夫婦で努力して作った「心中天網島」は作品的にも興行的にも大成功をおさめ、岩下さんに多くの女優賞をもたらした。その後、「無頼漢」「沈黙 SILENCE」を経て表現社が軌道にのりはじめた1973年、長女を出産。しかし、女優、妻、母という三つの顔を持った岩下さんに限界もおとずれる。

「子供ができたころは自分の表現力に限界を感じていた時期でもありました。何の映画ということはないのですが、『ああやればよかった、こうすればよかった』と後悔することが多くなりました。それと、子供がかわいい盛りなのに他人に預けて仕事に行かなければならない、その母性の部分がなかなか自分の中で割り切れずに悩みました。2年ぐらい少しうつ病っぽくなってしまって……」

 役の中に深く入り込むタイプの女優である岩下さんを救ったのは、「はなれ瞽女おりん」のおりんという役柄との出会いだった。

「私は暗闇恐怖症だったので暗闇に慣れるために目をつむって食事をしたり、お化粧したり家の中を歩いたりして役に入り込んでいきました。篠田の演出、宮川一夫さんのカメラ、共演者の原田芳雄さんや皆さんに助けられて『おりん』を演じ切ることができ、達成感がありました。その体験で悩んでいた壁を乗り越えられて、『やっていこう、女優を続けるべきだ』と覚悟ができたのです」

 日本映画史にその名を刻む名作「はなれ瞽女おりん」は、女優としての岩下さんを成熟させた。

 40代に入った岩下さんの代表作は「極道の妻たち」だが、「あの極妻たちの持っている潔さは私と共通点があったので演じ続けることができたと思います」と話す。

 大ベテランになった岩下さんは必然的に若い俳優たちとの共演も多くなってきている。彼ら若い俳優のナチュラルな演技に対して、「一線でやっていらっしゃる方は現代の感性できちんとお芝居なさっているなといつも感心して見ています。その中に入るためにはそこに慣れなくてはいけないので、なるべくそういうものに近づきたいと思って演じています」と実に前向きだ。

 最終章の「おわりに」で、岩下さんは60年間添い続けてきた「映画」を次のように総括している。

「篠田が表現社五十周年の挨拶のときに『映画という魔物に取りつかれて、ふたりで魔物退治をしてきた人生』と語っていましたが、まさに私にとっても映画は、いつしか魔物になりました」

 その魔物は今でも岩下さんに取り憑いているようだ。将来の夢をこう語った。
「いつか『サンセット大通り』のような映画に主演したいですね」 (植草信和)

週刊朝日  2018年4月6日号

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植草信和

植草信和

植草信和(うえくさ・のぶかず)/1949年、千葉県市川市生まれ。キネマ旬報社に入社し、1991年に同誌編集長。退社後2006年、映画製作・配給会社「太秦株式会社」設立。現在は非常勤顧問。

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