根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
連載第5回

証言者・土井正博(1)

 選手としての根本陸夫は、近鉄での6年間のみ。しかも実働は4年で出場したのは186試合。成績も通算70安打、2本塁打、23打点、打率.189しか残していない。2年目の1953年こそ主力捕手となったが、プレイヤーとしての根本は記録にも記憶にも残らないような存在だった。それでも気配りが行き届き、日大三中(現・日大三高)、法政大学でもバッテリーを組んだ関根潤三を筆頭に、投手を気分良く投げさせる捕手として評判だった。また、抜群の記憶力は投手陣にも首脳陣にも頼りにされ、一軍出場のなかった1955〜56年は、プロ野球経験のない芥田武夫監督をサポート。主に根本が投手のローテーションを決めていたという。1957年に31歳で現役を引退したあとも、スカウト、二軍マネージャーとして球団に残った。実際、スカウトとしては1961年にパ・リーグ新人王に輝く投手の徳久利明や、長くチームの4番を務める強打者の土井正博を獲得するなど、早くも実績を残した。その土井に当時の根本の思い出を尋ねると、その姿を今でもはっきりと覚えているという。

■自ら獲得した選手は最後まで面倒を見る「根本流スカウト術」

「僕が根本さんに初めて会ったのは、16歳の時です。翌春のセンバツ出場をかけた秋の大会が藤井寺球場(大阪)であり、プロのスカウトが来ているということで、みんな騒いでいました。それでネット裏を見たら、体の大きなスカウトの人たちが集まっている中に、ハットをかぶって、パイプをくわえている小さな人がいたんです。『あの人、誰かなぁ』と思っていたら、それが根本さんだった」

 スカウトたちの目当ては大鉄高(現・阪南大高)の土井ではなく、対戦相手の八尾高の久野剛司だった。久野は1年生エースとして1959年夏の甲子園に出場し、ベスト4に進出した右腕。米国遠征のメンバーにも選ばれた逸材だった。帰国後、甲子園出場をかけた大鉄高との試合は大いに注目を集めた。ところが、その試合でスカウトたちの目を引いたのは久野ではなく、同じ1年生の土井のバッティングだった。

「久野の球を思い切りスイングしたら、ホームランになったんです。それでウチのチームが勝って、甲子園に出場することになったんですけど、のちに根本さんに聞いたら、『久野はもう合格だった』と。それでこの試合をきっかけに、スカウトたちの間では『次は土井を追いかけよう』となったそうなんです」

 それからというもの、ハットをかぶり、パイプをくわえた根本が土井の練習を見に来るようになった。いつも外野の方で隠れるようにしてずっと眺めていた姿は、今も土井の目に焼き付いている。

「最初の頃は、根本さんとわかりませんでした。どこかの紳士的なおっちゃんと思っていたぐらいで(笑)。それから声を掛けてもらうようになって、『体、大きいねぇ』とか、『いいバッティングしているねぇ』とか。あと『ご両親は健在か?』と聞かれたことは覚えています」

 土井の父親は戦死しており、母親が小さな書店を営んで生計を立てていた。根本はいち早く実家を訪問すると、母親にこう告げたという。

「他のチームのスカウトが来たら、『ウチの子は大学へ行きますから』と言っておいて下さい」

 他球団のスカウトも訪問することを見越し、根本は先手を打ったのだ。土井は「根本さんの得意な裏技」と笑うが、プロ入り後、阪神のスカウトから「なんやお前、大学に行くんじゃなかったのか」と言われたという。

 土井自身、もともと進学するつもりはなく、「早くプロに入って、おふくろを助けたい」と思っていた。母親にしてみれば、大学に行かせるほど金銭的に余裕はないが、プロも不安が多い世界。まして当時の近鉄は、1950年の球団創設から低迷を続け、「万年最下位」のチームだったからなおさらだ。それが1961年の1月、まだドラフト制度がなかった時代、土井は高校2年で中退し、近鉄入団を果たした。いったい、この背景には何があったのか。

「結局はおふくろが根本さんの熱意に押されたんです。『野球だけでずっと生活できるわけがない。そのあと、どうすればいいのか?』と根本さんに聞くと、『ちゃんと面倒を見ますから。近鉄系列の会社に入れるようにします』と。しかも、『父親代わりになって面倒をみます』と言ってくれました。それで母も安心したようで、プロ行きが決まったんです。それから根本さんのことを『オヤジ』と呼ばせてもらうようになりました」

■根本は「18歳の4番打者」として土井を売り込んだ

 土井が入団した当時の近鉄の監督は、巨人の名二塁手として活躍し、「猛牛」と呼ばれていた千葉茂。その異名にちなんで、千葉が監督となった1959年に近鉄パールスから近鉄バファローズになったのだが、就任以来2年連続最下位と低迷していた。

「根本さんが千葉さんに『土井は大型バッターだから』と言ってくれたみたいなんです。ところが、千葉さんはバットを短く持ってコツコツ打つアベレージヒッターですから、『あんなにバットを振り回しているようじゃアカン』と言われて、試合で使ってもらえなくてね。それで僕もふて腐れてしまって......。根本さんは『頑張っとけばいいことがあるから』と励ましてくれました」

 チームが3年連続最下位となって千葉が辞任すると、パ・リーグ初代本塁打王である別当薫が監督に就任。別当は土井の素質を見抜き、一軍で練習させるようにコーチに指示。また、根本もスカウト活動を続けながら、コーチに就任することになった。そこで根本は別当に「土井にはこういういいところがあるから、別ちゃん頼むよ」と進言し、土井本人には「この人ならお前を育ててくれる」と励ました。

「別当さんと根本さん、僕はふたりに育ててもらったんですよ。いろんな欠点に目をつぶってもらって......。しかも、シーズンオフの間に"18歳の4番打者"って売り込んでもらったんです。僕は17歳でプロに入って、12月生まれだから、2年目の11月までは18歳なんです。いま振り返ると、ハッタリみたいなもんやけど(笑)」

 負けることに慣れてしまったチームだっただけに、若い選手を抜擢してチームに刺激を与える必要があった。その一環として、根本はマスコミを利用し、"18歳の4番打者"として土井を売り出した。別当はオープン戦で土井を4番で起用し、公式戦はおもに6番か7番。そうして2年目の土井は打率.231、5本塁打、43打点と成績こそ目立ったものではなかったが、129試合に出場した。

「僕にとって助かったのが、根本さんがコーチになったことです。肩書きは打撃コーチでしたが、特にバッティングを教えるわけではなく、自分がスカウトして入団してきた選手が迷わないように道をつけてくれました。大学や社会人出身の選手は、ある程度、プロとはどういう世界かわかりますけど、高校から入ってきた選手は右も左もわからないでしょ。そこで迷わないようにしてくれたのが根本さん」

 根本コーチの技術指導で土井が覚えているのは、スローイング。「しっかりトップを作って投げなさい」ということだけ。すなわち、根本の教えは「投げるのも打つのも基本は一緒」というものである。しかし、それ以上に土井が忘れられないのは、根本の鉄拳だった。

つづく

(=敬称略)

高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki