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工藤了

創作の源は「怒りのパッション」 脚本家・倉本聰が語る令和のメッセージ

2019/05/30(木) 07:57 配信

オリジナル

脚本家・倉本聰さん(84)の創作意欲の源は「怒り」である。いま趣味的に取り組んでいるのは、江戸時代の大衆芸能をアレンジした社会風刺の歌づくり。本業のテレビドラマでは、現在放送中の「やすらぎの刻(とき)~道」に失われた「日本の原風景」への思いを託した。「それが僕を長生きさせている」と笑いながら語る倉本さんは、令和を迎えたいまの時代をどう見ているのか。北海道・富良野の倉本さんのアトリエで、大いに語ってもらった。(取材・文:鈴木毅、写真:工藤了/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「ドラマ」と「チック」

――20年以上断続的に続いたドラマ「北の国から」(1981〜2002年)や高倉健主演の映画「駅 STATION」(1981年)など、倉本作品は徹底したキャラクター造形から入ると聞きますが、そのこだわりはどこから来ているのですか。

僕の書き方は、まずだいたいどんな話をつくるかという、例えば、テーマとなる問題が一つ先にあって、その次に入るのはやっぱり登場人物の配置と、その人物たちの造形ですね。登場人物の背景にある過去を「大履歴」「中履歴」「近履歴」の三つに分けて、つくりこんでいくということを習慣にしています。そうでないと、“根っこのない木”になってしまう。

かつて映画プロデューサーのマキノ光雄さんが、「この映画は『ドラマ』があっても『チック』がない」と言いました。ドラマチックという言葉を分解したんですね。僕は、テレビドラマこそ「チック」が重要だと思っているんですよ。要するに映画はドラマ、つまりストーリー展開を主体に見るんですが、テレビの場合は細かなニュアンスの積み重ねで成立している気がするんですね。

いまはテレビもストーリーを追うものばかりになっていますが、僕は人間を見たいから、人間から入る。その人の立ち居振る舞いや言葉遣い、そこから人格とか奥ゆかしさとか、そういったものが伝わるでしょ。

1935(昭和10)年東京都生まれ。麻布高校卒、東京大学文学部美学科卒。脚本家・劇作家。北海道富良野市在住。主な作品に「前略おふくろ様」(日本テレビ系)、「北の国から」シリーズ、「優しい時間」、「拝啓、父上様」、「風のガーデン」(いずれもフジテレビ系)、「やすらぎの郷」、「やすらぎの刻~道」(ともにテレビ朝日系)など。1984年から26年間、富良野市で俳優や脚本家を養成する「富良野塾」を主宰。新著に『ドラマへの遺言』(新潮新書)がある

数々の名作を生み出したテレビドラマ界の巨人——その評に異論を唱える人はいないだろう。妥協を許さない仕事への姿勢で知られ、台詞の一字一句をこだわり抜く。歯に衣を着せぬ物言いは、相手がテレビ局上層部や大物俳優だろうと遠慮はない。齢80を超えた今も、そのスタイルは変わらない。

4月から始まった最新作「やすらぎの刻~道」(テレビ朝日系)は、2017年に放送されて評判となった昼の帯ドラマ「やすらぎの郷」の続編だ。かつての国民的人気女優や脚本家らリタイアしたテレビの作り手が集まる老人ホームが舞台という設定はそのままに、今回は主人公の石坂浩二演じる老脚本家が脳内で描くドラマ「道」が同時進行で進む。テーマは、いま日本が失いつつある「原風景」。年老いた者たちが人生の最後に帰っていく場所、である。

倉本さんは、「やすらぎ」シリーズを手がけるまで、テレビの連続ドラマから10年近く遠ざかっていた。2月に上梓された新著『ドラマへの遺言』(新潮新書、碓井広義・上智大学教授との共著)では、「『やすらぎの郷』は本当に最後だと思って書いたし、今度の『やすらぎの刻~道』も最後だと思ってやった」と語っている。いわば「遺言」的な作品だ。

――近年、テレビの仕事をあまりしてきませんでした。近著『ドラマへの遺言』では、1990年代に入ったころからテレビ局のドラマ作りに違和感を持ち始めたと書いています。

ドラマというものに対する考え方が、日本の場合は非常にいい加減なんですよ。有名なスポーツ選手をいきなり役者にしちゃったり、歌手をいきなり持ってきて難しいセリフを言わせたり。ほかを見まわしても演劇をしっかり基礎から勉強しているヤツって、そんなにいないですよ。その歪みが、いまものすごく出てしまっていると思います。

近著では、自分が手がけてきた作品への思いを語っている

――系統立った技術が積み上げられていない、と。

その極端な例が「笑い」でしょうね。日本の笑いの質は、本当に落ちました。僕は、チャップリンの笑いがものすごく好きで、彼の言葉に「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」というのがあります。僕は、これが人間の笑いだろうと思うんです。

例えば、桂文楽という落語の師匠がいました。彼が女性と浮気をしていて、ふすまが開いたので振り返ると、そこに女房が立っていたというんですね。そのとき彼は思わず、「俺じゃない!」と叫んだ、と。

これは、ものすごく根源的な笑いだと思うんです。本人にとっては大真面目で、悲劇ですよ。だけど、ロングから見ればすごい喜劇。僕は、そういうことが描けるのが高級なドラマだと思います。

インタビュー中も絶え間なくタバコに火をつけていた

「ちょぼくれ」の反骨精神

――それが人間ドラマになるんですね。

そうです。本当の笑いとは、割とブラックユーモアになる。それは風刺になっていくんです。抵抗精神というか、反骨が一つの笑いを生んでいくんですね。

江戸時代の大衆芸能に「ちょぼくれ」とか「ちょんがれ」とか呼ばれるものがあって、これは要するに社会風刺、言いたくても言えないことを歌にして社会を批判する、というものです。いま僕はこれに興味があって、個人的に少しずつつくっているんですけど。例えば「セクハラ」ならば、男ばかりが責められて理不尽に感じる状況とかを僕はノートにコソコソとつけている。ケチなことでね。

――なかなか世の中的には大声で言いづらそうなことですね。

そう、言いづらいけれども、それを「ちょぼくれ」なんかに託しちゃえば、なんでも勝手に言っていいわけですよ。そういう笑いというものが、少なくなっている気がするの。言いたいことを言う「ちょぼくれ」をつくって、歌集みたいなものを出して、少し世の中の人に「みんな、こういうものをつくろうよ」というムードをつくりたいと思っているんです。

傍らには愛用のスケッチブックと鉛筆立て

――創作意欲の源に社会風刺があるんですね。

社会を少しおちょくってやる、という。それはすごく創作意欲をかき立てるし、ヘンな言い方だけれども、人間を若くします。僕の場合で言うと、それがいちばん長生きさせている気がする(笑)。

それは「怒りのパッション」ですね。社会へもそうだし、個人へもそうだし。安倍(晋三首相)さんや麻生(太郎財務相)さんなんて、うんとおちょくってやりたくなりますね。

例えば、原発の問題一つを見ても、僕が原発に反対するのは、放射性廃棄物の捨て場所がないからなんですよね。どこも引き取り手がなくて、解決されていない。安倍さんが再稼働と言うんだったら、なぜ自分の地元の山口県に「オンカロ」(10万年先まで貯蔵できるフィンランドの最終処分場)みたいなものを造ろうと言い出さないのか、僕には不思議なんです。ここの矛盾を突きたいわけですよ。

「脚本は語尾が大事。そこにニュアンスがあるから」と言う

ふるさとの景色がなくなっている

僕は定期的に(福島県)富岡町の帰還困難区域に通って桜の絵を描いているんですが、もう黒いフレコン(フレキシブルコンテナバッグ:放射性物質を含んだ汚染土などを詰めた袋)の山ですよね。さらに驚いたのは、三陸の海岸線にそびえる防潮堤です。あれは米国のトランプ大統領が言うメキシコの壁、あるいはベルリンの壁……あれの延長ですよ。日本の景色を、海のふるさとの景色を見えなくさせてしまっている。いくらそこに帰れと言われても、自分のふるさとの景色がなくなっているんです。

――「やすらぎの刻~道」では、「原風景」がテーマになっています。ふるさとを失うという意味では、原発事故のことも意識しているのでしょうか。

ドラマでは原発事故のことも最後のほうで少し触れますが、それをつなげようと意図的に書いているわけではありません。要するに、日本全土から「ふるさと」という景色がどんどんなくなっちゃっているわけです。

僕は4歳のころから東京・杉並の善福寺に住んでいました。当時は藁ぶき屋根が点在する武蔵野の景色でしたが、そのころの景色はもうありません。僕にとってのふるさとは消失してしまった。

一方で、戦時中に疎開していた岡山に行くと、いまも山々の風景がそのまま残っています。ただ、そこにあった土と砂利の道は舗装されている。そして、その道を通って村の人々が都会へ出ていき、村は過疎になる。便利にしようと造った道が逆効果を生むんですね。結局、せっかく舗装された道も通る人がいなくなって、道はひび割れ、ぺんぺん草が生えてくるという、そういう図式なんですよ。

アトリエの大きな窓からは、富良野の木々が見える

――確かに「ふるさと」の景色は失われていますが、一方で町は変化するものという考え方もあります。

それはあります。だけど、変化しないものがふるさとだと思うのです。昔の人が山から都会に出てきて、都会はどんどん発展して、コンクリートとアスファルトで固められた。そこの高層マンションで生まれた子どもは、アスファルトの上の学校に通って、アスファルトの上で遊んで……。こういう子どもたちにふるさとはないんですね。とても可哀想なことだと思う。それは心を貧しくする、心をすさませる気がします。

「景観の良い場所には自然災害がある。そこに住むということは、それを覚悟しなければならない」と倉本さん

――そう聞くと、豊かさを求めて積み上げてきた戦後日本の経済活動が、なにか別の方向に向かってしまっている気がしますね。

誰でもカネがほしい、儲けたいという本能があります。そして現実にある程度、豊かな世の中になったと思うの。でも、その中の一定層は、どこかの社長みたいにでっかいクルーザーがほしいんですよ。そりゃ、そこでイチャイチャしてれば楽しいでしょうよ。

だけど、そういうことを求めるから、例えば、振り込め詐欺で自分のおばあちゃんと同じくらいの高齢者を平気で騙すような若い連中が出てきているんだと思う。これは本当に末期的だと思いますね。カネというものへの執着の帰着ですよ。

インタビュー場所となった富良野のアトリエ。4月上旬は、まだ雪に覆われていた

「北の国から」の気づき

物質中心の文明社会に対して、一歩立ち止まってみる。倉本さんのこうした考えの原点には、北海道での暮らしがある。39歳のとき、脚本を担当したNHK大河ドラマ「勝海舟」(1974年)を、局側との「意見の相違により途中降板」。それが北海道移住のきっかけとなった。

北海道の原野を歩き回る日々。そして1981年、国民的ドラマと呼ばれる「北の国から」(フジテレビ系)が生まれた。舞台は、富良野の大自然。東京を離れ、粗末な小屋で暮らすことになった父と幼い兄妹。「電気がなかったら暮らせませんよぉ」という子役の吉岡秀隆演じる兄・純の戸惑いから始まるこのドラマは、「そこで生きること」の意味を強く打ち出し、バブル前夜という当時の状況からしても異色の存在だった。

――倉本さんはドラマ「北の国から」のころから、いわゆる物質社会に対して「それでいいのか」と疑問を投げかけてきました。

例えば、1万円札の原価は約25円と言われています。以前、山の中でキャンプをしたときに、雨でどうしても火がつかず、千円札を火種にして火をおこしたことがありました。つまり、山の中で生きるか死ぬかというときになると、お札は火種にするか、ケツを拭くか、二つしか役目がないんですよ。そう考えるとばかばかしくなりません?

もう少し物事の考え方を転換すると、いろいろなことが見えてきます。僕は最近、よく「5合目からの発想」という言葉を使います。いま富士山を5合目から登るのが常識になっていて、文明が発達すると6合目までエスカレーターがついたり、7合目にヘリポートができたりするかもしれない。

だけど、それは登る選択肢も視野も狭めてしまっているんです。逆に「海抜ゼロ」はそれが無限にある。そこから考え直せば、もっと新しい視野が開けるに違いない。だからベースに戻ろうじゃないか、と僕は考えるんです。

――根っこにあるのは、北海道での“気づき”ですか?

北海道での生活で、だんだんと感じましたね。最初の2年半くらいは札幌で毎晩飲み明かしていたんです。そうすると、板前やホステスから始まってヤクザとか右翼とか、隣に座った人たちと知り合いになるでしょ。それで、僕は今まで東京にいて何をやっていたんだろう、業界の人間としか付き合っていなかったじゃないかと愕然としたんです。そんなことで、どうしてモノが書けたんだろうかと思って。

彼らが見たいドラマは、どんなものなのか。特にここらへんの農家さんは、夜遅くまで畑で働いて、家に帰って風呂に入ってビールを飲んで、そしてテレビを見る。彼らが僕のドラマを見てくれるんだろうか、という視点に立っちゃったんです。

――誰のためにドラマをつくるのか、ということに気づかされたわけですね。

そこからテーマも変わったし、書き方も変わりましたね。評論家からは低俗と言われようとも、その中で本当に言いたいことを言えばいいじゃないかと思って書いたのが「北の国から」です。その点では、ご近所の農家さんを一番意識しました。

眼下に広がる富良野の町

「平成の始末」で明るい時代に

いま時代はインターネット社会である。「ワープロ以来、新しいものに触れない生活をしているんで、ぜんぜん分からない」という倉本さんだが、日進月歩で技術が進化する世の中をどう見ているのだろうか。そして、自身の今後についてどう考えているのだろうか。

――いまは「物言えば唇寒し」というか、何か言うとすぐにネットで炎上する風潮があるなかで、ドラマづくりも難しくなっているんじゃないですか。

こんなに世の中の人がみんなで発言して、それを気にして生きていかなくちゃいけないのは異常だという気がします。僕はインターネットというものに一切触れないから、どれほど悪口を書かれているのか知らないけれど。

例えば、「やすらぎ」では登場人物に年じゅうタバコを吸わせています。あれだって、テレビ局は僕に一切なにも言いませんが、批判は相当来ていると思うんですよ。だけど、こんなふうに世の中の人が無責任に何でもかんでも言う世界は、これが自由な世の中だとしたら、自由の履き違えもいいところだという気がしますけどね。嫌だな、こんな世の中。

――確かにネットは、権力に抑圧された社会からの声を拾い上げるなどプラスの面がある一方、いまは人を攻撃するようなネガティブな言説が蔓延していてマイナスの面が深刻になってきています。

それが行き着くところまで行き着いたというか、進み過ぎちゃったのが、平成の置き土産の悪い部分だという気がするんですよ。われわれは、いま考え直さなくちゃいけないところまできています。

平成の時代にあらゆることが進歩したけれど、その先を考えていないんじゃないかと思いますね。原発のゴミ処分問題もそうだし、終末期医療の問題もそうです。手足を拘束してベッドに縛りつけ、体じゅうにチューブが差し込まれる。果たして人道的といえるのか。もちろん命の尊厳は大切ですが、それがあまりにもタブーになってしまっています。

だから新しい令和は、そうした「文明の進歩」の始末をどうするかという時代じゃないかと思うんです。

――これから先の時代について、どちらかというと暗いイメージですか?

暗くないですよ。うまく収めていけばいいんだから明るい話です。

「やすらぎ」の主人公・菊村栄も同じ「LARK」を吸っている

――その令和の時代に、ご自身のキャリアでやり残していることはなんですか?

いま思いつかないですね……。「ちょぼくれ」を書くくらいかな(笑)。

――社会にモノを言う反骨のスタイルは変わらないんですね。

そのスタイルは変わりませんね。これ(タバコ)だってやめられませんしね。1日5箱近く吸ってますから(笑)。でも、生きているんです。苦しいですけどね。このごろ誤飲することが多くて、水がなかなかゴクンと飲めない。薬を飲むのに5分も10分もかかる。

――「やすらぎ」の登場人物で出てきそうです。

本当に「やすらぎ」そのままなんですよ。

僕らはタバコが専売公社(JT〈日本たばこ産業〉の前身)の時代に吸い始めて、いわば国の政策によってニコチン中毒にされたのに、いきなりこれはないだろうというのは、やっぱり根底にありますよ。いまはホテルのバーで吸えなくなったから東京には行かないし、数年前には外国もやめてパスポートを破っちゃいました。

でも、ここ(富良野)にいりゃ、平気ですから(笑)。


鈴木毅(すずき・つよし)
1972年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒、同大学院政策・メディア研究科修了後、朝日新聞社に入社。「週刊朝日」副編集長、「AERA」副編集長、朝日新聞経済部などを経て、2016年12月に株式会社POWER NEWSを設立。