柳原陽一郎 インタビューvol.25

デビュー25周年にして、初のベストセレクション・アルバムの発表となった柳原陽一郎。公式発表された楽曲だけでも約150曲、作品化されていないものを含めると、実に250曲以上にのぼるという作品からのセレクトである。
往年のファンは勿論のこと、はじめての方にとっても”もっけの幸い”の時間が訪れるこの作品を是非手に取って、”柳原ワールド”を体感して欲しい。

—1990年にたまでデビュー、1995年に柳原幼一郎として作品をリリースし、双方の始まりのキリが良い分、どちらの各周年に合わせても周年になれますよね。柳原さんの中で、そういった”周年”という節目に対して、都度何かを感じていらっしゃったのでしょうか?

まず1990年が、自分の中でたまのデビューもあり、色んなことが変わった年でしたね。それまで、プロとして音楽をやっていこうという意識がなかったですから。

—プロになる為に音楽を始めたわけでもないと。

毎日が楽しければ良くて、その為には毎月ライブが出来ればいいやっていう中で、プロダクションと契約したり、メジャー・デビューがあったので。これまでと全く違う世界に行った1990年が”1”となって、25年経ちましたね。

—これまでの各周年で、記念的なことは行われてきたのでしょうか?

最初は、2000年に自分のレーベル(SWEETS DELI RECORDS)を作ろうと思ったのがそれに当たると思います。ちょうどたまを辞めて5年経って、自分で責任を持って音楽制作・音楽活動をする方が、気持ちが楽になるというのはありましたね。例えば「何枚プレスしていくら儲かる」という話から始めるんじゃなくて、「取り敢えず曲が出来たからリリースしよう」っていう、身軽な動きをするためには、自分のレーベルを持つのが1番でしたね。細かい話で言えば、その為の機材なども増えてきましたし。

—柳原さんの想いと、そういった音楽制作の環境が整ったタイミングが、一致したんですね。

ちょうどパソコンも普及してきていましたし、CDジャケットも簡単なデザインでしたら、作りやすい状況になってきましたよね。マスタリングも誰かに頼める環境になって、レコード会社と契約をしなくても、音源制作が出来たんです。

—今の活動原点とも言える環境が、このタイミングだったのは、確かに記念的ですね。

はい。そのあとは、デビュー15周年の2005年に、たま時代の楽曲をセルフカバーした「ふたたび」のリリース。デビュー20周年の2010年には、自分の生い立ちとこれまでの活動記録や、それまでにリリースした作品のセルフ・ライナーをまとめた本(Yanathology)を出して、5ヶ月間で全曲を演奏するライブを行いましたね。

—各節目での記念的な事柄があって、25周年にして初のベストセレクションとなります。今回収められた楽曲を聴くと、改めて多彩な楽曲群であることがわかります。少しルーツを辿らせていただきたいのですが、今回「さよなら人類」「あの娘は雨女」「満月小唄」が収録されましたが、柳原さんから見て、当時のたまはどうでしたか?

そうですね…1984年から11年間やったわけですけど、元々はシンガー・ソングライターの集まりだったんです。それまでは、それぞれギターを持って歌ってたんですけど、ひょんなことから「バンドごっこをやろう」ということになって。でも、3人でギターを弾くのもヘンな話だから、「君は太鼓の真似事をやってください。僕はカシオトーンを弾きます。あなたはギターが上手だからギターを弾いてください。」っていう役割分担をしたんです。そして、ビートルズのようにお互いの曲にコーラスを入れて…コーラスって言う程でもない”合いの手”ですけど(笑)。

—「ついたー」とかですね(笑)。

そうね。それからケラさんのナゴムレコードから、レコードを出させていただくことになりました。宝島やシティーロード(情報誌)のライブ欄に「面白いバンドがいる」って取り上げられたり、加藤賢崇さんとかのコラムにも取り上げていただいたりして、だんだんお客さんが入るようになったんです。そしたら、当時のスタッフが「TBSにライブのVHS送ったよ。ヤナちゃん出るよね。」って。「なんでそんなことするの?」ってなったんですけど、チラシを何枚も刷って撒くよりも、テレビに出ればライブにお客さんがいっぱい入るだろうということで出たのがイカ天で、それがデビューに繋がるんです。

—冒頭でも伺いましたが”楽しくやろう”の延長線上がここに繋がったんですね。

そういう意味では、メンバーによっては思惑は違うかもしれないので、必ずしもそうだとは言い切れないのですが、僕は気軽な感じでいたかったですね。とは言うものの、明るい歌を1つも歌っていないのに、目の前に女の子のお客さんがだんだん増えてきて、すごいなぁとは思いました(笑)。所謂シンガー・ソングライター的な曲は避けて、楽しいけど奇妙で面白い曲をやろうという、バンド内の共通認識もありましたね。

—近年の資料を拝見させていただくと、セットリストには組み込まれていますが、脱退されてからもたまの曲をずっと歌い続けてこられたんですか?

1995年から2000年くらいまでは、あまり歌わなかったですね。自分の中のキャリアでたまの時代が終わって、初めて”シンガー・ソングライター 柳原陽一郎”と、どう向き合ってどんな歌を歌えばいいんだろうと思ったときに、たまの曲がちょっと邪魔だったときもありましたね。たまの曲を歌ったら「じゃあ何で辞めたの?」っていう話にもなっちゃうのかなって。

—なるほど。「ドライブ・スルー・アメリカ」をたまでの活動最後の年にリリースされましたが、シンガー・ソングライターとして、柳原さんなりのコンセプトのようなものはあったのでしょうか?

ソロ・アルバムを出したいとは思っていたんですけど、たまの方がまだ忙しかったんです。それでも自分が面白がれることをやろうとしたときに、自分で曲や詞を書いてというよりは、自分の中の音楽的な喜びを体の中にもう一度蘇らせたいという想いと、所謂手練れのミュージシャンの方達と、自分の歌を戦わせてみたいというのがあって。じゃあ、昔から好きだったアメリカの歌をカバーしようと。ちょうど、たまのファンクラブの会報誌で「訳詞の小部屋」という自分のコーナーをやっていたのもあって、英語ではなく、日本語で歌ったんです。音楽の現場って、たましか知らなかったので、プロのミュージシャン、プロのレコーディングの現場をそこで勉強させてもらった感じですね。

—実際の現場では、これまでとどういった違いがあったのですか?

まず、ドラムの江川ゲンタさん、ギターの稲葉政裕さん、ベースが澤田浩史さんの仕事が早いんですよ(笑)。1度歌ったら、プロデューサーの萩原健太さんも譜面を書いてくれるから、すぐ曲の骨格ができあがるんです。僕は正直、そういうプロ・ミュージシャンって上手すぎて好きじゃなかったんですよ。どちらかというと、パンク・ロッカーみたいにへたくそだけど気合だけは負けないタイプのミュージシャンの方が好きで。で、実際に現場で見て「自分の好きな音楽の骨格は、こうなってたんだなぁ」って気づいて。そこでカーペンターズとかポップスを聴き始めた頃の喜びが蘇ってきて、宝の山にぶち当たった感じがありましたね。ただ、自分の中ではあれを作っておいて良かったんですけど、作り方・歌詞・僕の音楽への姿勢が、たまと180度違ったので、リスナーの方はすごく戸惑われたと思います。

—その180度の違いが、言葉を変えれば新しい音楽の表現方法として広がったとも言えますね。

いや、そのときはそんなことを考える余裕がなかったですね。音楽制作ではベーシックな手法なんでしょうけど、歌詞を作る以前にオケやリズムが決まってくるんです。たまでは、歌いながら一緒にジャンジャカやって作っていたので、その違いにかなりテンパってましたね。つまり、実力がないからなんですけど、歌がどんどん置いてけぼりになっちゃう感じなんです。よく、「あのときは苦しかったけど、今となっては良い経験」みたいな話ってありますよね?そういう話に落とし込みたくはないけど、今、音楽制作をしていく上で、良い経験と学びがありました。

—現在の基礎にもなったということですよね?

はい、やっぱり譜面はきれいに書かなきゃダメだなとかね(笑)。

—「ドライブ・スルー・アメリカ」での経験が、ソロでの制作に活かされていったのは大きいですね。

バンドだったら、その日にレコーディングが終わらなくてもスケジュール調整がし易いですけど、みんな売れっ子ミュージシャンでしたから、そうなると次のセッションが1ヶ月後とかになっちゃう。だから、“今日決めなきゃいけない”っていう緊張感と、その為の準備の重要さを学びました。

—「長いお別れ」で、その学びが活かされた?

正直に言えば暗中模索の状態で、歌った楽曲が自分に合っているかもわからないままソロ活動に踏み出したんです。ただ、「ドライブ・スルー〜」のときがあまりにもそつのない制作だったので、もうちょっと、弾き語りの上に演奏がのるフォーク・ロック的なユルい感じでと、プロデューサーの菅原弘明さんにお願いしました。

—漢字も幼一郎から陽一郎に変更されましたが、柳原さんとしてはこの作品からがソロとしての第1弾という気持ちの現れだったのでしょうか?

そうですね。“幼一郎”はたまのときの名前でしたし、そういう意味もあって「長いお別れ」というタイトルでもあったんです。振り返っても仕方ないし、世間に妙な感じで出たことさえも忘れて、自分の中で長く続いていく音楽をやりたいと思いました。

—例えるなら、“柳原陽一郎”であれば、脱退も解散もないわけですし。

そうですよね。地味な存在になっちゃいましたね(笑)。でも、自分の好きなシンガー・ソングライターのBob DylanにしろNeil Youngにしろ、1人で歌う人に憧れていたんでしょうね。自分のギターの弦は自分で張るように、自分で始末をつけるような生き方をしたかったんだと思います。

—今回、ライブトラック集の「RE-CORD’00」からは「まごころのうた」が収録されましたが、今回収録された中で一番古い音源ですね。

元々は、たまを辞めてすぐくらいに、CM音楽制作会社から、糸井さんが歌詞、曲が僕でやってくれないか?というお話があって。それはちゃんとレコーディングもしたんですけど、権利関係の問題でライブテイクを収録しました。

—ファンの間では幻のライブ盤トラック集だそうですが、最近のセットリストにも組み込まれているんでしょうか?

殆どやっていないですね。歌うのがイヤな歌ってわけではないですけど、CMの為に作ったというのが頭の中にあって(笑)。記念的なライブの時は歌おうとは思いますけど、普段から歌う曲ではないですね。

—敢えてアルバムの最後を締めくくる曲として選ばれたのも、その記念的な位置づけからだと?

折角、糸井さんが素敵な歌詞を書いてくれたし、収録しないと可哀想かなと思ったんですかね。糸井さんの歌詞がすごく好きなのもありますね。僭越ですけど、糸井さんの歌詞はいいですよね(笑)。

—25周年として、ファンの方へのプレゼント要素もあるでしょうし。

「RE-CORD’00」は廃盤になっているので、埋もれさせておくのは惜しいなという部分はありますね。

—「ウタノワ」からは「航海日誌」、今回のアルバムのダイジェスト映像にも使用された「ホーベン」。初セルフ・プロデュース作品でしたが、前作から変わってセルフでという意向は、どういった理由があったのでしょうか?

ぶっちゃけて言うと、それまで一緒にやったミュージシャンが巧すぎるんですよ(笑)。良い音なんですけど、もう少し“手触り感”が欲しいと思っていて。その頃から弾き語りライブも始めたりして、ライブのサポートをお願いする付き合いの延長でレコーディングもやりたいと思いました。まず、曲を作って弾き語りライブで歌い、次にバンドで演奏してみる。アレンジを試行錯誤してリハーサルを重ねて、またライブをする。そうやって出来た曲を収録したかったんです。そうすると、僕がプロデュースすることが必然になってきますし、今のやり方の基礎になったアルバムでもありますね。

—ソロではあるんですけど、組み立て方がバンドっぽいですよね。

そうですね。まずバンドの人と仲良くなって、同じ釜の飯は食わないですけど(笑)。その中で「ギター足りないんだけど、良いギタリスト知ってる?」というような、お仕事チックではない繋がり方をして。「ウタノワ」ってタイトルが表すように、ぼくの歌を中心にしてみんなで輪になって作りました。

—初のセルフ・プロデュースでもあり、これまでとは違う苦労もあったのでは?

自分の実力のせいで、レコーディングに時間が掛かりました。1ヶ月くらいスタジオに入ってたんじゃないかな。しかも、この時は6〜7畳くらいのスタジオだったので、メンバーが全員一緒に録音が出来ないんです。

—そこで出たアイディアを盛り込んでいったり?

そうです。今ではライブとスタジオでやっていることは、そんなに変わらないんですけど、この時は気張って作りこみました。でも、逆に凝りすぎちゃって“勢いを殺しすぎたなぁ”なんて部分も、今となってはあったり(笑)。もう少し大きいスタジオを使って、不完全でもいいから勢いのまま録音しても良かったと言える曲がありますね。

—それでも、冒頭でお話いただいた「ウタノワ」という表現を考えれば”完成”だとも思えるのですが?

まぁ、嬉しかったですよね。たまを辞めて5年目にして、ソロのフルオリジナル・アルバムを作れましたし。「ウタノワ」を作る前の2000年だったと思いますが、自分のキャリアで初めて、ライブ活動を半年弱くらいお休みしたんです。当時はリズム・トラックをサンプラーで作る人が増えてきて、自分もシーケンサーで音楽を作ることを勉強していました。ただ、目に見える実りがないというか、自分には合っていなかったんです。確かに曲は出来たし、完成度の高いデモは作ったんだけど「これは本業じゃないな」と思って、「ウタノワ」を人力で作り上げることになるんです。

—「ホーベン」がダイジェスト映像に使用されたのは、柳原さん自身、このアルバムが柳原さんの“今”を表しているからでしょうか?

「ホーベン」に“山暮らしもそろそろおしまい”という歌詞があるんですけど、自分がシーケンサーに向かって閉じこもっていた頃を茶化したんです。不完全な自分のままでいいから、人に会いに行こうっていう前向きな諦めもありましたし、今の自分の在り方にも繋がっているんですよね。

—そして、「ウタノワ」と対比するかのような「ONE TAKE OK !」がリリースされます。

そうなんですよ。ちょうど当時の事務所とも一緒に何かを作っていく関係ではなくなって、いよいよ1人になったんです。それから、色んな方とお話をすることになるんですが「やりましょう」って言って音沙汰なしとか、話がすごくショボかったりが何度か続いて、プロジェクトが先へ進まないことに腹が立って。だったら、自分のレーベルでアルバムを作ろうということで、ロックバンドのマチルダ ロドリゲスに「曲を作ったから一発録りのライブに協力して欲しい。」とお願いしました。

ー今回は、1曲目の「フリーダム・ライダー」が収録され、サウンドも然りですが、歌詞の描写がロックだと感じました。

本来は、ベスト・アルバムに入れるような曲ではないのかもしれないですけど、その頃に「私の魂を汚さないでください。」っていう人に、たくさん会ったので。だからこそ、そんな人たちの力を借りずとも、自分で作るという気持ちになったんです。そういう怒りの力って、音楽を作る上で原動力にはなりますよね。それを忘れないように初っ端に入れておきました(笑)。

ーライブ録音も手伝って、すごく伝わってきます(笑)。

誰も信じないとかじゃないですよ(笑)。最終的には、音楽で生きて行くと決めたからには、ステージで歌うのも自分しかいないわけなので、全部自分で責任を持つということです。

—制作までのストーリーとは裏腹に、ライブ録音で新曲をリリースというアイディアが面白いですよね。

究極の低予算でしたけど(笑)。その為に準備もしたし、一発録音に向いてる曲を作りましたし、良い修行だったと思います。

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