『あつまれ どうぶつの森』の拡張可能性と、パンデミックで見落としていた問い

『あつ森』の拡張可能性を考える

 8月も後半に差し掛かり、2020年ももう3分の2が終わろうとしている。

 先日、任天堂から2020年度第一四半期(4~6月)の決算情報が公開されたが、これを見て驚いたゲームファンの方も多いだろう。Nintendo Switch用ソフト『あつまれ どうぶつの森』の累計出荷数が、日本歴代1位(715万本)を記録していたのだ。

 これだけ娯楽が多様化した時代で、一つの作品がこれほど多くの人に選ばれる事実に、筆者は感動を覚えると同時に、ちょっとした懐疑心までも抱いていた。「信じられない」という感想がまさにピッタリだ。これまでは30年以上前にファミコンで発売された『スーパーマリオブラザーズ』の681万本が首位で、この記録が塗り替えられることはもうないと思っていただけに、衝撃だったし、(製作に携わったわけではないが)謎の達成感を覚えていた。

 とにかく日本ゲーム史に残る、驚異的な記録なのは間違いないが、気になるのは「なぜこんなに売れたのか?」ということだ。多くのプレイヤーが同作の魅力についてはすでにご存じのことと思うが、上半期の売り上げが公開されたこのタイミングで改めて振り返ってみた。

 「どうぶつの森」シリーズの魅力と言えば、「どうぶつ」たちが住む仮想世界でのコミュニケーションそれ自体を楽しむというものだ。加えて今作において、明らかにこれまでとは違うタイプの新たな機能が追加された。「島クリエイター」と呼ばれ、ゲームの舞台である「無人島」の地形やインフラを自由に開発できるシステムだ。これを使えば、主人公は島の一住人であるという設定ながら、島に川を引いたり、道路を整備したりといった形で、ゲーム内の空間を好みの形に変形できる。「家具」を室外のあらゆる場所に置けるようになったこともあいまって、プレイヤーの行動領域は大きく広がった。

 たとえば筆者は「メスのフラミンゴ」と「オスのフラミンゴ」(どちらも置物)を公園に設置してデートスポットに見立てたり、島内に学校と病院、墓地を作ることで、そこに暮らすキャラクターたちの生活が何世代も続いているのではないか、と思えるような作りにしたりして楽しんでいた。この楽しみ方は、「いま、ここ」にある(仮想)現実の意味を読み替えるという意味で、拡張現実的な想像力に支えられている。作られた仮想空間でのコミュニケーションを楽しむということに加えて、空間自体の意味を読み替え、その想像力をゲーム内に具現化できるようになったことが今作の新たな魅力だ(これまでのシリーズでも通信機能の充実などが拡張現実的な魅力として指摘されてきたが、今作のように拡張そのものをシミュレーションできるほどのものではなかった)。

 さて、話を現実に戻すと、今作が発売されたのは3月20日。緊急事態宣言こそ出されていなかったものの、いわゆる「自粛ムード」が出来上がりつつあった時期だ。この時期、ほとんど自宅圏内にとどまることを強いられた私たちは、物理的に「遠くにあるもの」に娯楽を求めることはできなくなった。このとき私たちが求めていたのは、手に入らなくなった「遠くにあるもの」ではなく、まさに「いま、ここ」にある現実を豊かなものに読み替える拡張現実的な想像力ではないだろうか。この想像力を自由にシミュレーションできる『あつまれ どうぶつの森』というゲームが大流行した時期と、新型コロナウイルスの影響で多くの人が「いま、ここ」にとどまることを余儀なくされた時期とが重なったことは偶然ではないだろう。

 ただ、「自粛ムード」に伴う「巣ごもり需要」が売り上げの大きな要因になったことは間違いないだろうが、それだけが大ヒットの理由であるとするのはやや説明不足だ。そこで、こんな問いを用意した。「拡張現実的な想像力が求められるのは、コロナ禍に限ったことなのだろうか?」。

 私たちはすでに「遠くにある娯楽」には、情報レベルではいつでもたどり着ける。たとえば筆者はアップルミュージックを使って、過去から現在まで、あらゆる時代/あらゆる国の「名曲」を日常的に聴いているし、昨日もNETFLIXで韓国ドラマを見たばかりだ。「遠くにある娯楽」はもはやありふれたものとなり、あえて熱望するものでもなくなった(むしろ、自粛期間など特殊な状況では飽きることさえある)。

 そこで求めるようになったのは、やはり「いま、ここ」を読み替える拡張現実的な娯楽だ。「拡張現実的な娯楽」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、何と言っても『ポケモンGO』だろう。あれはまさに「いま、ここ」にある日常の風景をポケモンたちのいる世界に読み替える、拡張現実的な想像力から生まれたゲームである。あるいは他に身近な例をあげるならば、インスタグラムの「ストーリー」機能もこれにあたるだろう。これも、「日常の何気ない光景を自分にとって意味のあるものに読み替えたい」という欲望から使われるものだ。友人と外食しているときの場面を撮影して何の必然性もなく投稿したり、街の風景写真をちょっと気の利いたコメントとともに投稿したりするのは、「いま、ここ」の現実に自分なりの価値を見出したいからだ。

 それらが「既読(や、時々コメント)」という形で承認を受けることで、「いま、ここ」にある何気ない日常に意味が与えられる。いや、あえてこんなふうに大げさに話したが、当然、筆者が「ストーリー」を使うときに、わざわざこんなことを考えてはいない。考えてはいないが、いや、考えていないからこそ、無意識のレベルで強烈に、「いま、ここ」にある(取るに足らない)身の回りの現実をなにか豊かなものに読み替えたいという欲望が存在しているような気がしてならない。そう、私たちは(少なくとも筆者は)どんな状況であろうと、常日頃から「いま、ここ」の意味を読み替える拡張現実的な想像力を娯楽に求めている。

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