【箱根駅伝トリビア】「正月の風物詩」背景にメディアの挑戦

笹川スポーツ財団
チーム・協会
2024年1月2日・3日。お正月の風物詩となった箱根駅伝が、遂に「100回」を迎えます。これまでに多くの選手が世界に飛び立ちました。しかし、長年根元から「ささえた」方々が存在したからこそ、100回を数えるのです。箱根駅伝の”裏側”を辿り、100回の歴史を【箱根駅伝トリビア】として振り返ります。

本文:佐野 慎輔(笹川スポーツ財団 理事/尚美学園大学スポーツマネジメント学部 教授)
※2023年12月に、笹川スポーツ財団・公式ウェブサイトに掲載されたコラムの一部内容です。

1987年・第63回大会。選手と報道車。初めて箱根駅伝が生中継された。 【写真:日刊スポーツ/アフロ】

ラジオからテレビへ

1920年に始まった箱根駅伝。今でこそ視聴率30%前後を記録する、まさに正月の風物詩となったが、箱根を変えたのはメディアだった。

1953年、NHK第一放送による箱根のラジオ中継が始まる。ラジオ局からの要請もあり、大会日程は1月2日・3日に固定された。これが、飛躍のきっかけでもある。ここから次第に人々に浸透していく。

日本におけるテレビ放送の始まりはこの1953年でNHKテレビと日本テレビが開局したが、「箱根駅伝」のテレビ放映は1979年・第55回大会まで待たねばならなかった。箱根山中の電波事情が悪く、周囲の連山に電波が届きづらかったためである。

ようやく1979年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)が正月の特別番組として大手町のゴールシーンを中心に放映、翌80年以降は最終10区を生中継しハイライトシーンをダイジェストとして組み入れた番組を創った。そして1983年・第59回大会では2桁視聴率を叩きだすまでに至っている。

生中継が始まったのは1987年。人間ドラマを映す―

日本テレビが箱根の生中継に乗り出したのは遅れて1987年第63回大会からである。

背景には生中継で走る事にかける選手たちの真の姿を見て欲しいという関東学連の意向があったとされる。

箱根山中から生中継するためには電波をおくる中継基地(電波塔)を設置する必要があり、さらに中継車やカメラ、何よりスタッフの大量動員が不可欠となる。NHKに要請したが断られ、箱根駅伝のテレビ放映を続けてきた東京12チャンネルから名称変更したテレビ東京も残念ながら後発局で規模が小さく、系列局も限られスタッフ動員も難しかった。一方で日本テレビは規模が大きく系列局も全国にいきわたる。何より後援する読売新聞社とは兄弟関係にあり、協力も得やすい状況にあった。

しかし日本テレビ内部には当初、反対論が根強かったという。箱根駅伝は関東学連主催の関東ローカルの大会に過ぎず、果たして長時間にわたって全国中継して視聴者がいるのか、関東の学生の大会にスポンサーがつくのか、何より技術的に可能なのか、今の盛況ぶりからは想像できないが、当時の意識としてはそんなものであったろう。

実現に奔走したのはチーフプロデューサーの坂田信久(後のヴェルディ川崎社長、国士舘大学教授)であり、坂田の意をうけて総合ディレクターを務めた田中晃(現・WOWWOW代表取締役 社長執行役員)らスタッフである。坂田は箱根に人間ドラマを見、「中継時間が長いから、そうした人間ドラマが入れやすい」と考えていたと語る。

実際、襷をつなぐ“儀式”もさることながら、1人の走者が仲間や母校の栄誉をかけて20㎞以上を走る。都会から海沿いの道路、山道と変化にとんだコースはその日の気象条件や体調に左右されて思わぬ展開を生む。さらに花の2区と言われるエース対決に「山の神」を生み出す5区と山下りの6区、2日間にわたるレースはそれだけで見るものを引き込む。そして優勝争いとともに激しく争うシード権というルール。テレビ番組が期待するドラマが満載だった。加えて坂田は全国的に名の知られた伝統校が多く、全国から選手たちが集っている状況も把握し、家族そろって楽しむ事が可能なイベントになると確信していたという。

電波事情はNTTの協力によってNTT二子山無線中継所が使用できるようになり、さらに平塚市と大磯町のあいだにある湘南平にも中継基地を設け、34カ所の中継ポイントを設置して克服。700人規模のスタッフを動員、移動中継車を含む16台の中継車両にヘリコプター2機、クレーンカメラなど空前絶後と言われた取材体制を敷いて実現にこぎつけた。

1987年第63回大会。順天堂大学が2連覇を果たした。 【写真:フォート・キシモト】

箱根駅伝人気のターニングポイント、生中継という挑戦

思えば、この生中継という挑戦が今日の箱根駅伝人気のターニングポイント、今風に言えばゲームチェンジャーではなかったか。

1960年代に話題を集めた箱根駅伝もこの時代は高度経済成長の余波を被り、娯楽の多様化の中で埋没しかけていた。日本のモータリゼーションが進み、交通事情の悪化から管轄の警視庁、神奈川県警が大会規模の縮小やコース変更を要請、大会の中止すら俎上に上る事態とすらなっていた。主幹の関東学連はまさにテレビに活路を求めたのである。『箱根駅伝「今昔物語」』では第63回大会時の関東学連会長としてテレビ生中継を推進し大会のスターターを務めた釜本文男がこう述べている。

「箱根駅伝の中身っていうものは、出発したところからもう歴史、文化がいっぱい詰まっていますからね。これは絶対なくならんと思っています。ただ、社会のいろんな行事はすべて、テレビを利用しない限りにおいては発達しないんです」

先見の明というより、最後の手段としてのテレビ活用が「箱根駅伝」を救ったと言い換えてもいいのかもしれない。そのテレビ番組を“創った”日本テレビOBの坂田とは郷里の後輩ということもあり、様々な場面で教えを乞うてきた。その坂田がテレビと箱根駅伝のあり方として聞かせてくれた言葉は心に重く響いた。

「テレビが箱根駅伝を変えてはいけないということを忘れないでほしい。時代が変われば変わるほど、変わらない箱根駅伝の価値はより高まっていくものです」

坂田の言葉はさまざまな「箱根駅伝本」にとりあげられ、『箱根駅伝「今昔物語」』にも「箱根駅伝生中継、始まりの日」として記載されている。
  • 前へ
  • 1
  • 次へ

1/1ページ

著者プロフィール

笹川スポーツ財団は、「スポーツ・フォー・エブリワン」を推進するスポーツ専門のシンクタンクです。スポーツに関する研究調査、データの収集・分析・発信や、国・自治体のスポーツ政策に対する提言策定を行い、「誰でも・どこでも・いつまでも」スポーツに親しむことができる社会づくりを目指しています。

新着記事

編集部ピックアップ

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着コラム

コラム一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント