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【試し読み】斜線堂有紀の恋愛小説『転ばぬ先の獣道』

斜線堂有紀さんから恋愛小説の原稿が届いたので掲載します。本来であれば、バレンタインデーに合わせて依頼したものでした。当日掲載しようと思っていたのですが、上がってきた原稿を読み、いったん止めました。不意に読むには、この日は違うと思ったからです。この小説の感情は劇薬を飲む覚悟を持って読むべき……凄みがありすぎる原稿です。どういうことなのか、ぜひ最後まで読んで確かめてもらえればと思います。抜き身の刀のような一編。


斜線堂有紀(しゃせんどうゆうき)


第23回電撃小説大賞《メディアワークス文庫賞》を『キネマ探偵カレイドミステリー』にて受賞、同作でデビュー。『コール・ミー・バイ・ノーネーム』『恋に至る病』『楽園とは探偵の不在なり』『廃遊園地の殺人』など、ミステリ作品を中心に著作多数。恋愛小説集『愛じゃないならこれは何』絶賛発売中。

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https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-790068-2

転ばぬ先の獣道


 
 折り紙で作られた鎖が部屋の中を彩っている。全長数十メートルにも及ぶそれを作るのは、きっと骨が折れただろう。部屋を何重にもぐるっと取り囲むそれを見ながら、月子は八時間、と当たりをつける。
 それに、私はトラがそんなものを作っていることなんてまるで知らなかった。きっと、私がいない時や眠っている時を見計らってせっせと作ったのだろう。
 愛情はお金よりも時間で計った方がいい。当然ながら、社会人にとっては一万円よりも八時間の方が重い。ましてや、部屋を飾った後には燃えるゴミになるだろう折り紙の鎖に掛ける時間は、正直五万円くらいの価値があるんじゃないだろうか。
「どうしたの? これ」
 月子は喜びに震えながら、トラに尋ねる。こうした時、私の声は普段より一層高くなる。声、高いな……と、苦笑する自分が、心の端の方にいる。だが、トラはそんな私の様子を見て、更に目をキラキラと輝かせた。
「アドちゃんはこういうの好きでしょ? だから頑張っちゃった」
 トラの言葉は正確じゃない。折り紙の鎖のファンシーさが好きなわけじゃなく、折り紙の鎖のような、トラの手間が掛かっているものが好きなのだ。お金ではそうそう買えない、気持ちの籠もった時間の結晶。
 でも、それを事細かに説明することはしない。トラにはきっと、よく分からない部分だ。トラは、折り紙で作られた色とりどりの鎖、たまに金色が混じるそれを、ただ可愛いと思っている。
「頑張りすぎだよ……何メートルあるの、これ」
「アドちゃんの誕生日までに伸ばせるだけ伸ばそうと思ったから分かんない! 俺の愛情と同じだけの長さだよ。ゴミ袋で五袋くらいある」
「ゴミ袋で保管してたの!? ていうか、それだけ多かったら、トラの部屋埋まっちゃってたんじゃないの?」
「最後はベッドの上に載せてたもん。動く度にカシャカシャいうの」
 最近のトラが私を部屋に入れなかったのはそれが理由だったようだ。いじらしくてたまらない。
「今日はアドちゃんのこと、世界で一番幸せにするから。前にアドちゃんが美味しいって言ってくれたラザニアも煮込みハンバーグも作ったよ。重いかも知れないけど、今日くらい良いっしょ?」
「味濃いなー。でも、嬉しい」
「あ、そうだ。忘れる前にこれ、プレゼントね」
 折り紙の鎖を作ってくれるトラは、ちゃんとしたプレゼントの方も欠かさない。今年のトラからの誕生日プレゼントは、自分で買うのは躊躇われるお高い香水だった。SNSで話題になっている、特別なデザインのアトマイザーと一緒になっているやつだ。私が二ヵ月前に欲しいと言っていたものを、トラはちゃんと覚えていてくれたのだ。
「アドちゃんっぽい匂いだなーって思って、俺も気に入っちゃった」
「ありがとう。付けるね」
「そうして! そうだ! ケーキもあるよ!」
 トラがバタバタと冷蔵庫へと駆け出していく。ご飯もまだ食べていないのに、先にケーキを見せたくて仕方がないのだろう。
 そうしてトラが持って来たケーキは、まるで小さなウエディングケーキのような二段重ねのものだった。綺麗に咲いた砂糖菓子の薔薇の花が、夢に根を張っているみたいに綺麗だ。添えられた蝋燭には金色の蔦が絡まっている。
 これが自分のものだなんて信じられない。けれど、チョコプレートには確かに『HAPPY BIRTHDAY アドちゃん』の文字が刻まれている。
「……これすごいね、綺麗……」
「だよね。俺もそう思う。抽選だったから取れるかめちゃくちゃ不安だったんだけど、三回目の募集でようやく取れてさ。嬉しかったなー……」
「ありがとう、トラ。私、凄く……凄く嬉しい……」
「ちょっ、アドちゃん泣いてるの?」
「泣くよー……ありがとう。毎年毎年、こうして祝ってくれて……」
「え、え、いや、だって俺がやりたくてやってるんだもん! めっちゃ嬉しいけど泣かないで~」
 言いながら、トラが抱きしめてくれる。トラの力加減は本当に優しくて柔らかくて、トラの腕の中にいる時、私は自分が世界で一番大切なものになったような気分になる。
 付き合って八年になるのに、トラが自分を愛してくれていることが信じられない時がある。なにしろトラはあまりにも完璧だった。いつどんな時でも、トラが愛しい。トラが自分のものである、という事実に酔いしれる。ずっと、これからもずっと、トラと一緒にいたい。
 私はちらりと横目でケーキを見た。蔦の絡まる蝋燭は、七本しかなかった。
 この可愛いケーキに三十本の蝋燭を刺すような無粋な真似を、トラは絶対にしない。
 トラのそういうところも好きで、憎かった。

 トラの本名は虎鶫泰隆(とらつぐみやすたか)だけれど、トラのことをそんな風に呼ぶ人間はほぼいない。映画制作研究会で出会った時から、トラはトラだった。派手な金髪に整った顔立ちを併せ持つトラは、まさにその場を支配する王だった。
 明るくて誰にでも優しく接するけれど、決して舐められはせずに男女問わず慕われている。映研の楽しいことを主導しているのはいつだってトラで、みんながトラの傍にいたくて映研に入っているような気すらした。
 一応言っておくと、私は別にトラが好きで映研に入ったわけじゃない。一年前期にサークルに入らなかったお陰で、私は大学の中であっさりと孤立した。学部共通の講義がまだ少ない一年の頃は、こういうことになりやすい。
 慌てた私は、後期になってから急いでサークルを探し始めた。とはいえ、サークルだって無限に存在しているわけじゃない。クエンティン・タランティーノを拗らせた地味な女子大生が流れ着けるサークルは映研しかなかったのである。
「君もトラ目当て?」
 見学もせずに入部届を出しに行った時、会長を務めていた女の先輩が半笑いで尋ねてきたことが、今でも忘れられない。
「え?」
「いや、全然いいんだけどね? でも、ここまでくると凄いなあって。去年とか部員一二人くらいしかいなかったのにさ、もう八〇人とかいるもん。ここまでくるとバブルだよね。トラバブル」
「えっと、トラって何ですか?」
 私の返答に、会長は一瞬蔑むような目線を向けた。どうせ『そう』なくせに白々しい、というような目だ。だが、そのままこっちが戸惑い続けていると、段々と会長の表情が和らぎ、薄ら笑いに落ち着いた。
「あ、ごめん。本当に知らない? 知らないんだ? あー、こっちもおかしくなってたのかも。わー、ごめん。気にしないで! トラを知らない希少種だと思ったら、なんか愛おしくなっちゃった。えーと、」
「安土月子(あづちつきこ)です。安土桃山時代の安土」
「うんうん。月子ちゃんね。うーわ、恥ずかしいとこ見せたなー、本当にごめんね」
 会長は大袈裟に顔を押さえてみせると、パッと笑った。彼女は悪い人ではなかった、と今になって思う。きっと、あの人もトラの被害者の一人だったのだ。
「映画好きなんだ?」
 会長の言葉に、私は必死に頷いた。よく分からないが、自分は『トラ目当て』じゃないことで一目置かれたらしい。だったら、トラなんてものにうつつを抜かさずに、映画好きをアピールすることが馴染むのに必要なことなのだろう。そうしている内に、会長はどんどん優しい笑顔を見せるようになり──最終的に、何だかとても寂しそうな笑みを浮かべた。
「月子ちゃんみたいな子が来てくれて嬉しいな。でも、結局後で落ちちゃったとしても、何も言わないから。トラだし」
 会長の言葉があまりにも寂しそうなので、私はいよいよ何も言えなくなった。一言でも反論すれば、必死さが出てしまいそうで怖かった。
 そうしてすぐに、会長の言葉の意味を知らされることになった。

 映研に入ってすぐに、月一で催されている定期飲み会があった。四〇人近くが参加する飲み会で、私はひたすら恐縮していた。参加している全員が心底楽しそうな顔をしていて騒がしい。成功している飲み会のサンプルのような感じで、何だか映画的ですらあった。
 彼らは幸せそうに飲みつつ、ふとした時に視線を彷徨わせた。そうしてとある一人を見つけると、ふわっとなごやかな笑みを浮かべるのである。
 彼を中心に楽しい空気が伝播していく。それは、外側から見ていると不思議な光景だった。遠くから見ても、彼がどこにいるのか分かる。日差しがどこに差し込んでいるかは、遠目で見ても分かるみたいに。
 飲み会の席を軽やかに移動する日だまりは、徐々にこっちへと近づいてきていた。彼がほんの十数メートルのところまでやって来た時、私は自分も彼を見つめる一人になっていたことに気がついた。月子の隣がすっと空き、トラがそこに収まった。
「はじめまして! 俺は、映研の幹事と渉外担当の一年で、名前はトラ。えー、これは渾名で、本当は虎鶫泰隆っていうんだけど、ま、トラって呼んで! ちなみに学部は文学部の創造文化! そっちは?」
「わ、私は……安土月子」
「あづち? どうやって書くの」
「安土桃山時代の──いや、安い、土の……」
「じゃー、アドちゃんだ。アドちゃん!」
 今まで呼ばれたことのない渾名で呼ばれて、まるで新雪に足跡を付けられたような気分になる。けれど、それが少しも嫌じゃなかった。アドちゃん、という新しい名前が、心の中でころころと転がる。
 屈託なく笑うトラに引きつけられて、目が逸らせなくなる。会長に好いてもらえたたった一つの要素を、私は早速手放そうとしていた。なるほど、これがトラ。彼を求めて数多の人間がここに来る。砂漠に誂えられた出来すぎたオアシスのように。
 私はそんなに目立つ容姿をしているわけではなかった。かといって、中身の方も変わったところはない。ごく普通の、どこにでもいる大学生だった。
 けれど虎鶫泰隆といる時の自分は、何だかこの世界の主役のように思えるのだった。トラは、そう錯覚させるのが誰よりも上手かった。

『誕生日おめでとう、月子。泰隆くんとは仲良くやってる?』
「やってるよ。大丈夫」
 おめでとうの次にトラのことを口にする母親は、トラのことを本名で呼ぶ数少ない人間だ。トラが私の実家を訪れたのはたったの一回、それも五年前の話だ。なのに、母親は未だにトラのことを大いに気に入っていた。一回しか会ったことのないトラのことを、毎週会っている義理の息子のように語るのだ。けれど、それは母親が悪いのではなく、トラの成せる業だった。
『それで、泰隆くんは次いつ来るの?』
「次……はいつかわからない。こっちも忙しいし、トラも……色々付き合いとかあるし」
『まあ、次にこっちにくる時は色々決めなくちゃだしね』
 ずるりと内蔵の位置がズレるような感覚があり、私は「そうだねえ」と気のない返事をする。
『泰隆くん、車とか欲しくないかしら。知り合いの……ほら、叔父さんの知り合いのディーラーさんいたでしょ。あの人が泰隆くんのことえらく気に入ってて、あ、話をしただけなんだけどね、すごくいい子だからって。潰れたレンタカー屋さんから引き取った車、安く売ってくれるって。すごいのよ。二、三回しかまだ乗ってなくてメーターみたら新品同然だって』
 母親がぺらぺらとそうまくし立てる。一体私の地元でトラはどんな風に語られているのだろう。それを想像するだけで、私は電話を切りたくなってしまう。
『泰隆くんはいい子よね。本当、三十……三十で付き合う相手には、いいと思う。将来のこと、考えてるんでしょ?』
「将来のこと……」
『将来のこと考えるには、泰隆くんが一番いいわよ』
 母親が太鼓判を押すように言い、私はまた「そうだねえ」で会話を殺す。これ以上弾まないよう、泥濘に沈めてやる。

 映研時代の同期が結婚することになり、私とトラは当たり前のように二人で出席した。
 会場にトラが現れるなり、全員がパッと表情を輝かせた。主役である新郎新婦よりもトラの登場が待ち望まれていたかのようであり、隣に立っている私は完全に掻き消えてしまっていた。
「トラー! 会いたかったよトラ!」
「今回はトラに会いに来たようなもんだから! トラって今何してんの?」
「しがないサラリーマンだよ。映画の予告作ってる!」
「えっ、トラ先輩映画の仕事してるんですか? 凄すぎ!」
 わいわいとトラを囲み、みんなが久しぶりのトラを摂取している。トラはそんな彼らを愛おしげに迎え、新郎の頭を軽く小突いた。
「まさか正岡と米山が結婚するとはなー」
「まさかと正岡でダジャレだろそれ!」
「よもや米山が正岡と結婚するとはなー」
 トラの言葉に、周りが沸き立つ。そう冴えたジョークでもないのに、トラの言葉には魔法が掛かっている。学生時代と何にも変わらず、みんながトラに溺れていた。
 スクリーンでも眺めるような気分で、トラの様子をじっと見つめる。トラの周りには入れ替わり立ち替わり誰かがいて、順番にトラに話しかけている。ああいう風に順番待ちされる男を独り占めしているのだ、とぼんやりと思った。
 家に帰れば、トラは私のものだ。そう心の内で唱えると落ち着く。家にさえ帰れば、トラは私のもの。
 そんなことを考えていると、不意に背後から肩を叩かれた。かつての映研の同期で、数少ない友人の敏恵だった。
「やっほー月子、久しぶり。元気だった?」
「敏恵か……びっくりしたよ」
「相変わらず彼氏モテモテじゃん。いやー、全然変わらずいい男だもんなー、あれ。すごいよ。こっちもオーラに圧されるもん」
 敏恵が眩しそうに目を細めながら、トラの方を見た。
 敏恵は二年前に会社の先輩と結婚している。だからか、トラの引力には既に耐性が出来ているらしい。大学時代に敏恵がトラを好きだったのかどうかは未だに聞けずにいる。
「披露宴の会場に入ってくる時、腕組んでたでしょ? あれもすごかったよね。まだラブラブなんだーって」
「ラブラブっていうか……トラがそっちの方が盛り上がるだろうって思っただけだよ。結婚式で新郎新婦よりもラブラブで入ってくるっていうの、ウケるかなって」
 トラからその提案を受けた時、私はむしろ飛び上がりそうなほど嬉しかった。かつてのサークルメンバーがいる場所で、自分達がまだ仲睦まじいカップルであることを知らしめてくれるなんて思わなかった。
 結局すぐにトラとは離されてしまったけれど、安土月子がまだトラの恋人であることは印象づけられたはずだ。
「あ、月子にとっしーだー。お疲れー」
 そう言って近づいてきたのは、かつての映研の会長だった。今はもう会長でもないのだが、彼女は未だにそう呼ばれ続けていた。
「トラに挨拶してきたからさ、こっちにもって思って。どう? 元気にしてる?」
「元気にはしてます。そんなに派手なことがあるわけじゃないですけど……」
「トラと一緒に暮らしてて普通なこたないでしょ。毎日楽しいんじゃない? ねえ」
 会長が微かな皮肉を交えながら首を傾げた。確かに楽しいですよ、と返してやりたくなる。折り紙で鎖を作ってくれて、休みの日には映画に出てきたレシピを再現して振る舞ったりしてくれる。でも、そういうことすらも目の前の女には教えてやりたくなかった。代わりに「トラはいつでも機嫌が良いのが取り柄って感じですしね」と当たり障りのないことを返した。
「でもさ、月子とトラがそんなに長く続くとは思ってなかったよ」
「えっ、その……そうですか?」
「そうだよ。結婚もまだなのに珍しくない? 数年も付き合ってて仲良いままってなかなかないよね」
 会長が一段高い声で笑う。私は曖昧に笑うことで、この話題が早く終わらないかと思っている。
「ていうか大学時代にトラと付き合った時もびっくりしたもん。珍しくトラ目当てじゃない子が来たと思ったら結局そうなのかって」
「会長っていっつも月子にその話しますよねー。まあ、私もトラの取り巻きの一人だったから、言いたくなるのもわかりますけど!」
 敏恵がさりげなくフォローを入れて話を逸らそうとしたけれど、会長の目は私を捉えて放さなかった。食らいつかれている。喉笛を噛まれている。
「なんか、いつの間にかトラは月子のものになってたんだよね。あれちょっと謎だったな……。トラって月子のどこが好きになったの?」
 会長は私の痛いところを確実に突く。その一言は、私の背骨を一直線に貫いていく。

 トラが何で私のことを選んでくれたのかは、よくわからない。強いて言うならタイミングが良かったのと、入ってきたばかりの私がトラを知らなかったのが幸いしたのだろうと思う。飲み会の時点で私はトラに惹かれていたけれど、トラにはそれが気付かれなかったのだ。
 あとは、マシュフィールド監督の映画が効いた。
 すっかりトラにやられた後も、私はあくまで細々と映研の活動を続けた。トラにわざわざ絡みに行くこともなかった。いつも人に囲まれているトラに寄って行くのが憚られたのもあるし、単純に私にとってトラは眩しすぎた。自分がトラと関わるようになるところを、私は想像すら出来なかった。
 映研の活動そのものに熱心な会員は多くなく、私は自分の好きなように企画を立てては、サークルの予算で実現させていった。
 マシュフィールド監督作品の上映会もその一つだ。
 マシュフィールド監督の日本での知名度はそう高くない。所謂、ミニシアターやレンタルビデオ店の独占コーナーに置かれるタイプの監督だ。だが私はそんなマシュフィールド作品が大好きだった。色合いが鮮やかで見ていて楽しいし、台詞回しもお洒落だ。今でこそややマイナーな監督として扱われているが、宣伝の仕方さえ変えれば、一躍日本でも人気になるような気がしていた。上映会は、そんな気分で企画した。
 大方の会員はマシュフィールド監督の作品を知らなかったけれど、反応は悪くなかった。会長も喜んでくれていたし、第二弾の開催も悪くないんじゃないかという話にすぐさまなった。
 そして何より、トラが喜んだ。
「俺、この監督のこと全然知らなかったけど、すげー良かった。企画してくれてありがとう」
「そんな全然……単に自分の好きな映画教えたかっただけだし」
「アドちゃんって本当にセンスあるよな。自分の世界持ってる感じがして、ほんとにすごい」
 トラの目が輝いていた。彼の賞賛には嘘がない。それがあまりに嬉しくて幸せで、私は思わず言っていた。
「じゃあ今度、マシュフィールド監督の新作が上映されるんだけど、一緒に観に行く?」
「え、いいの? やったー、こういうきっかけが出来て良かった。よろしくね、アドちゃん」
 基本的にトラは誘いを断らない。私じゃない他の誰かでも一緒に映画に行っていただろうし、実際に誘われればどこにでも行っていた。それでも、私は嬉しくて仕方がなかった。
「アドちゃんと俺ってあんまり話したことなかったし、これを機に仲良くなれたら嬉しいな」
 トラは何の躊躇いもなく、私の方に手を差し出した。私は努めて冷静にその手を取る。
「うん、そうだね。……よろしく」
 私はこうしてトラと話をすることにすら気後れしているような、そんな女だった。
 それがトラの気を引いたのだとしたら、なんだか出来すぎているなと思う。少女漫画でヒロインが見初められるのと同じだ。この攻略方法を知っていたら、きっとみんな挙って同じことをしただろう。
 それからトラと私は何度か映画を観に行った。オールナイト上映を観た後に二人で味噌ラーメンを食べたり、映画の舞台になったカフェに二人で行ったりもした。
 マシュフィールド監督の作品を二人で観た時から、私はもう既にトラのことが好きでたまらなくなっていた。

「アドちゃんといると癒やされるなー」
 いつもの通りに他愛のない話をしていると、トラがぽつりと言った。
 その頃、映研は荒れていた。トラと一緒に渉外担当を担っていた女の子が裏でいじめを受けていることが発覚し、大学内で問題になったのだ。学事による手入れの調査が行われ、九人もの人間がそのいじめに加担していることが明らかになった。
 そのことを、トラは全く知らずにいたのだ。
「どうして気づけなかったんだろう」
 トラはそう嘆いていたけれど、気づけるはずがなかった。トラはいつだって忙しくしていたし、この時の映研は一三十人が所属するマンモスサークルに変貌していた。人が多いサークルになると、とりあえず入っておこうという人間が出てくるからだ。その中で、全ての人間の動向に目を配るのは難しい。
「アドちゃんは他の子ともあんまり絡まないし、孤高って感じがするのが好きなんだ。俺が何言ったかとか、一部の子達の間ではすぐに回っちゃうでしょ。それがしんどい時がたまにあるから……」
 トラがそう言いながら、カフェラテのカップを額に当てた。いつも明るいトラの表情が、一瞬見えなくなった。
 私はトラの話を誰ともしなかった。けれど、それは群れない孤高の徒であったからじゃない。単に誰ともトラを共有したくなかったからだ。ついでに言えば、私は映研に入ったところで敏恵くらいしか仲良くなれた相手がいなかった。全ての物事を良いように捉えるトラのフィルターが、私に魅力の濡れ衣を着せていた。
「だから、アドちゃんにはちょっとへこんでる俺も見せられるみたい。他の子の前だと、なんか気を遣わせちゃいそうで……」
 そう言ってから、トラは正気に戻ったかのようにパッと顔を上げた。そこにいたのは、いつものトラだった。
「なんかごめん。こんなこと言っちゃって。なんか変だよな」
「変じゃないよ。頼ってくれて嬉しい。トラの助けになりたいから」
 そう言って、私は最初で最後の賭けに出た。
「トラ、私……トラが好き。私と付き合ってほしい」
 トラは幾度となく同じ言葉を掛けられてきただろう。そしてその都度、特別を作らない為に断り続けてきたのだ。トラの表情が強張り、困ったように視線が彷徨う。何度も繰り返してきたことであっても、誰かを振るのはトラにとっては酷い重労働なのだ。
 ごめんの気配が立ち上ってくる前に、私は矢継ぎ早に言った。
「もし付き合えないなら、ここで終わりにしたい。連絡も、映画に行くのもやめたい。本当にごめん。トラとちゃんと友達でいられなくて」
 これは、私を人質にした交渉だった。仲良くしてくれていたトラの好意を無下にするようなやり方だと思う。あそこで私を振ることは、絶交するのと殆ど同じだった。
 しばらくの沈黙があった。トラが私のことをじっと見つめる。後にも先にも、あれほど苦しい時間もなかった。
「……わかった。じゃあ……付き合う?」
 逡巡した後に、トラは言った。思わず「え」と声が漏れる。
「いいの?」
「俺、アドちゃんとこれからも仲良くしたいし……それに、このままだといけない気もしてるから」
 トラはどこか自嘲したように言った。
「本当にいいの?」
「何その言い方。アドちゃんってば俺のこと好きだったんじゃないの?」
「ううん。好きだよ、すごく好きだけど……いや、どっちかっていうと、トラと離れなくて済んだことに……すごく安心しちゃってる……」
「そんなに!? 俺結構ちゃんとアドちゃんにべったりだった気するんだけど。アドちゃんもそう思うでしょ?」
 トラが笑う。そんなことはない。私だけじゃない。トラは誰とでも距離が近く、私は特別じゃない。
 勝因を挙げるなら、偏にタイミングだと思う。
 あの時トラは弱っていた。自分が誰も選ばなかった所為であんなことが起きたのだと、悔やんでも悔やみきれない気持ちでいた。だから、差し当たって当たり障りのない相手を選んで、特別を作った。私はある意味でみんなを守る為に選ばれた、ただの間に合わせでしかなかった。
 だが、トラは愛情深くて責任感の強い人間だった。間に合わせで選んだ恋人であっても、ちゃんと大切にしてくれた。すぐに振られてもおかしくないと思っていたのに、トラは私の隣にずっといた。いつの間にか私はシンデレラとして扱われるようになり、映研での地位すら向上した。私はただの安土月子ではなく、虎鶫泰隆の恋人なのだ。
 トラは何の躊躇いもなく私を恋人と喧伝し、連れ回した。私は段々と月子ではなくなり、トラのアドちゃんとしての地位を確立するようになった。今の今まで。

「何何ぃ? 俺のアドちゃんいじめてたんですかー? 駄目ですって。会長ちょっとはお手柔らかに!」
 その時、トラが最高のタイミングで割って入ってきた。偶然じゃない。きっとさっきまでの会話を聞いていたのだろう。
「いや、いじめてたわけじゃないって! ただ、トラと月子ってタイプが違うからさ。そんなに気が合うの凄いなーって」
 会長が慌ててそう返す。
「タイプが違うからこそ上手くやっていけてるのかなーとも思うんですよね」
「それは確かにあるのかもしれないけど……」
「アドちゃんと俺、似てるところも結構あるんですけどね」
 言いながらトラは会長を誘導し、私から隔離してくれる。そのスマートさに惚れ惚れしてしまった。完璧な対応だ。ややあって、隣の敏恵がしみじみと言う。
「凄いわ。正直死ぬほど格好良いと思う。ああいうのが出来るからトラはあれだけモテたんだろうね。いいなー、トラと月子はずっとラブラブで」
「確かに今のはありがたかったけど……」
「あれが恋人ってだけで、本当にもう怖い物ないよね。だってさ、みんなトラと付き合いたがってたじゃん」
「……そうだね」
 けれど、会長は痛くて的確なところを突けてはいたのだ。トラが私を選んだ理由なんて特にない。これだけ一緒にいれば、愛よりも居心地の良さで選び続けてもらえる。トラは本当に良い人間で、私を今更捨てることはない。
 でも、自分じゃなくてもよかったことを、私はちゃんと知っているのだ。
「月子、今から真剣な話するけど」
「何?」
「そろそろトラと結婚した方がいいよ」
 ひく、と喉の奥が引き攣る感覚がした。
「多分、月子はトラと結婚するってことが現実味なくて考えられないのかもしれないけど、ちゃんと考えた方がいいと思う。トラがそれとなく話題に出してきた時とか、真剣に返してあげたら?」
 薬指に指輪を嵌めた敏恵が、真剣な眼差しで言う。そこには友人に贈る、一〇〇パーセントの好意があった。敏恵は私に幸せになって欲しいのだ、とひしひし思う。
「月子はしたたかだけど詰めが甘いし、肝心な時に自虐的だけど、これだけトラと一緒にいれたんだから、やっぱり良い子なんだと思う。私さ、トラにも幸せになってほしいんだよ。変な女に掴まってほしくない。だったら、月子がいい」
 酔った時に、敏恵はよくトラと初めて会った時のことを話す。敏恵という名前がおばあちゃんっぽくて好きになれないという敏恵のことを、トラはシエちゃんと呼んでくれた。私達はトラから貰った渾名を他の人には呼ばせないので、私は敏恵を敏恵と呼ぶ。
「……ありがとう、敏恵。そんなこと言ってくれるの敏恵だけだよ」
「うん。ちゃんとトラに向き合いな?」
 ざわめきが大きくなる。一足先に祝いのムードでほだされたのか、トラが胴上げをされているのが見えた。どういう流れになったらそうなるのか、私には分からない。そこにいる人達に幸せを運んでくるトラ。
 ブーケトスでは、当然のようにトラへと花束が回った。トラは向日葵の入った、トラによく似合う大きな花束を持って笑っていた。
「次の花嫁はトラだな!」
 誰かが茶化すように言った。その言葉が私の鼓膜に反響する。

「アドちゃん、この花束どうしようか。花瓶あったっけ?」
「あるよ。半年前に使ったやつ」
 半年前にも映研の先輩が結婚をして、同じようにトラがブーケをもらったのだ。我が家の花瓶は誰かの結婚式の度に持ち出され、ブーケが枯れる度に仕舞われてきた。
「いい結婚式だったね」
「あー、本当にね。俺、すごい泣けてきちゃったもん。なんか、すごいなーって」
 トラが本当に少し泣きそうな顔をするので、胸が詰まった。
 八年は長い年月だ。自分でもそう思う。八年も喧嘩することなく、仲良く暮らせていた私達。トラと結婚するなら私がいいと言ってくれた敏恵。トラと、ちゃんと向き合う。
「……ねえ、トラ」
「ん? どうしたのアドちゃん」
「トラは結婚したいと思わないの?」
 一生分の勇気を振り絞って言った。途端にトラの表情が固まる。ややあって、トラが言った。
「急に何言い出すの? びっくりした」
「別に突拍子もないこと言ってるわけじゃないでしょ? 結婚式いいなーと思ったから言っただけだよ」
 私はなるべく平然とした調子で言おうと努めるけれど、内心は心臓が鳴りすぎて痛いほどだった。
「結婚かー。名字変わっちゃったらアドちゃんのことアドちゃんって呼べなくなるよ!? 俺そんなのやだなー」
 トラはまだ冗談にしようとしてくれている。まだ戻れるけれど、ここで戻ればいつも通りだ。
「私、最近ずっと考えたんだよ。私、やっぱり結婚したい。みんなだって、月子とトラはいつ結婚するのって言ってたでしょ」
「うーん……なんかさ、そうやって言われたから結婚するっていうの、なんか違うくない? みんなを納得させる為に結婚するみたいじゃん」
 正論だ。反論が出来ない。でも、私はその為にこそ結婚したかった。部屋の隅にはゴミ袋にまとめられた折り紙の鎖がまだ残っている。けれど、あの折り紙の鎖は外に見えるハッピーエンドじゃないのだ。私は絞り出すように言う。
「そうじゃないけど……でも、私達もう八年も付き合ってるんだよ? 米山と正岡は二年半で結婚してるし」
「結婚しなくても八年やっていけるんだから、そっちの方がすごくない?」
 トラとの会話がまるで噛み合わない。私は半ば懇願するような口調で話を続ける。けれど、これで状況が変わるとも思っていなかった。私が挑んでいるのは負け戦で、ここからはどうにもならない。
「……でも、だったら結婚してもいいじゃんって思うんだよ。だって、今までやっていけてたんだから、結婚したって上手くやれるんじゃない?」
「俺、結婚はしたくない」
 意を決したように、トラが言った。
「俺は結婚っていう枠に当てはまるのが嫌だし、そんなにいいものだと思ってない。前も話したよね? 俺アドちゃんのこと、すごく好き。絶対離れようとしたりしないから、信じてよ」
「トラのことを信じてないわけじゃないけど……。信じるとか信じてないとか、そういうことじゃなくて」
 言葉が上滑っていく感覚がある。トラからしてみれば、その言葉は魔法の言葉だ。結婚してもいいくらい好きなら、結婚なんて必要ない。何だかパラドックスのようなその言葉で、私は絡め取られている。
「俺、アドちゃんのこと好きだよ」
 とどめを刺すかのように、トラが言う。好きという言葉の爪で引き裂かれ、私はそれ以上何も言えなくなる。



この作品の続きは12月5日発売の『君の地球が平らになりますように』にてお楽しみください。