上訴禁止法(読み)じょうそきんしほう

世界大百科事典(旧版)内の上訴禁止法の言及

【クロムウェル】より

…しかし1540年反対派の策謀によって失脚・処刑された。クロムウェルは議会法制定に尽力し,なかでも主権国家の宣言を行った〈上訴禁止法〉(1533)が有名である。宮廷役人による行政から国家行政部局による統治へと行政上の改革を行い,国家財政強化のため修道院解散を断行し,ドイツのルター派領邦と結ぶ外交政策を唱道・展開した。…

【宗教改革】より

ロラード派の運動や国民の間に広まっていた反聖職者感情,ルター主義の移入,またW.ティンダルの英訳聖書の刊行(1525)など宗教改革を可能とした原因・背景を数えることもできるが,この宗教改革を成立させるために作用した国家の役割は決定的であった。 大法官ウルジー枢機卿がヘンリー8世とキャサリンの離婚問題処理に失敗したあと,教皇庁への脅迫,そして国王による教会支配の方向が現れ,1533年の上訴禁止法(あるいは上告禁止法)によって,教皇とイギリスの関係は決定的な段階を迎えた。この法は,遺言・結婚・離婚訴訟等が国王司法管轄権内で処理されることを命じ,教皇座・外国法廷からの召喚,またそれらへの上訴を禁じ,国王離婚問題を王国内で処理することを当面の目的とした。…

【チューダー朝】より

…ヘンリー8世も当初はこの対外政策を継続し,親スペイン・反フランス外交路線を展開したが,二大強国間のかけひきによってイギリスは翻弄され,やがて大国依存外交を捨て,中立政策へと転じた。この外交上の自立化は同時に宗教上の自立化へと進み,1533年の上訴禁止法によって主権国家の宣言が行われ,ローマ教皇との絶縁,つまり宗教改革を成立させることになった。エドワード6世期になると,まずサマセット公が摂政となり,ついでノーサンバーランド公がその支配をほしいままにして,エドワードの死後自分の息子の妻ジェーン・グレー(ヘンリー7世の曾孫)を女王としたが支持されず,王位はメアリー1世のものとなり,〈九日女王〉ジェーンはロンドン塔で処刑された。…

【ヘンリー[8世]】より

…ここに責任者である大法官ウルジー枢機卿は失脚し,大法官職はトマス・モアによって引き継がれたが,政務はトマス・クロムウェルによって行われ,イギリスにおけるローマ教皇権のすべてを取り除くことによって離婚問題の決着が図られることになった。すなわち1533年の〈上訴禁止法〉によって主権国家の宣言と外国からの司法権独立の表明を行い,翌年の〈国王至上法〉によってイギリスの教会をローマ教皇の支配から解放し,イギリス国教会を成立させた(宗教改革)。これらの措置はクロムウェルの指導下いずれも議会法によって行われた。…

※「上訴禁止法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android