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借金4億円を背負った元プロレスラー・田上明のその後「ゼロになってホッとした部分もある」

ノアの社長は“貧乏くじ”みたいなもの

田上 明

 元プロレスラーの田上明が、自己破産からの復活劇を振り返る。26歳のときに角界から全日本プロレス入りした田上は、三沢光晴、川田利明、小橋建太とともに“四天王”として肉体の極限に挑むシビアなファイトを展開。「ダイナミックT」と称され、ファンからの絶大な支持を集めてきた。しかし2009年6月に団体社長の三沢が試合中のアクシデントにより逝去すると、彼の人生も大きく転回する。翌7月にプロレスリング・ノア(以下、ノア)の2代目代表取締役社長に就任することとなったのだ。 「細かいところは、俺自身もわかっていないところはあるんだけどさ。たぶんみんなで相談して決めたんじゃないの? まぁでも一番はアレだよね。大株主である三沢の奥さんから『やってほしい』と電話がかかってきたんだよ。同時に、若い連中からも『ぜひお願いします!』って感じで頼まれちゃった。俺の前は、小橋(建太)にも断られたという話だったしさ。それから三沢の右腕だったフロント・仲田(龍)に押し切られた部分もあった。いずれにせよ、もう引き受けざるをえないような空気だったのは確かだよ。  はっきり言って、貧乏くじみたいなものだよね。すでにノアの経営状態がよくなかったのは、どう見ても明らかだったからさ。でも誰かがやらないと、若い奴らが路頭に迷うことになるわけじゃない。一応、嫁にも相談したら『好きなことをやれば?』ということになった。でも、そこからは本当に苦しいだけの7年間だったよ」

泣きっ面に蜂だった地上波打ち切り

 団体にも調子のいい時期はあった。00年、ジャイアント馬場の未亡人・元子氏に反旗を翻すかたちで独立したノアは、業界に新風を巻き起こすことに成功。K-1やPRIDEなどの格闘技人気に押され迷走を繰り返す新日本プロレスを尻目に、04年・05年には東京ドーム大会を大盛況で終わらせた。 「ただ、選手離脱が相次いだんだよね。小橋の病気(腎臓癌)と引退、KENTAのWWE移籍、秋山(準)たち一派の退団、それから三沢の事故死……。でも、それ以上に厳しかったのは日本テレビの放送打ち切りだった。一応、CSでの放送は続いたんだけど焼け石に水。地上波の放送権料が団体経営の生命線だったわけだから」  このほか、反社会勢力との団体幹部や一部レスラーの深い関りが雑誌で報道されたこともあった。田上自身は「それほど大きな影響はなかったんじゃないかな」と呑気に述懐するが、決してそんなことはあるまい。ノアの社会的信用が失墜したことは火を見るよりも明らかだった。 田上明
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これ以上続けたところで負債は増えるばかり
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飄々と堂々と 田上明自伝

四天王プロレスの真髄から
ノアの表と裏まで

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