関東地方の倉庫で「希少なル・マン参戦カー」が発見される|フォードGT40 Mk.IIBの帰郷

1967年フォード GT40 Mk.IIB"1047"(Photography:Gensho HAGA)

1970年代の中頃からずっと日本に棲んでいたフォードGT40 Mk.IIB。それも2年連続してル・マンへの参戦ヒストリーを刻んだマシンが、初冬の東京を離れ、人知れずアメリカに帰っていった。オクタン日本版では旅立ちを前にしたMk.IIBを撮影スタジオに招き入れた。

アメリカからやってきた元ル・マン・カー、GT40 Mk.IIB
フォードが初めてのル・マン優勝を遂げてから10年目となる1976年、『CG』誌では、1976年2月号から3号連載という大盤振る舞いで、GT40の連載記事を掲載した。その最終回となった4月号では、富士スピードウェイ(当時はFISCOと呼ばれた)のパドックに2台のシルバーにペイントされたGT40が居並ぶ光景を掲載し、モータースポーツに関心を抱く読者たちを驚嘆させた。この私も、まさにそのひとりで、どちらのオーナーもストリートユースを考えていると書かれていることに、激しく心が躍った記憶がある。

そのうちの1台は、ごく少数のファンの間で存在が知られていた、元ヤマハのシャシーナンバー1077。もう1台は、この取材の直前に個人オーナーがアメリカから輸入したGT40 Mk.IIBであった。元ヤマハのGT40はシリーズIと呼ばれる標準的な生産型で、フォード・フェアレーン用スモールブロックV8に、イーグルウェスレイク・シリンダーヘッドとウェバー481DA型キャブレターを備えていた。1968年にヤマハの社員が渡英し、研究用にジョン・ワイアー・オートモビルから直接新車で購入したもので、その後、個人オーナーの元に収まっていた。

いくら現役を離れたとはいえ、ル・マン参戦歴を持つという元フォードのワークスカーであったGT40 Mk.IIBが東京にやってきたことは、驚き以外のなにものでもなかった。このMk.IIBが本稿の主人公である。

Mk.IIBによるル・マン制覇まで
フォードGTが誕生に至った経緯は本誌にも何度か掲載しているので、簡単に述べておくことから稿を進めていくことにしよう。

アメリカ人の生活に密着した様々なクラスの乗用車を手掛けて成長してきたフォードだったが、1960年代に入ると、戦後生まれの人々(いわゆるベビーブーマー)の琴線に触れるモデルを用意して、新たな顧客を呼び込むことが必要になった。若い顧客層をフォードに引きつける魅力を求めたヘンリー・フォード2世は、スポーツモデルの投入と、フォードの若々しいイメージを高めるべく、モータースポーツへの参加をその策の柱と定めた。前者が、アイアコッカが仕掛けたスポーティーモデルのマスタングだった。

役員会でモータースポーツのために莫大な資金を投下が決まり、その目標として設定されたのが、スポーツカーレースの最高峰、ル・マン24時間レースでの優勝であった。そのための手っ取り早い方法として、フォードはこのジャンルでは最高峰にあるフェラーリに買収を持ちかけ、エンツォ・フェラーリもこの話に乗り気になった。交渉は順調に進んだかに見えたが、エンツォが最終的に契約書類にサインしなかったことから、1963年5月にゴール間近で水泡に帰してまった。

フェラーリの買収が果たせなかったフォードは、ただちに自らマシンを開発して参戦する道を選んだ。その決定は交渉決裂から1週間後と早かったが、後に、フォードはそれを想定した独自のバックアッププランを進行させていたことを明らかにしている。

8月には、英国のスラウにFAV(フォード・アドバンスト・ビークル)ディビジョン設立した。その責任者になったのは、米フォードでスポーツモデルの開発経験を持つ英国人のロイ・ランで、レイ・ゲッジスやドナルド・フレイらとともに、フォードGTプログラムが始まった。FAVは、ローラのエリック・ブロードレーにも協力を仰ぎ、ミドシップにフォードV8を搭載したローラGTを基本構想のベースとして開発を進め、1964年4月にニューヨークでフォードGT(後のGT40)がデビューした。

それから2週間後、フォードGTは本戦を前にしてサルト・サーキットで行われる"ル・マン・テストデイ"に姿を現した。当然のことながら、開始早々まったく未完成であることが露見し、特に空力特性に問題があることが明らかになった。レース本戦までに熟成作業が急がれ、本戦では出場車中で最速を記録したものの、さまざまなトラブルに見舞われてリタイアに終わった。そればかりか、1964年は出走したすべてのレースで完走ができないとういう屈辱を味わった。

取材協力:山田泰人氏_Super Craft 文:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Words:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.) 写真:芳賀元昌 Photography:Gensho HAGA Translation:Andrew J. Pawlikowski

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