神田明神の祭礼のような気持ちで…
原胤昭が入信の記念に開いた1874年の築地のクリスマスは、すこし奇妙な日本ふうの祭りになっていた。
築地の学校でクリスマスが開かれると聞いたアメリカ公使館が、間違って変なことをやられてはと心配して、祝会の前日に4人の公使館員を送ってきて、会場の下検分をやった。
熱心というか、ヒマというか、信用されてないというか、これも不思議な光景である。
ただ、アメリカ公使館の懸念は的中した。天井から吊り下げたミカンで飾った十字架を見て、これはカトリックがやることだと注意され、撤去させられた。
原胤昭は江戸っ子なので、神田明神の祭礼のような気持ちでやった、と述懐している。
神田明神の祭礼のような気持ちで迎える降誕祭。ずいぶん日本的というか江戸的な感覚である。
大枚を投じ、大骨を折って作った十字架を撤去させられてしまい、原胤昭は、これでは寂しいから、造花を集めて綺麗に飾ろうとおもいついた。しかし祝会の前日である、すぐにたくさんの造花が手に入るものではない。
そこで「浅草の蔵前から仲見世にかけて何軒もあった花簪(はなかんざし)屋」へ、賃金が高くかかるのもおかまいなしに人力車で人をやって、大急ぎで花簪を買い集めた。それで会場を飾った。かなり日本的な空間ができあがったとおもう。
殿様姿のサンタクロース
クリスマスツリーも飾った。
ただ会が始まる前から一切を見せてはおもしろくないから、一同をあっと言わせるために、落し幕を設えようと考えた。しかしそんなものは、横浜くらいまで行かないと買えそうにもない。
そこで、原胤昭の家は旧幕時代は八丁堀の与力で、相当権勢を張っていた関係から、近所の新富座へ交渉して、芝居の落し幕を借りることになった。賑やかなことが好きな座付きの若い者がわいわいと騒ぎながら、提灯をつけて手伝いにやってくるという騒ぎになった。
クリスマスを新富座の若い者が手伝っている、というところがおもしろい。彼らのなかにキリスト教徒がいるとはおもえない。お祭りだから、という気分が横溢としていたのだろう。
また、サンタクロースは純日本風の趣向でやろうということになった。
趣向、というところも江戸文化らしい。
裃をつけ、大刀小刀を差し、大森カツラをかぶり、殿様風の身拵えに扮装したサンタクロースを用意した。おもわず「何ですかそれは」と言いたくなるスタイルである。
当夜は、暗誦、対話、唱歌を塾の女生徒(おそらくA六番女学校の生徒)がやってくれ、中村正直(敬宇)ら大勢の人が集まりとても盛会であった、とのことである。
そういうクリスマスであった。
近代日本初とされるこのクリスマスは、ずいぶんと日本風である。アメリカ公使館も心配するはずだ。なにしろ殿様姿のサンタクロースなのだから。
クリスマスを日本に馴染ませようという意図があり、またクリスマスはそれぐらいやっても大丈夫というたかのくくりようが見られる。神田明神のような、というコメントもまた、日本の祭祀の土俗的部分を取り入れようとしているようで、とても興味深い。
キリスト教徒だけの集会のはずなのに、すでに日本土俗化している部分がいくつもある。いろんな示唆に満ちた〝明治最初のクリスマス〟である。