香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー第8回!恋する女子ゲーマー(後編)と「小娘編集長」への道

大切な「先輩」に導かれて……前回からの話がクライマックスを迎える!

香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー第8回!恋する女子ゲーマー(後編)と「小娘編集長」への道
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日本のゲームに熱中する中、「恋バナ」に突入した「香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー」。先週の第7回は憧れのゲーム雑誌の男性編集者に突然呼び出された奇妙な出来事まで話した。今週の第8回は、気になる続きを伝えていきたい。それは恋愛の話だけではなく、私のその後のキャリアにも大きな影響を与えることとなる。

とにかく指定の場所に赴いた私。そこにいたのは、少し太っていて、野球帽を被った眼鏡男子だった。でも容姿はどうでも良い。憧れの業界人が突然目の前に現れた。こんなときの私の心境を、中国語の四字熟語では「小鹿亂撞」(心の中で小鹿は方角が分からず、あちこちへ走っていては木にぶつかる)と言う。まさにこういう気持ちだった。

彼は開口一番に「遅いじゃないか」と愚痴る。私、慌てる。そして彼に従って、ある高台の公園へ。そこは、香港で最も名高い難関名門男子校(中学校)の1つ、フランス系のLa Salle College(喇沙書院)の隣、夜にはあまり人通りのない場所だった。彼は、自分の母校に私を連れて来たのだ。

香港屈指の名門男子校、La Salle College(喇沙書院)
「うちのライターになってみないか?」「宜しくお願いします、先輩(Senpai)!」

そこでゆっくりとゲーム談義、オタク談義が始まる。全てがいきなりだったが、まるで当たり前のように2人が出会い、深夜まで語り合い続けた。彼の知識に追い付かず、時々四苦八苦したが、精神は共有しているので、大きな問題はなかった。そして最後に、彼はこう切り出した。

「うちのライターになってみないか?」

願ってもないことだ。私は即座に「はい!」と勢い良く答えた。そしてずっと言いたかった言葉を。

「宜しくお願いします、先輩(Senpai)!」

そう。日本のゲームに影響されて、私は「先輩」という言葉、「先輩」という存在、そして「先輩」を実際に使う場面に憧れていた。人生で初めての「先輩」。私の憧れの「先輩」。愛しの「先輩」。本当に、宜しくねッ!

その後の「業界人としての私」については、この記事の後半で詳しく紹介したい。今はあくまで彼を語りたい。そんな彼とは、その後も長年「同志」として付き合い続けた。問題は、彼は私の憧れの気持ちを全く感じていなかったようである。……いくらなんでも鈍感すぎる。

そして私も魂の友、つまり「同志」としての関係を壊したくなく、私の恋心を最後まで明かせなかった。……普通なら告白されなくてもさすがに気付くとは思うが、彼はそんな人だ。徹頭徹尾の変人であり、正直者であり、哲人である。最も、名門男子校⇒香港大学出身でありながら、公務員にもグローバル企業の幹部にもならず、待遇が劣悪だったゲーム雑誌に就職したのは、彼の固い意志の表れだったと思う。彼は素晴らしい変人だった。

先輩の作品「美少女ゲーム史~時と共に馳ける美少女~」特集
「男女の密会」。私はそう感じた。

それから幾つもの寒暑が経ち、私が日本に発つ時が来る。私が飛行機に乗る前日、最後に会った「友達」も彼だった。La Salle横の公園だけではなく、それまで香港中の色々な場所で会ってきた。「男女の密会」。私はそう感じた。一度だけ、お祭りに誘ってくれたが(私はまるで「こみっくパーティー」で千堂和樹に突然お祭りに連れ出された大庭詠美のような夢心地を味わった)、普段は何かをするわけでも、遊ぶわけでもなく、普通に公園とか、港とか、何気ない風景を眺めながら、ゲームを語り合い続けた。先輩は、いつまでも私の大好きな先輩、憧れの先輩のままだった。

日本に来てからも、香港へ帰省するたびに会っていたが、やがて私がmixiをやっていたことがバレて、「招待してくれよ」とお願いされた。ここで大きな問題が発生。名前こそ書かなかったものの、私はmixiで先輩への憧れを綴る日記を大量に書いていた。見られたら、もう恥ずかしすぎて彼に会うこともできなくなる。まさか私がそんな不純な思いを抱いて先輩と会っていたなんて。知られたくなかった。

しかし、私は先輩と同じく不器用だった。先輩を拒むことができず、招待した。そして当時のmixiは細かいプライバシー設定ができなかったのだ。すぐに先輩が私のあらゆる日記を読んでいることが分かった。私は、もう彼には会えない。そう思った。

「先輩愛」が炸裂した赤裸々な恥ずかしすぎるmixi日記
私は自分の18歳前後の年代を「抒情時代」と名付けた。

その後、私は先輩と疎遠になった。会わせる顔がないとか、恥ずかしすぎる、気まずいといった理由もあるが、何より関係の質が変わるのを私は恐れた。もう、あの頃の純粋な「同志」の関係、先輩と後輩の関係には戻れない。悲しいけれど、私は悟った。そして、私が最も長く恋を――片思いだったようだが――した相手を手放したのである。

女子ゲーマーだからこその出会いと恋愛。中国語には「少女情懷總是詩」(少女の気持ちはいつも詩である)という言葉があるが、特に芸術志向で、リアル詩人であり文学少女であった私は、硝子よりも繊細で、漣(さざなみ)よりも儚い青の時代を過ごした。今でも当時の自分の詩文を読むと、過去の“ときめきメモリアル”にしばらく浸からせずにはいられない。特に自分の18歳前後の年代を、私は「抒情時代」と名付けている。ちなみに「抒情時代」は「存在の耐えられない軽さ」で有名なミラン・クンデラの、私が一番好きな小説「生は彼方に」の原題でもある(「こんなタイトルでは売れない」という出版社の反対でやむを得ず題名を変えたそうだ)。皆さんは、ゲーマーとしてどんな恋をしたのだろうか?

あかりや瑞佳から浩之君や浩平君を横取りしようとか、とてもとても思えない。私はあくまでモニターを介して彼らの世界にしばしお邪魔するだけだ。

ちなみに私も(現実の男性ではなく)ゲームの男性キャラがすごく良いなと思うことがある。「To Heart」の藤田浩之君、「ONE 〜輝く季節へ〜」の折原浩平君、等々。優しくて、ユーモアがあって、どこか可愛い人。でも、神岸あかりや長森瑞佳から浩之君や浩平君を横取りしようとか、とてもとても思えない。あかりや佐藤雅史と一緒に登校する藤田浩之、だよもん星人と無邪気に過ごす折原浩平こそ、彼らの真の姿だ。私はあくまでモニターを介して彼らの世界にしばしお邪魔するだけである。ちなみに浩之とあかり、浩平と瑞佳のような幼馴染の関係もゲームの影響でかなり憧れたが、小学校時代に別の地域へ引っ越した私には幼馴染と呼べる人が残念ながらいない。

「To Heart」の主要キャラ。左からマルチ、藤田浩之、神岸あかり、長岡志保(画像はアニメ版)。

さて、ここから先述の「業界人としての私」を語っていく。私がはじめてゲーム雑誌の仕事をするのは、実は先輩から誘われたときではない。中7の夏休み、大学受験を全て終えた後、大学1年が始まる前のことだった(学年は9月からスタート)。当時、香港には3つの大手PCゲーム専門誌があり、鼎立の形勢になっていた。その中の1つは、美少女ゲームを多めに扱っていて、「H game歴史大全」という別売の書籍も出版していた。私は同誌の編集者らに「ラブレター」を送っていて、アリスソフトの「DiaboLiQuE」(デアボリカ)という革新的なアドベンチャーゲームや同社が前月に発売した「王道勇者」などについて語った手紙を送った後、なんと編集長から直接お誘いの電話が来た。私は「ゲーム=芸術」という思想を広めるチャンスだと思って誘いを快く受け入れ、「業界人としての私」が始まったのである。

業界人としての初めての仕事は韓国産RPG「西風の狂詩曲」の攻略記事だった。

ところが、その雑誌ではなぜか美少女ゲーム関係の仕事は一切させてくれず、代わりに全年齢向けのRPGなどの攻略記事を延々と書かされた。業界人としての初めての仕事は韓国産RPG「西風の狂詩曲」(中国語版)の攻略記事だった。素晴らしいストーリーや絵、世界観を持つ作品だがゲームバランスに大きな問題があったことを克明に覚えている(なお、本作の日本語版は後年、日本ファルコムより発売された)。RPGはプレイすると楽しいが、ダンジョンのマップを描くなど、攻略記事の執筆は骨の折れる退屈な作業だ。早朝から深夜まで攻略記事を書きまくり、自分の評価を高めて美少女ゲーム関係の仕事をするチャンスをうかがっていた。

世界観やシナリオ、キャラデザ、画風、雰囲気が独特な名作「DiaboLiQuE」の火炎王。主人公のアズライトは非常に魅力的な男性だ。

残念ながら、私は始終「技術的」な仕事しかできず、ゲームの芸術的側面を紹介する機会がなかった。アートとして価値の高い作品を紹介する文章を勝手にいくつか書いたが、載せてもらえなかった。そして会社では毎日のように男たちが卑猥な「H game談義」をしていて、私は肌身の狭さを実感すると共に、絶望にも似た気持ちを持つようになり、1年足らずで同誌のために仕事することを辞めた。

私はこの不愉快な経験で香港のゲームメディアに失望し、「どうせ業界に入っても正しいと思うことができない」と思ってしばらく業界から離れていた。読者として大手3誌の中で私が最も好きな「Hyper PC Player(電脳遊園地)」という別の雑誌の「少林齋噏堂」(意訳:ゲーム達人論壇)というコーナーに、(文字数制限のため)短い文章を投稿し続けた。私の文章の採用率が高く、同誌の常連になっていった。やがて「HPCP」を編集する先輩に誘われ、「先輩の会社なら好きなことができる」という尊敬する彼への信頼から、再び挑戦を始めたのである。なお、前回登場した聖者=Ashも「HPCP」の編集者だった。

「電脳 - 芸術と情」という題名の、私の「少林齋噏堂」の投稿。文字数の上限は800字だった。

私を「同志」扱いする先輩のサポートもあって、私は「HPCP」で裁量を持って、自分が高く評価するゲームや書きたいテーマについて発信することができた。しかも雑誌の前半、一番良い紙に何ページにも及ぶ私の長文記事を載せてもらえていたのだ。最初に書いた記事は、「新作初体験」という新作レビューのコーナーに載せる「20世紀アリス」(アリスソフト)の記事で、その後も独自色満点の「濃い」記事を出し続けた。「情」を伝達する中国古典文学の切り口でゲームを語れるのが良かったし、攻略記事から解放されたのも嬉しかった。

「20世紀アリス」のレビュー。当時のペンネームは「樹理栗」(ジュリクリ)だった。由来については連載の第6回を読んでほしい。

切なく哲学的な「銀色」(ねこねこソフト)、独特な世界観や雰囲気を持ち、グロテスクなシーンも印象的な「二重影」(ケロQ)といった美少女ゲームのみならず、「英雄伝説Ⅲ 白き魔女」の続編のWindows版である「新・英雄伝説Ⅳ 朱紅い雫」、そして日本の同人シーン(同人誌やゲーム、音楽)を紹介する特集なども出した。全てが中国語で数千字以上の長文だった。

「二重影」のレビュー。紙面の背景デザインも私の意向に沿っている。

記事の内容も私個人の趣味がたっぷりで、特に同人を紹介する記事では(LeafとKeyの作品を指す)「葉鍵系」を一大ジャンルとして扱ったり、「Kanon」が元ネタの「Kanoso」(覚えている人いる?)や同じく感動系ビジュアルノベルの「加奈~いもうと~」を題材とする「カロ奈」といったネタ系作品を同人ゲームの代表作として大々的に取り上げたりと、まさにやりたい放題。非常に楽しい日々であり、先輩への愛情もその中で深まっていき、雑誌の中でも堂々と先輩のことに言及した。

「銀色」レビュー。映画を意識した表現手法や巧妙な章立てを評価した。

思わぬ寵愛を受けた21歳の私は快諾し、めでたく「小娘編集長」が誕生したのである。

このように実績を積んでいき、一定の(とても濃い)ファン層も出来た。そして大学の最終学年の4月。なんと、大手3誌の中の、もう1誌の会社の社長から「編集長になってほしい」というオファーがいきなり来たのだ。社長が香港中文大学出身で、「中文大閥」(香港では中文大学と香港大学の2大トップ学府が互いを仮想敵と見なし、同じ大学の後輩を優遇することが多い)の影響もあったが、先輩のおかげで私が正直に言いたいことを発信してきた経験は最も評価された点だった。思わぬ寵愛を受けた21歳の私は快諾し、めでたく「小娘編集長」が誕生したのである。

その雑誌は「PC Game 2000」という、3誌の中でも最大手のメディアだった。編集長という役職上、管理の仕事をこなしたりコンテンツ計画をしたりと、「HPCP」時代のように好き勝手に書きたいことをたくさん書くことはできなかったが、雑誌の人気別冊である「H game 2000」(16ページ)の大半を手がけるなど、やりたいことはある程度できていた。もちろん、美少女ゲーム以外の記事執筆や編集系の仕事などもあり、「PC Game 2000」は“歐陽時代”に2冊目の別冊である「Online game 2000」の歴史が始まり(当時は「ウルティマオンライン」や「エバークエスト」、「ディアブロ2」の全盛期で、リーチが取れると見込んだ)、収益拡大のため隔週誌から週刊誌になった。

「歐陽の改新」を経た「PC Game 2000」。上方の「一書三冊」は、1つの雑誌を買うと3冊の本(本誌、H game 2000、Online game 2000)が読めるという意味。ちなみにこの号では「仙剣奇侠伝」のWindows版がカバーを飾った。
私は冥々の裡にゲームと赤い糸で結ばれている。「作品」は本当に人生を変える。自分の半生を回顧して、しみじみ想う。

週刊誌になってからは昼も夜もない生活になり、若さという武器もあり平気で「5徹」をしていた。命も惜しまない働きぶりで社長など上層部からの評価は高かったが、独自路線――社員の仕事を増やすことも、ゲームの芸術性を語ることも――を貫いた結果、徐々に他のメンバーとの摩擦が増していった。しかし「HPCP」時代以上に忠実なファンが付き、その中の1人が後々、私に会うために、東京都民になった私を日本まで追っかけてきたのである(もしかしたら私も彼の憧れの「先輩」になったのかもしれない)。また、私と同じゲーム観を持つ人が同社のコンシューマゲーム誌の編集部にいて、Keyのゲームや「とらいあんぐるハート」シリーズが好きだった純粋な彼とは切磋琢磨の関係だった。

その後、私は日本にやって来て、アニメのビジュアルファンブックの編集などサブカル関連の仕事をしていたが、長らくゲーム業界とは無縁の生活を送っていた。しかし今、IGN JAPANのメンバーである私はなんと、異国でまた古き本業に戻った。私とIGNとの巡り合いは全くの偶然であり、冥々の裡(うち)に自分がゲームと赤い糸で結ばれていると思わざるを得ない。先週、「『耳をすませば』を観た友達が本当にヴァイオリン職人になった」と流暢な広東語でコメントをくれた読者がいたが、「作品」は本当に人生を変える。自分の半生を回顧して、しみじみ想う。

「H game 2000」書影。私は“Juri Kuri”名義で「Piaキャロットへようこそ!!3」や「みずいろ」、「夜が来る! -Square of the Moon-」、「21-Two One-」、「秋桜の空に」、「風と大地のページェント」、「Silence ~聖なる夜の鐘の中で~」、「てんてこ温泉時代劇 ~亀屋~」等々について書いていた。

来週は「トンデモオタク」としての私を語るが、今回の最後に言いたいことがある。おそらく見ていないだろうけど、それでも言いたい。「業界人」としての私を育ててくれて、ありがとう。唐突だったけど、私を呼び出して、ありがとう。たくさん語り合ってくれて、ありがとう。そして勝手にフェードアウトしてごめんね。あっ、私、まだゲームメディア業界にいるよ。ありがとうは尽きないけど、そしてどこにいるかも分からないけど、元気でいてね。ありがとう、ABO先輩。


「香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー」過去記事
第7回:恋する女子ゲーマー(前編)
第6回:人生最高のゲームとの邂逅
第5回:“おしん”が“オタク”になるお話
第4回:「パソちゃん」との慣れ初めと、中国語ゲームの感動体験
第3回:忽然と現れた謎の「8088」と、繰り返す奇跡
第2回:諸葛亮とトルネコと一緒に行く大発見の旅
第1回:紅白機と灰機と、ささやかな奇跡の物語

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