかお前ら、これから始まることは日本で初めてのことだから聴き逃すな〉って(笑)。それがインクスティックの思い出。裏にある階段で指を鳴らしながら、みんなでラップしたリハが忘れられないんだ」

上野「いまの時代からは信じられない豪華メンツですね」

いとう「一方でDJモンチ田中とかディスコの世界っていうのはちゃんとあって。僕らはそこより文化系寄りで、ディスコの人たちからしたら非常に甘っちょろい存在だったんだよ。当時はソリが合わなかったもん。2年くらい前にDJ YUTAKAさんに会ったけど、会ってなんとなくお互いに握手したのが嬉しかった。〈いっしょになんかやりましょう〉って言われて。よく考えたら、20年間のディスコ一派とサブカル一派の、〈もうここでいいじゃん、素晴らしいヒップホップやろうよ〉って和解とも言えて。YUTAKAさんと俺だったら何ができるだろうってワクワクは、いまあるからね。そういうごちゃごちゃしてるなかで、“業界こんなもんだラップ”が偶然のように生まれ、それが『建設的』になっていった。で、『建設的』になった時にはアディダスをみんな着ているわけだから、意識的にヒップホップ・カルチャーをやるんだって気持ちがあったと思うんだよね」

――『建設的』を出された時には、リスナーの手応えみたいなものはあったんでしょうか?

いとう「全然ない。何枚売れたのかも知らないし、〈ヒップホップってすごいですね〉って話はどこからも出なかった。舞台の音響さんに〈これは、どっから音出てるんですか?〉って言われるくらい(笑)。でも、自分が主催するライヴはあったから、そこに行けばみんなが“東京ブロンクス”を歌ってくれるんだよね。全員が歌詞を知っている初めてのラップが“東京ブロンクス”なんだろうね。マイクを向けるとみんな歌うんだもん」

 

発明がヒップホップ

 

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ブロンクス「今日は88年に出版された〈ULTIMATE DJ HAND BOOK〉を持ってきたんですけど、この時点でジャンルを超えてDJという職業と各々のカルチャーを説明していますよね」

いとう「そういう人たちとの付き合いをネットワークするのが上手かったってことじゃない? 俺もヤンさんもヒロシも、ほとんどクラブに行かないからね。家でレコードを聴いているのが大好きだもん。そういう人たちが実はカルチャーの中心にいたんだよね。意外にそんなもんだと思うよ。クラブにいるとマナーができてきて、それがあたりまえになっちゃう。〈マナーなんてどうでもいいじゃん、もともとヒップホップだろお前ら〉って、俺はいつも思ってたよ。だからヒップホップから離れたということでもあるし」

上野「体育会系みたいなノリが嫌だったということですか?」

いとう「ていうか、〈なんで(クラブに)来なかったの?〉みたいな雰囲気がね。幼稚園児の出席簿じゃないんだから、毎日出るわけじゃねーし。俺の好きな人も全然行かねーじゃんって」

ブロンクス「スチャダラパーがデビューした時っていうのは、どんな感じで見ていたんですか?」

いとう「俺のマネージャーだった吉岡たかしってのがいて、汗かいて一生懸命全国回ってこの本(〈ULTIMATE DJ HANDBOOK〉)作ったんだけど、たかしが主催しているDJコンテストみたいなのがあって、それに完ちゃんとか俺が審査員で出てたんだ。その時に彗星のごとく〈太陽にほえろ!〉のテーマで〈ウイーッス〉って出てきたのがスチャダラだった。一発で〈なんておもしろい奴らだ〉って思ったね。日本語の可能性もヒップホップの可能性も広がったなと」

ブロンクス「その頃いとうさんは、裏声でラヴァーズ・ロックも歌ってましたよね」

いとう「ヤンさんとDUB MASTER Xと俺でイヴェントに出ると、必ずダブの曲を1曲はやってた」

ブロンクス「ダンスホール・レゲエじゃなくて、ラヴァーズ・ロックだった理由は?」

いとう「ダンスホールをやっても、ラップと変わらないと思われちゃう時代でしょ。LKJ(リントン・クウェシ・ジョンソン)が素晴らしかった頃で。イエローマンはいたかもしれないけど、いまみたいなダンスホールではないし。でも俺は、ライヴの時はダンスホール的な乗せ方をしてた。レコードを出す時にも、ヒップホップが片面に入っていると、裏にはラヴァーズを入れてた。もともと、“東京ブロンクス”で〈俺はラッパー、ジャパラパマウス〉って言ってるわけだけど、あれはダンスホール的な名前だからね、俺にとって」

ブロンクス「シャバ・ランクスとイーク・ア・マウスみたいな」

いとう「そうね。ヒップホップで〈なんとかマウス〉っていう人いないもん。俺はレゲエが好きだったということが、そこからもわかるわけよね。あの曲は東京がなくなっちゃうっていう架空の物語なんだよ。その時の音楽体験としては、レゲエとダブが強烈にあって、それでファンクがあって、その上にヒップホップが乗っかってるんだよね。ヒップホップだけを聴いてきた耳じゃないからさ。だから自分がヒップホップ・オンリーの世界に完全に寝返ることはできないよね」

ブロンクス「いま、LAとNYがヒップホップの勢力では大きいと思うんですけど、昔はロンドンも大きかったですよね」

いとう「ロンドンの連中はロンドンの連中で、激しくダブの文化があったと思うよ。ワイルド・バンチ~マッシヴ・アタックの世界がブリストルにはあった。後にトリップ・ホップって言われるけど、彼らにとってはそんなことはどうでもよくて。基本的にダブ上がりの連中だっていう自覚があったはず。だから〈ロンドンやNY はそう来るか、じゃあ東京はこれだ〉みたいなさ。そういう気持ちがあったもん」

ブロンクス「YOU(THE ROCK★)さんが、いとうさんたちの世代がどんどんラップをしなくなった時期に〈夢中にさせておいて、この気持ちをどうしてくれるんだ〉って言ってたんです。そういう声は当時はなかったんですか?」

いとう「それは〈YOU自身がやってくしかないんじゃないか〉と思ってたし、のちのちBボーイ風の人がたくさん出て来たことに対して、〈俺が好きなヒップホップじゃなくなってんじゃん〉って思ってた。黒人のふりをしている日本人が増えてきたでしょ。俺のヒップホップってそういうのじゃないから。ヒップホップのアイデアを使ってこういう編集をしようとか、ヒップホップとインターネットがいっしょになったらこういう機会があるんじゃないかって一人でやってたし。型通りのものだったら、本気で型をやってる古典芸能のほうがおもしろいじゃんと思って、古典芸能を習ってもう十何年経つし。ただ、最近また俺が好きなヒップホップにもエリアができてきたんだよね。あんまりにもみんなが同じ方向に偏っちゃったんで、そこからはぐれた連中が、スペースを作っていったわけだ。それこそサイプレス(上野)とかが。92年くらいはその余地さえなかった。でも俺にとって格好いいヒップホップってこういうもんだから。俺は格好いいことしかできないよ、もう」

ブロンクス「確かにいまって飽和状態で、時代が上ちょ(サイプレス上野)やS.L.A.C.K.とか鎮座DOPENESSみたいなオルタナティヴな存在を必要としてるような雰囲気がありますね。そうそう、上ちょが初めて聴いたいとうさんの音源はなんだったの?」

上野「『MESS/AGE』ですね。街のCD屋にあって。それまで雑誌で見てたから知ってて。そこから『建設的』のCDを見つけて即買って、みたいな」

ブロンクス「『MESS/AGE』は、韻辞典が付いてるのにビビったよね。ヒップホップに熱中しているいまの若い子たちを見て、いとうさんがやろうとしていることってなんですか?」

いとう「僕はポエトリー・リーディングってわかりやすく言ってるけど、ほんとは演説してるつもりなわけ。演説って、明治維新からこっち、いろんな人たちがやってるわけで。〈婦人に参政権を与えろ〉とかさ、〈全国民が等しく参政権を持つべきだ〉とか。アフロ・アメリカンがやってきたことを日本でもやっているんだよ、明治/大正期に。全共闘時代にはたくさんの学生が演説し、三島由紀夫は右翼の立場から演説し、国会でいろんな人がいろんな演説をし……って、そのしっぽに 80年代ヒップホップが乗っかっていただけだって認識が俺にはあるから。ヒップホップだけ聴いている人には、まったく負ける気がしない。聴こえるものが違うんだと思う。僕には意味が聴こえるから。意味のないラップに俺は興味を持てないし、心が動かない。政治的なポエトリー・リーディングとか歌とか、“ヒップホップの初期衝動”とか。どうやって聴いた人に意味を届けるのか、聴いた人の脳のなかに俺が伝えたい色とか形とかがどうやったら届くだろうかって。もちろん全部はできてないですよ。ただ、そういう気持ちでやっているからさ。〈あれ、こっちにもなんかヒップホップっぽいものがある〉とか、その〈気付き〉がヒップホップなんでしょ。宇多丸にも言ったことだけど、発明がヒップホップじゃん。だから、インクスティックで指を鳴らすだけでリハになることに感動したんだよ」

 

ヒップホップの素晴らしさは現場主義にあり

 

ブロンクス「今度、ジブさん(ZEEBRA)と高木完さんのイヴェント〈HARDCORE FLASH〉にDUB MASTER Xさんとのコンビで出演しますが*5、いとうさんがBボーイに見せたいものっていうのは……」(*5 11月26日(木)に渋谷Nutsにて開催。いとうは“噂だけの世紀末”“ヒップホップの初期衝動”“東京ブロンクス”の3曲を披露した

いとう「B ボーイに見せたいわけじゃなくて、客に見せたいだけ。来た人に、俺の思っている格好いい音楽と、格好いい言葉はこういうものだっていうのを聴かせるだけだから、それが誰であろうと。そこにおじいさんがいたからおじいさんに聴かせないってわけにはいかないでしょ。そんな奴は表現する必要がない。仲間内でやるだけだったら世界に通用しないじゃん」

ブロンクス「ということは、もちろん客全員がBボーイでも……?」

いとう「もちろん。こないだ近畿大学でDJ BAKUとやってきたけど、前列が全員不良だった(笑)。嬉しかったからノリノリにさせてやったよ。俺も(須永)辰緒たちの前でそれをやってたわけだからね。むしろそのほうが本当は嬉しいよ、不良が純粋な目で一生懸命こっちを見ている時の可愛さったらないもん。でも、不良たちだけに聴かせるつもりはなくて。まったく俺を知らない女子学生もいたけど、その子たちに俺とBAKUがやっていることの凄さをどう伝えようって考えるよね。BAKUは凄くいいインプロヴィゼーションをするんだよ。〈俺がやりたいことをなんでわかるの〉って思う。〈ここで入るぞ〉って時に〈ドーン〉って入ってくるもんね、打ち合わせがなくても」

ブロンクス「上ちょもBボーイと関係ないところでやることが多いよね」

上野「話を聞いてて、相当影響受けてんなーって再認識しました。いま、団地のクリスマス会のオファーが来てて(笑)。それどうやってライヴやろうって考えたりしてるんです。俺はクラブに行くことが多いけど、そこでやってるライヴをそのまま歌っても通用しないんじゃないかなって思ってるから、歌詞にはクラブの雰囲気をあまり出していない。いとうさんの考えが、俺まで脈々と続いているんだなって感じます」

いとう「クラブもおもしろいんだけど、できたら早く帰って今日買ったCDを聴こうとか、そういうことじゃないの(笑)。別の世界にもっと格好いいものがあったらどうしようみたいなさ(笑)」

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――上野さんは本当にいろんなところに出てますもんね。(代官山)UNITでワンマン・ライヴをやっているのに、この間は50人くらいのお客さんの前で、フロアに置いた機材の箱に乗ってラップしてたし(笑)。

上野「オファーが来たらやるしかないですからね」

いとう「俺もNIGOのパーティーで、ちょっと背丈が足りないから箱置いてくれって言ったら、〈ターンテーブルの入れ物なんで〉って断られたよ(笑)。やっぱり、ヒップホップの素晴らしさは臨機応変ってことだよね。現場処理だよ。俺が大好きな言葉」

上野「その場でできることを探してやるってことですよね」

いとう「針が飛んだら、飛んだだけ実力が問われるでしょ。飛んだら嬉しいもん(笑)」

上野「それはわかります。〈そのスリルがたまんない〉って俺もラップしてますし」

いとう「それがチームワークだよね」

ブロンクス「その気持ちは現場を離れていても変わらないですか?」

いとう「ライヴを久しぶりにやるようになってまた針が飛ぶけど、問題なく普通にやれてる自分がいるからね。その運動神経は変わってない。〈sonarsound tokyo〉っていうイヴェントに出た時に、DOOPEESの大野(由美子)さん、小山田(圭吾)君といっしょに参加してナイーヴスの曲をやったんだけど、直前にヤンさんが〈みんな集まって〉って言って。普通だったらそこで、〈3曲目の12小節目から~〉みたいなことになるじゃん。でもヤンさんの指示は〈相手の音をよく聴いて誠実に対応して下さい。以上〉だった。それがヒップホップなんだなって思ったよ。針が飛んだってことに対して誠実に対応する。だから、何年やってなかろうが関係ないんだよね」

ブロンクス「今後はリリースの予定ってあるんですか?」

いとう「□□□ でだね。あと、DUB FLOWERってバンドもやってるから。で、□□□はヒップホップって限る必要はないんだけど、〈これがイノヴェーションなんじゃないの?〉って、確信を持って更新する音楽を作っていこうと思う。ヒップホップのみのアルバムを作るつもりはまったくないよ。だって、自分がやっているイノヴェーション自体がヒップホップだと思っているから。日本の人って、茶道とか華道とか武道とかみたいに、すぐ〈道〉になっちゃうでしょ。道なんかどうでもいいんじゃない? 人が歩くから道になるわけで。そういう意味では逆風が吹くなかだろうがやらざるを得ないよね」

上野「ミスを楽しむっていうか、それが逆に力試しになるんですよね」

いとう「そうそう。逆風が自分を凧みたいに上に上げてくれることをイメージすると、今日すごいテクニック生まれちゃったなんてこともあるしね。想像外のことが起きるからね。それは現場主義だよね」

――失敗してビビッたりはしないんですか?

サ上_4いとう「ちゃんとできるかなと思ったりするけど、出た音に対して誠実に対応するだけだから。〈こういう音が鳴ってるから、口でスクラッチしちゃおう〉とか、なんとかなるんだよね」

上野「俺の相方のDJが本当に不誠実な奴なんです(笑)。この間のライヴで、DJがミックスをして音を出す4つ打ちの曲をやった時に思いっきりズレてて。それを誠実にやってくれればいいんですけど。その時ばかりはさすがに〈それ、お前の悪いところだ〉って説教しときました(笑)」

ブロンクス「最終回を迎えるにあたって、上ちょがこの先どこに向かっていくのか凄い良いアドバイスだよね」

上野「話を聞かせてもらって、俺自身がいとうさんから受けた影響のデカさもわかったし、さらに下の世代に伝えていくのが役目だなと思って」

いとう「俺もさらに進化してくからね、これから」

ブロンクス「ヒップホップはスタイルではなくて方法論でスピリットなんだっていうことっすね。パイオニアならではの発言続出で、本当に勉強になりました」

いとう「ヤンさんだって、なんにも話さないけど、そういうことをやってるからね」

上野「いろんな先輩方がいるなかで、こういう話を聞けるのはデカいですよ。ためになりました。手に汗握る勉強会って感じで(笑)」

いとう「何がヒップホップかはわかったでしょ」

上野&ブロンクス「あざっす!!」

 

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