追悼・上田利治──。現役わずか3年も、情熱で歩んだ「名将ロード」 (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 その翌年もリーグ制覇を果たしたが、日本シリーズでまたしても巨人に敗れた。さらに、前後期制となった1973年はプレーオフで南海に敗れ、この直後、西本が監督を辞し、上田監督誕生となった。

 実はこのときも、いくつかの「もし......」が絡んでいた。当時の球団代表から上田は、「西本くんが辞めることになった。球団も、西本くんもキミを推薦しているから監督を受けてくれないか」と依頼を受けた。しかし上田は、まだ力不足を感じており、一旦断りを入れた。するとその日の夜、西本が上田の自宅に来て「自分も球団に残ってアドバイスする。だから思う存分やってくれ」と説得。そして翌日、上田は監督要請を正式に受諾した。

 ところが、36歳の青年監督誕生という話題は、あっという間に霞(かす)んでしまう。数日後、西本が近鉄の監督に就任したからだ。上田は「まさか」と西本に連絡をとり「話が違うじゃないですか!」と迫ったが、西本は「申し訳ない。ただ、オレぐらいの歳になったらこの気持ちもわかってくれるだろう」と返すのみだった。

「西本さんが球団を離れるとわかっていたら、(監督は)引き受けていなかった」と上田は話したが、同時にこうも語った。

「あのとき西本さんはまだ53歳。気力も体力もあるときに、もうひとつ大きな仕事をせなあかんという使命感があったんでしょう。球団(フロント)に残って......という話はあったとしても、西本さんはそういうところでやれる人じゃない。まだまだ羽ばたきたかったんでしょう」

 それからは、ともに関西に拠点を置く鉄道会社のライバル球団の監督として戦った。

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