このまちアーカイブス INDEX

「松下」の移転、学校の誘致

「松下電器」(現「パナソニック」)は、現在の門真市に拠点を移し、世界的企業へと成長を遂げる。学校の進出も相次ぎ、「大阪歯科医学専門学校」(現「大阪歯科大学」)と「大阪女子高等医学専門学校」(現「関西医科大学」)が、牧野村(現・枚方市)に新校舎を建設した。


1933(昭和8)年、門真に移転した「松下電器」本店 MAP __

「松下電器」(現「パナソニック」)は、1933(昭和8)年、門真地区に新本店・新工場を建設し、事業の本拠を大阪市から移した。門真進出にあたり、松下幸之助は「松下電器は今躍進か崩壊かの分岐点に立っている。新しい工場を生かすのは人である」と説き、全員を奮起させた。この「第三次本店」以降、現在に至るまで、本社は門真市に置かれている。【画像は1933(昭和8)年頃】

現在は「松下幸之助歴史館」が同じ場所に位置する。「第三次本店」の姿・デザインが忠実に再現されている。


『経営の神様』松下幸之助

松下幸之助

松下幸之助
【画像は1929(昭和4)年】

「パナソニック」を一代で築き上げた『経営の神様』松下幸之助。「PHP研究所」や「松下政経塾」を創設するなど、生涯をかけて「より良いくらし、より良い社会」を追い求め続けたことでも知られる。

幸之助は、1894(明治27)年、和歌山県和佐村(現・和歌山市)に生まれた。実家は貧しく、9歳のときに丁稚奉公に出される。奉公先の得意先回りで市電の姿を見て感動、電気に興味を抱き15歳で「大阪電灯」(現「関西電力」)に入社した。

1917(大正6)年に「大阪電灯」を退職し、電球ソケットの製造販売に着手。事業が軌道に乗った翌年、大阪・大開町で「松下電気器具製作所」を設立した。1922(大正11)年には、本店と工場を建設、1931(昭和6)年から、ラジオの製造を開始するなど事業を拡大していったが、1932(昭和7)年、「産業人の使命は貧乏の克服である」との事業観に思い至り、社員にこれを「松下電器」の真の使命として発表し、新たな発展段階へと入った。翌年、門真地区に新本店、新工場を建設し、1935(昭和10)年には「松下電器産業株式会社」に改組した。門真への進出は成功し「松下電器」は、この地を拠点として世界的企業へと成長を遂げる。

松下幸之助旧宅。門真の新本店に隣接し、数年間住んでいた。

松下幸之助旧宅。門真の新本店に隣接し、数年間住んでいた。

幸之助は、1946(昭和21)年「PHP研究所」を創設、1980(昭和55)年には、21世紀の日本を導く指導者を育てるために私財を投じ「松下政経塾」を開塾。事業経営のみならず、「社会との調和」に心を傾け続けた生涯であった。


「大阪歯科医学専門学校」が牧野村に移転 MAP __

1911(明治44)年、藤原市太郎によって「大阪歯科医学校」が創設、翌年開校した。1917(大正6)年に「大阪歯科医学専門学校」となり、1929(昭和4)年「牧野学舎」が竣工した(写真)。戦後、「大阪歯科大学」となり、1997(平成9)年に同じ枚方市内に「楠葉新学舎」を建設した。【画像は1929(昭和4)年頃】

2021(令和3)年に、創立110周年を迎えた。「博愛」と「公益」の建学の精神は世紀を超えて受け継がれている。写真は現在の「大阪歯科大学 牧野キャンパス」。

「関西医科大学」の前身「大阪女子高等医学専門学校」

「関西医科大学」の前身である「大阪女子高等医学専門学校」は、1928(昭和3)年、西日本で最初の女子医育機関として牧野に開校した。写真は当時の正門の様子。1932(昭和7)年には「附属病院」を開設、戦後は「附属香里病院」「附属牧野病院」も設けられた。1949(昭和24)年に「大阪女子医科大学」となり、1954(昭和29)年に共学制を実施、「関西医科大学」となった。【画像は1928(昭和3)年頃】

創立の地、枚方市宇山東町にある、現在の「牧野キャンパス」。 MAP __

枚方キャンパス」を空撮したもの。「淀川」を背景に、右手前に枚方学舎医学部棟、中央が附属病院、左奥が看護学部棟。 MAP __


次のページ 団地の建設


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る