【雑学】ルーツをひもとく~野球はなぜ帽子をかぶる?

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(写真:photoAC/mai.)※写真はイメージ
プロ野球の開幕が見えず、夏の甲子園の開催も危ぶまれている。
新型コロナウイルス感染拡大が招いた状況に鬱々としている“野球不足”の皆さまへ。そもそも、なぜ野球であの形の帽子をかぶるのか、考えたことがあるだろうか。当たり前にかぶったり、見ていたり、時には怒ってグラウンドに投げつけていた、あのキャップ。野球の歴史をひも解くと、軍服と軍帽でプレーしていた名残であることが分かった。
 
 

 

初めての野球帽は麦わら帽子

現在の野球の原型ができた時期は、1840年代の米国だったとみられている。公式な野球帽は、49年4月24日に「ニューヨーク・ニッカボッカーズ(New York Knickerbockers)」というクラブが導入したのが初めて。当時の帽子は現在と異なり、麦わら帽子だった。

その後、各チームに普及していったのか、カンカン帽のようなものもあれば、競馬の騎手のような形も存在。区別しやすいように、チームごとに形を変えていた可能性がある。60年代に入ると、麦わら帽子は影を潜め、主に毛や綿で作られた様々なスタイルの帽子が出現する。

南北戦争で野球が普及

野球が国民的スポーツとして全米に広まっていったきっかけは、1861~65年の南北戦争中だったと言われる。というのも、61~62年には何十万人もの若者が軍に入隊。死と隣り合わせの戦いに備えて運連する兵士には、気分転換が必要だった。そこで始まったのが、米国ではまだ新しいスポーツだった野球。北軍を支援していた民間非営利団体は、娯楽やスポーツ、体操などで身体を動かすことは兵士の間で好まれるべきとし、野球は認定娯楽の1つとなった。

基地内の試合は、11月~春序盤の冬季に大半の試合が行われ、3~4月に参加者はピークに達した。戦時中、基地内での野球の最盛期は63年4月で、31試合も実施されたという。62年のクリスマスに実施された試合には4万人の観客が試合を観戦。Albert G. Spalding の著書「America’s National Game」によると、63年の停戦状態下では南北軍間で試合を開催したこともあった。

当時、安全な野営地でスポーツは競技されていたが、時に兵士は軍のルールを破って基地の外で試合を実施することがあった。南部テキサス州で北軍野球大会を開催中、突然敵に襲撃されたことも。球場の中心は敵軍が陣取り、北軍は左右から反撃したと資料に残されている。急な戦いに備え、兵士は娯楽の野球の時でも軍服、軍帽を着用していた。これが、現在の野球のユニホームと帽子のルーツになったと考えられている。

戦後からキャスケット型が主流に

南北戦争後には軍帽に似た「キャスケット型」が登場。「ブルックリン・エクセルシアーズ」が軍帽と騎手の帽子を折衷したような新型を編み出し、これがいわゆるベースボールキャップの原型となっている。当初、帽子のつばは現在のものより幅が小さかったが、選手にとって日除けになることに気づき、少しずつ幅を広げていった。

「キャスケット型」の他にも、円筒型の「ピルボックス(Pill-Box)型」も存在していたが、19世紀末にはキャスケット型が主流になり、現在のいわゆる「野球帽」へ進化していった。

パイレーツは86年までレトロ帽

野球帽の最大メーカーであるニューエラ社が、初めてメジャーリーグに帽子を提供したのが1934年。クリーブランド・インディアンズを皮切りに、50年代には大半のチームが同社の帽子を着用した。76年に米国建国200年行事の一環として、メジャーリーグが記念イベントを行った際には、円筒型のピルボックス帽が復刻された。複数球団が記念試合で着用したのだが、その後、ピッツバーグ・パイレーツだけは正式採用して86年まで使い続けていた。

今や世界的にファッションの一部となった野球帽。米国では、年間4000万個の帽子が売れているとされ、ニューエラ社は、週7万2000個の帽子を生産している。90年代に米国のヒップホップアーティストらが着用したことで人気に火が付いた野球帽だが、“本家”の野球が見られず、今は米国のメジャーファンもやきもきしているに違いない。


(mimiyori編集部)

 

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