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外相就任、日韓国交正常化成し遂げる

「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(4)

政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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1960年(昭和35年)7月、岸信介内閣に代わって池田勇人内閣が発足した。椎名悦三郎は岸内閣の官房長官から自民党政調会長に転じた。当選2回生の自民党3役入りは異例である。椎名が岸から池田へのバトンタッチに少なからぬ役割を果たしたことへの論功行賞であった。幹事長は池田派長老で衆議院議長や副総理を歴任した益谷秀次、総務会長は佐藤派最高幹部の保利茂であった。椎名は岸派を代表して党三役になった。

岸派分裂、川島派に参加

自民党の政務調査会は椎名から見ると、役所の説明を聞くだけの貧弱な組織であった。もっと資金を投入して独自の調査機能や情報収集機能を持たないと近代政党としての政策形成能力を持つことは出来ないとして、後藤新平流の改革構想を練ったが、椎名の政調会長在任期間は短かった。同年10月に池田首相は衆議院を解散し、総選挙で自民党は圧勝した。この選挙で椎名は岩手県第2区でまたしても最下位当選だった。

選挙後の内閣改造で椎名は通産大臣に就任した。商工次官を退官して以来、15年ぶりの古巣復帰である。官僚出身政治家が古巣の大臣になるのは「故郷に錦を飾る」ような晴れがましいことである。記者団にも「ほかの大臣になったら、まるでヨメに行った娘が実家の前を素通りしてよその家に入っていくようなことになるからナ。私の次官時代に課長だった徳永(久次)君がいまは次官で助けてくれる。まア、知った人も多いしネ」と喜んでいた。

椎名は通産大臣在任中、IMF8条国移行問題、開放経済体制推進などに取り組んだ。しかし、国会では野党から選挙違反問題を追及されて窮地に立った。椎名は選挙に弱く、これまで3回連続の最下位当選であり、しかも陣営には選挙の素人が多く、選挙のたびに違反者を出していた。特に昭和33年の選挙では総括責任者が買収容疑で追及され、雲隠れして全国に指名手配されていた。

国会で野党は椎名が容疑者をどこかにかくまっているのではないかと厳しく追及した。椎名は自分の関知しないことであると突っぱねたが、この容疑者は椎名の知人である愛知県の企業経営者の社宅にかくまわれていた。いつまでも選挙違反事件を引きずっていては政治活動にも支障が出ると判断し、昭和36年6月の内閣改造で通産大臣を退任した際に、容疑者に自首を勧めてこの問題に区切りをつけた。最初の通産大臣在任について椎名は「古巣に戻ったにしては何だか全然他人の家に入ったような気がしてネ。昔と比べて余りにも通産行政が様変わりしていたからな」と振り返っている。

 1962年(昭和37年)11月、岸信介は「十日会(岸派)」の解散を宣言した。派閥をいったん解散して後継者の福田赳夫を中心とした新派閥を作ろうとした。これに川島正次郎を中心としたグループが反発して岸派は分裂した。戦前の商工省時代から岸と二人三脚でやってきた椎名は去就に迷ったが、福田が後継者ということに納得がいかなかった。岸・福田の反池田路線にも同調できなかった。椎名は川島グループに参加する決断をした。川島と椎名は戦前の商工委員会からの付き合いで、椎名は後藤新平の甥であり、川島は後藤新平の東京市長時代の側近だった。

川島は財界と深いパイプのある椎名の参加を喜んだ。こうして川島を中心に椎名、赤城宗徳、藤枝泉介、浜野清吾、荒船清十郎、長谷川四郎、秋田大助ら衆議院議員19名で「交友クラブ(川島派)」が結成された。椎名は岸と袂(たもと)を分かった経緯について次のように記している。

「私は政治家になって間もない頃、一度岸さんに聞いたことがある。『原敬は"政治は力なり"と言ったが、"力"とは何だと思うか』とね。そしたら岸さん『力とはカネだ』と答えたよ。そんな風だから、あの人の政治資金というものの考え方が、根本的にぐらついている。よく政治ゴロみたいな連中が、南平台の私邸をうろうろするのを見かけたが、岸さんはまた何か無理をして後始末に苦労しているんじゃないかと、何となくにおいで感じるようになってネ。私は口に出して言わなかったが、そんなにおいが大嫌いなもんだから、次第に岸邸から足が遠のくようになってしまったんだ」

このころ、福田赳夫は党風刷新連盟を率い、派閥解消・党近代化を掲げて池田政権を激しく揺さぶっていた。池田首相と前尾繁三郎幹事長はこうした動きを封じ込めるため昭和37年、三木武夫を会長とする党組織調査会を設置し、党近代化問題を全党討議に付した。三木調査会では灘尾弘吉が団結小委員会の小委員長になった。椎名は灘尾小委員会に熱心に顔を出して討論に加わった。灘尾は後に「あの無精者(の椎名)が一回も欠席しないのに驚いた」と述べている。三木調査会は翌年10月、「一切の派閥の無条件解消」を柱とする答申をまとめて池田首相に提出した。

昭和38年11月の総選挙で椎名は小沢佐重喜に次いで第2位で当選した。通産大臣を経験したことで地元の選挙民も椎名が小沢と同等か、それ以上の大物政治家であるとの認識が広がり、前回選挙より1万票以上得票を増やした。この時の選挙を椎名は「初めて何一つ違反のない選挙をやり、すがすがしい気分だった」と述べている。

本人も驚いた予想外の外相ポスト

昭和39年の自民党総裁選は3選をめざす池田首相とこれを阻止しようとする佐藤栄作が激しく争ったが、川島派は一致して池田を支持し、池田は佐藤を振り切って総裁3選を果たした。総裁選後の人事で大野伴睦の死後、空席になっていた自民党副総裁に川島正次郎が就任した。内閣改造では外相に椎名悦三郎が起用されて注目を集めた。椎名を外相に強く推したのは池田首相の最有力側近の前尾である。当時の外交の最大案件は日韓国交交渉だったが、両国間のメンツと複雑な国民感情が絡み合って交渉は一進一退が続いていた。

前尾は大局的な判断力があり、ハラが座っていて度胸がある椎名を外相の適任と考えたが、世間も椎名本人も当時は外相が適任とは思ってもみなかった。前尾の話を聞いた川島も「いくら何でも椎名君に外相は無理だ」と難色を示したが、池田首相は「面白い人事だ」と了承した。

椎名本人は「今回も通産かな」と予想していたが、川島副総裁を通じて外相を打診されて「冗談もほどほどにしろ」と答えたほどだった。組閣本部に呼ばれた際も池田首相に「あんまり人をからかうのもいい加減にしてくれ」と言ったが、池田はニヤニヤ笑いながら「いや、二人でやろう。オレも手伝うから一緒にやろうや」と説得した。

日韓交渉は請求権問題では昭和37年の大平外相と金鍾泌中央情報部長官との間で無償3億ドル、有償2億ドル、民間協力1億ドル以上という線で大筋合意していた。漁業問題でも両国農相会談で李承晩ラインを撤廃し、沿岸12カイリを韓国の漁業専管水域とし、その外側に共同規制区域を設け、日本は漁業経済協力を行うことでほぼ合意していた。韓国では野党や学生が「対日屈辱外交反対」を叫び、韓国の政情不安も絡んで交渉はしばしば中断した。

 1963年(昭和38年)、民政移管に成功した朴正熙大統領は日韓交渉を早期に妥結させ、日本の資金協力によって韓国の経済発展を進める強い決意を固めた。昭和39年7月には丁一権内閣を発足させ、外務部長官には39歳の側近・李東元を起用して体制を整えた。米国も極東の安定のために日韓の早期和解が望ましいとして、陰に陽に両国に日韓交渉の妥結を働きかけていた。

日韓間の残る懸案は基本条約問題だった。日韓併合条約について韓国は「当初から違法・無効」と主張し、日本は「昭和20年に無効になった」との立場だった。韓国政府の管轄権についても韓国は「朝鮮半島全域を管轄する唯一の合法正当政府」と主張し、日本は「北緯38度線以南」との立場だった。こうした問題は両国のメンツや国民感情が絡んで大きな政治決断が必要だった。

日本では昭和39年9月、池田首相が喉頭がんで入院し、10月25日に退陣を表明した。後継首相には自民党の川島副総裁、三木幹事長の党内調整の結果、佐藤栄作が指名された。佐藤首相は官房長官を鈴木善幸から橋本登美三郎に代えた以外は全閣僚を留任させた。臨時国会の所信表明演説で佐藤首相は日韓交渉の早期妥結方針を明らかにし、椎名外相は早期訪韓を実現して決着を急ぐ意向を表明した。

金浦空港で「深く反省する」と声明

椎名外相の訪韓は1965年(昭和40年)2月17日から4日間と決まった。椎名はこの訪韓で一気に基本条約の仮調印にこぎ着けることをめざした。韓国内の日韓条約反対の世論は険悪で、これが朴政権を苦しめていた。日韓交渉のカギは険悪な韓国世論をどう緩和するかであった。昭和35年、戦後初めて訪韓した小坂善太郎外相は過去の植民地支配について「極めて遺憾」と表明したが、韓国世論は凍り付いたままで小坂外相は冷たく迎えられ、成果を得られず帰国した。

椎名外相訪韓では空港に到着した際のステートメントで過去の日韓関係にどう言及するかについて外務省内でもさまざまな議論があった。椎名は出発の直前に「深く反省する」との文言を入れることを政治決断した。これが椎名訪韓成功の大きな決め手になった。2月17日、「椎名訪韓阻止」を叫ぶ全学連デモ隊と警官隊の小競り合いの中を椎名外相は羽田空港を出発した。金浦空港に到着すると歓迎式典で椎名は用意していたステートメントを淡々と読み上げた。「両国間の永い歴史の中に、不幸な期間があったことは、まことに遺憾な次第であり、深く反省するものであります」

椎名のステートメントは韓国世論の沈静化に大きな影響を与えた。空港から宿舎の朝鮮ホテルに入る際に大勢の反対デモが押しかけていたが、大きな混乱はなかった。表敬訪問に訪れた丁一権首相も李東元外相も椎名のステートメントを高く評価した。17日夜の李外相主催の歓迎レセプションでは欧米の駐韓大使もこぞって椎名ステートメントを歓迎した。

レセプションには韓国記者団も大勢来て「反対デモの感想は」と椎名に尋ねた。椎名は「(韓国紙の)夕刊の反対デモの写真を見てびっくりした。反対デモの先頭にオレがいるんだものな」と答えた。韓国の野党リーダーである尹●(さんずいに普)善元大統領と椎名は風貌がそっくりだった。韓国記者団は大笑いだった。「尹氏と大臣はどちらが年上ですか」という質問に椎名は尹氏の年齢を確かめた上で「それならオレの方が弟分だよ」と答えた。こうしたやりとりも韓国内に伝えられ、韓国世論の緩和に役立った。

1960年(昭和35年)7月
自民党政調会長に
同年12月
第2次池田内閣で通産相
1962年(昭和37年)11月
岸派分裂、川島派に加わる
1964年(昭和39年)7月
外相に就任
同年11月
佐藤内閣で外相再任
1965年(昭和40年)2月
韓国訪問、日韓基本条約に仮調印
同年6月
内閣改造で外相留任
同年6月
日韓条約、関連協定に正式調印
同年12月
ソウルで日韓条約批准書交換式

 18日午前、青瓦台に朴大統領を表敬訪問し、同日午後から李外相と基本条約仮調印に向けて本格的な交渉に入った。帰国を翌日に控えた19日夜に椎名外相主催の返礼レセプションが開かれたが、交渉は妥結に至らなかった。李外相はレセプションの途中で椎名を高級料亭に誘い出し、最後の詰めの交渉に入った。日韓併合条約の有効性や韓国政府の管轄権はどこまで議論しても平行線だった。椎名はこれらの問題は玉虫色にして事実上棚上げして妥結を図るほかないと李外相の政治決断を求めた。

最後までもめた韓国の管轄権については韓国に関する国連決議の案文を参考に玉虫色の表現にすることで落ち着いた。竹島領有権問題も棚上げにした。李外相は「自分の授権範囲を超えている問題もあるから大統領の承認を得ないと」と言い出した。朴大統領はこの日、鎮海湾に停泊中の軍艦に泊まっていた。椎名はすぐに軍艦の中の大統領に連絡するよう李外相に求めた。朴大統領の承認が伝えられたのは20日午前1時であった。椎名はそれから宿舎に戻って外務省の随員と打ち合わせて床についたのは午前3時だった。

椎名外相は20日午前5時半に起床し、パジャマ姿のまま、佐藤首相、川島副総裁、三木幹事長、橋本官房長官に相次いで電話して交渉妥結を報告し、基本条約仮調印の承認を求めた。佐藤首相は「それで国会答弁は大丈夫か。野党の攻撃はかわせるか」と尋ねたが、椎名は「国会答弁は私が全責任を負うから心配はご無用だ」と答えて佐藤の承認を取り付けた。同日午後2時、椎名外相と李外相は日韓基本条約に仮調印し、午後3時半に椎名は金浦空港を立って予定通り帰国した。

基本条約の仮調印で残る懸案についても日韓交渉と国内調整は一気に進展した。椎名外相は請求権問題で無償3億ドル、有償2億ドルのほか1億ドル以上とされた民間協力の規模を3億ドルとし、漁業協力について4000万ドルとする腹案をまとめて3月20日の佐藤首相、田中蔵相、赤城農相との4相会談に臨み、すべての了承を取り付けた。特に田中蔵相は大蔵事務当局の不満を抑えて「これは大きな政治問題だから」と椎名提案にすぐに了解の署名をした。田中は椎名の兄貴分の川島副総裁と親密だったが、椎名も田中の決断の早さを高く評価していた。

この結果、4月3日、日韓両国外相は東京で請求権、漁業、在日韓国人の法的地位の3懸案について協定に仮調印した。椎名は同年6月の内閣改造でも外相に留任し、6月22日、東京で日韓基本条約、及び関連協定が両国外相によって正式に署名調印され、戦後の最大の外交懸案の一つだった日韓国交正常化がようやく実現した。残るのは国会の承認手続きであった。北朝鮮一辺倒の社会党、共産党は院外の反対デモと呼応して徹底抗戦を試み、国会審議は大荒れになったが、蔵相から自民党幹事長に転じた田中角栄の豪腕によって同年12月8日に承認手続きは終了した。

昭和40年12月18日、ソウルで日韓条約の批准書交換式典が開かれ、戦後初めて韓国内で君が代が演奏された。普段は冷静な椎名もこの日は顔を上気させて韓国首脳と固い握手を交わした。日韓国交正常化を成し遂げた椎名悦三郎は一躍、名外相として内外にその名を高めた。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 「記録椎名悦三郎(上下巻)」(82年椎名悦三郎追悼録刊行会)
 椎名悦三郎著「私の履歴書」(私の履歴書第41集収載=70年日本経済新聞社)
 「現代史を創る人びと4(椎名悦三郎インタビュー収載)」(72年毎日新聞社)
 「椎名悦三郎写真集」(82年椎名悦三郎追悼録刊行会)

※1、2枚目の写真は「椎名悦三郎写真集」から

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