戦国大名・今川氏の居館「今川館」を探究する~徳川家康が築いた「駿府城」跡の発掘調査成果を中心に~

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概要

徳川家康は駿府(静岡県静岡市)と縁が深く、その生涯で3度、駿府を生活の拠点とした。
最初は、1549年(天文18年)から1560年(永禄3年)まで、今川義元(よしもと)の人質として今川館(いまがわやかた)の周辺に居住していた。
次いで、1585年(天正13年)に5か国支配の拠点として駿府城を築城し始め、翌1586年(天正14年)から1590年(天正18年)まで駿府城を居城とした。
そして、1605年(慶長10年)に将軍職を徳川秀忠に譲った徳川家康が、1607年(慶長12年)、二度目となる駿府城の築城を行い、1616年(元和2年)に没するまで駿府城で過ごした。




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徳川家康の駿府城は、1568年(天文5年)に武田信玄の侵攻で今川館一帯が焼失した跡地に、1585年(天正13年)から築城されている。
そのため、今川館は現在、地上から完全に消滅しており、その位置や規模、形態などは不明である。
そこで、本稿では戦国大名・今川氏の居館である今川館の所在地や規模、形態などについて、駿府城の発掘調査成果を中心に探究を試みる。

戦国大名・今川氏と「今川館」

今川館は1411年(応永18年)、今川範政(のりまさ:1364年~1433年)が駿府(静岡県静岡市)に館を設けて以来、7代にわたって今川氏の居館であった。
今川氏は今川氏親(うじちか:1471年~1526年)のとき、駿河国守護から戦国大名に成長して駿河・遠江(静岡県)を領国とした。
その後、今川義元(1519年~1560年)のときには、三河や尾張(愛知県)の一部にまで領土を拡大し、今川氏は最盛期を迎えた。
1560年(永禄3年)5月、今川義元は大軍を率いて尾張(愛知県)に侵攻したが、桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長に討たれた。
その跡を継いだ今川氏真(うじざね:1538年~1615年)は徳川家康ら有力武将から離反され、その勢力は一気に衰退した。

1568年(永禄11年)、甲斐(山梨県)の武田信玄の駿河侵攻によって今川館一帯を含む駿府の街は焦土と化し、駿河は武田氏の領国となった。
そして、武田氏滅亡後に駿河を領した徳川家康が1585年(天正13年)から駿府城の築城を始めたことで、今川館の位置や規模、形態などの手がかりが地上から完全に消滅したのである。

今川館の位置については、これまで安倍川の流れや鎌倉街道との位置関係、町域にのこる伝承などを基に様々な推定がなされている。
安倍川が藁科(わらしな)川と合流した時期によって今川館の位置も異なり、市街地のうち屋形町より西の研屋(とぎや)・茶・上桶屋・土太夫(どだゆう)・柚木(ゆずのき)などにのこる伝承も今川館の位置を確定する根拠になると考えられている。
また、『言継卿(ときつぐきょう)記』には報土寺(ほうどじ)裏の境に、今川館に関する記述がみられ、柚木町と旧安西の境には土塁と考えられる堤がのこるという。

今川館の規模については、これまでの研究成果から東西約1km、南北約500mの範囲で、今川氏当主やその一族の館を中核として重臣たちの館が設けられ、その周辺に家臣の屋敷が散在していたという。
例えば、今川義元の時期には、駿府城の二の丸付近に飯尾(いのお)屋敷、鷹匠(たかしょう)町一丁目付近に孕石主水(はらみいしもんど)・松平竹千代(徳川家康)・北条氏規(うじのり)らの屋敷があったという。

発掘調査の成果から

1982年(昭和57年)から1983年(昭和58年)にかけて、静岡県立美術館建設の予定地であった二の丸の西北部で発掘調査が行われた。
その発掘調査により戦国時代の溝や暗渠(あんきょ)、柱穴(ちゅうけつ)、池、井戸などの遺構が多数発見された。
遺物は多くの国内産と中国産の陶磁器をはじめ、土器、漆器(しっき)、古銭、金細工などの遺物が出土している。
国内産の陶磁器は、瀬戸の鉄釉瓶(てつゆうびん)・茶入など、常滑(とこなめ)焼の大甕、美濃焼の天目(てんもく)茶碗など、多くの種類のものが出土している。
中国産の陶磁器は、青磁(せいじ)、白磁(はくじ)、染付(そめつけ)が出土しており、それらの年代は14世紀のものがわずかにあるものの、大半は15世紀から16世紀のものであるという。
以上の遺構や遺物の状況から、今川館の中心部とは考えられず、「泉殿(いずみどの)」と呼ばれる方形の建物を含む庭園、あるいは今川一族か重臣の館が推定されている。

次いで、駿府城跡では2016年(平成28年)8月から2020年(令和2年)3月まで天守台の発掘調査が行われた。
その過程で、2019年度(平成31・令和元年度)には、天正期(1573年~1592年)天守台の内側に、部分的に10箇所の調査区(トレンチ)を設定した発掘調査が行われた。
その結果、天正期天守台を整地した土の下から、溝状遺構6本と柱穴2基のほか、広範囲にわたって広がる落ち込み遺構や焼土面などが確認されており、その概要は以下のとおりである。
【溝状遺構】
溝状遺構は6本が確認されているが、天正期天守台範囲の中央より西側に東西に設定した調査区(トレンチ)で確認された溝状遺構(SD01)が特筆される。
その溝状遺構は、断面がⅤ字状を呈する薬研堀(やけんほり)で、洪水などの自然災害で埋まったものを2回にわたり改修したことが確認されている。
【落ち込み遺構】
落ち込み遺構(SX01)は南北36m、東西26m以上に広がることが確認されている。
遺構の年代は15世紀後半の常滑(とこなめ)産の甕(かめ)や15世紀後半から16世紀前半の「かわらけ」などが出土していることから、15世紀後半から16世紀前半と考えられている。
遺構の性格については、水分を含んだ土が堆積していることや、木片などの有機物質が多く出土していることなどから、池状遺構の可能性が高いと考えらえているが、詳細は今後の検討が必要であるという。
【焼土面】
焼土は調査区(トレンチ)や落ち込み遺構(SX01)の埋土上層で面として確認されている。
これらの焼土面は天正期天守台の整地に伴うものと、今川氏時代の最終時期に関係するものと整理されている。
今川氏時代の焼土面については、今川氏時代の出土遺物に熱を受けた痕が残る陶磁器や茶臼(ちゃうす)が多くあることからも、この発掘調査地点周辺で何らかの火災があった可能性が指摘されている。




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今川氏時代の遺物としては、上記の遺構から出土したもののほかに、天正期天守台の石垣の裏込め石や整地した土の中からも出土している。
具体的には14世紀代の長頸瓶(ちょうけいへい)や酒海壺(さかうみつぼ)、水盤、大皿などの青磁(せいじ)をはじめとして、釉裏紅(ゆうりこう)の小型長頸瓶、染付酒海壺などの中国から輸入された高級陶磁器、そして茶臼(ちゃうす)などである。
これらの遺物は守護大名・戦国大名として駿河・遠江(静岡県)に勢力を誇った今川氏にふさわしいものである。

また、鉄滓(てっさい)や羽口(はぐち)などの鍛冶(かじ)・鋳造(ちゅうぞう)関連の遺物も出土している。
これらの出土遺物から、今川氏時代の最終段階あるいは天正期に、調査区周辺において鉄素材を加工する作業(小鍛冶)が行われていた可能性が考えられている。

以上の発掘調査成果から、今回の発掘調査地点及びその周辺に今川氏の当主やその家族、重臣たちの屋敷が集まった場所(今川館)が存在した可能性が指摘されている。
ただし、この発掘調査では屋敷の規模や建物の構造などを考えることができる遺構は発見されておらす、今川館の詳細を解明するには至っていない。

今川館の解明に向けて

令和5年2月4日(土)、静岡市歴史博物館グランドオープンを記念してシンポジウム「今川館の姿にせまる」が開催された。
シンポジウムでは、文献史・考古学・都市史の研究者による3本の講演とパネルディスカッションが行われた。
講演及びパネルディスカッションの「タイトル」(登壇者/分野)は以下のとおりである。
講演1「駿府における今川氏・家臣たちの日常」(小和田哲男 氏/日本中世史)
講演2「戦国大名の町づくり~駿府の構造と特徴~」(仁木 宏 氏/日本中世近世都市史)
講演3「戦国大名の館と陶磁器について」(小野 正敏 氏/中世考古学)
パネルディスカッション「出土品・遺構からみた今川館」(小和田哲男氏、仁木宏氏、小野正敏氏、河合修氏ほか)

このシンポジウムでは、今川館の所在地や構造などについて、文献史・考古学・都市史の各分野における最新の研究成果が紹介され、駿府城跡周辺の発掘調査など今後の調査の方向性が示されている。
なお、シンポジウムの資料は、下記からダウンロードができる。
シンポジウム「今川館の姿にせまる」(令和5年2月4日開催)資料集

駿府城跡では、2016年(平成28年)8月から2020年(令和2年)3月まで天守台跡の発掘調査が行われ、2022年(令和4年)3月にはその成果をまとめた報告書が刊行されている。
今後、天守台以外の駿府城跡や城下町などで発掘調査が行われ、そこで得られた新しい知見を基にした総合的な研究が進展することを期待したい。




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<主な参考文献・資料>
静岡県教育委員会 1983年『静岡県文化財調査報告書第27集 駿府城跡内埋蔵文化財発掘調査報告書』
静岡市教育委員会 2022年『静岡市埋蔵文化財調査報告 駿府城本丸・天守台跡』
西ヶ谷 恭弘 1994年『戦国の城 目で見る築城と戦略の全貌〈下〉中部・東北編』学習研究社
西ヶ谷 恭弘 1999年『国別 戦国大名城郭事典』東京堂出版
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社
駿府城跡・駿府城跡天守台発掘調査:静岡市

(寄稿)勝武@相模

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