消滅する近鉄のホーム最終戦。松坂と中村は抱き合い、選手は号泣した (3ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Sankei Visual

【すべての背番号が近鉄バファローズの永久欠番】

「みんな、胸を張ってプレーしろ。おまえたちがつけている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」

 試合前に梨田から聞いたこの言葉を、礒部は今でも覚えている。

「試合前に選手を集めて、オーナーや球団社長が話をしたんですが、素直に聞けなかったというのが正直なところ。でも、最後に梨田さんの言葉を聞いて、選手はみんな、『よし!』と思ったんじゃないですか」

 この日は完全ノーサインで試合を進めた。梨田の仕事は、選手を笑顔で見つめることだった。

「ピッチャー交代のたびにマウンドに行って、ボールを渡しましたよ。星野がヒットを打った瞬間『よかったな』と思った。最後のホームゲームだから胴上げされるつもりで待ってたのに、みんなが盛り上がって、それどころじゃない。誰も胴上げしてくれんのかと、ちょっとがっかりした(笑)」

 梨田はこの2日後、オリックスとのシーズン最終戦のあと、神戸で5度、宙を舞っている。

【近鉄は奇跡を起こすチームだった】

 近鉄の選手たちはもちろん、ホーム最終戦での梨田の胴上げを計画していたが、星野のサヨナラヒットで吹き飛んだ。

 礒部が言う。

「この試合の前に、梨田監督を胴上げしようとみんなで相談していたんですけど、星野さんのサヨナラヒットが出て、セレモニーが始まって、集合写真を撮ってという流れになってしまって......西武の選手たちも最後までセレモニーに付き合ってくれて、みんなと握手して、抱き合いました」

 梨田はこの日、こんなコメントを残した。

「近鉄は奇跡を起こすチームだった。いい選手、コーチ、裏方さんに恵まれてきた。みんなに支えられて、感謝しかない。チームはバラバラになっても、今日の気持ちを忘れずに、それぞれの野球人生を歩んでほしい」

 2リーグ制になった1950年、パ・リーグに加わった近鉄は55年間、優勝を目指して戦った。

 1950年から4年連続で最下位。その後も"お荷物球団"と言われるほど弱く、勝率3割を切る年もあった(1952年は勝率2割7分8厘、1958年は勝率2割3分8厘、1961年は勝率2割6分1厘)。

 西本が監督に就任するまでの24年間で、14回も最下位を経験している。初めてAクラスに入ったのは1969年(勝率5割8分9厘)。初めてリーグ優勝したのは1979年と、当時の12球団の中で最も遅かった。

 1979年以降の26年間でリーグ優勝は4回。鈴木啓示、阿波野秀幸、野茂英雄、岩隈というリーグを代表するエースがいた。大石大二郎、小川亨、羽田耕一、栗橋茂、中村紀洋、鈴木貴久、タフィ・ローズなど個性のあるバッターもたくさんいた。西本、仰木彬、梨田という優勝監督も、4度敗れた日本シリーズも......。2004年、すべてが「過去のチームの歴史」になった。

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