※2012年8月28日に日経ビジネスオンラインで公開した記事を再掲載しました。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。

 2010年の邦画興行収入は過去最高の約1182億円を記録した。08年から3年連続で洋画の興行収入を上回り、「21世紀は邦画の時代」とも言われた。しかし、11年の邦画興行収入は995億3100万円に減少。「大ヒットしているのはアニメやテレビドラマの映画化ばかり」と嘆く声も多い。

 一作の興行収入30~50億円という大ヒット作は当たり前。100億円超という映画さえあるにもかかわらず、日本映画界では「昔は良かったね」が合い言葉だ。日本映画の黄金期と言えば、黒澤明や小津安二郎、溝口健二といった世界的な巨匠が活躍した1950~60年代を指す、というのが一般的な見方だろう。

 なぜ日本映画は「昔は良かったね」なのか。映画史・時代劇研究家の春日太一氏は『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』で、黄金期の日本映画界の生産システムにその回答を探す。東宝と東映という二大映画会社の覇権争いを描いたこの新書は、戦後の日本映画界を舞台にした叙事詩と言ったら大げさかも知れないが、映画産業が乗り越えてきた時代のうねりを感じさせる。二大映画会社の壮絶な首位争いを追っていくと、産業として発展する過程で、失われたものが浮かび上がる。

一読して身につまされました。労働組合と戦い、量産体制を構築し、斜陽期に経営体制の再構築を図る。多角経営を進め、余剰人員を再配置して、1970年前後の産業衰退期に踏ん張る東宝・東映両社の姿が痛々しいくらいで。いつの間にか、映画ファンではなく、会社員の視点で読んでいました。

普通の会社で働く方にこそ読んでほしい

春日太一(以下、春):もしそういう印象を持たれたとしたら、私の狙いは当たったことになります。普通のサラリーマンが読んで身につまされる本にしたいと考えて執筆したんですよ、本当に。1960年代に斜陽期を迎えた映画産業を描けば、今、日本が直面している状況を考えるヒントになるはずだと考えました。

タイトルにある「仁義なき戦い」と「日本沈没」には、実は後半まで触れていませんね。この新書の過半は「経営と制作」、「東宝と東映」という2つの対立を軸にして、映画産業の仕組みを説明しています。

:映画は作品であると同時に、商品でもあることを理解してほしかったんです。例えば、黒澤明監督の「用心棒」は、監督の考えだけで生まれたものではありません。東宝という企業のシステムのなかででき上がったものでもあります。東宝と黒澤監督の間に軋轢があり、黒澤監督が自らプロダクションを興して採算性を意識しなければ制作できなかった。こうした背景があって映画が生まれるということも知ったうえで、「用心棒」や「七人の侍」といった映画を評価してほしい。映画産業の仕組みを念入りに説明したのはそのためです。

冒頭で、一般企業で言えば映画の制作会社は製造、配給会社は流通、映画館での興行は販売に当たると書かれてますね。

春日 太一(かすが・たいち)
1977年生まれ。映画史・時代劇研究家。時代劇を中心に、日本の映画やテレビドラマを研究している。監督を中心に「作家論」で捉えることが多い映画を、撮影所や殺陣師といった“日陰”の存在に焦点を当てて分析することで知られる。著書に『時代劇は死なず!京都太秦の「職人」たち』(集英社新書)、『天才 勝新太郎』(文春新書)など。

:一口に映画会社と言っても、業務内容は多岐に渡ります。就職活動をすると分かるんです。例えばインターネット上で「映画会社」を検索すると、いろんな会社がピックアップされます。一般に制作のイメージが強いと思いますが、それだけではない。規模も力関係も異なる企業が入り組んだ、映画制作の複雑な構造を抜きにして作品性だけを語れない。映画に対する印象や分析を語る、いわゆる「映画評」は、少なくとも私には非常に難しい。

「私には」というと、個人的な理由がありそうですね。

:実は日本大学芸術学部在学中に、映画制作プロダクションで働いたことがありまして、色々な生々しい事情をのぞいてしまったんです。だから、美しい作家論はとても書けません。映画制作の現場はすさまじいですから。資金集めのためには手段を選びませんし、現場を知ると映画を聖なるものとして見られなくなる。

闇の中で仕事人たちが輝く

現場は俗である、と。

:映画ほど俗なものはない。どろどろの闇のような世界です。でも、その中にあって本気で映画をつくり、輝いている人がいます。そんな闇の中で輝く人たちの姿に、今の日本を生き抜くヒントがある。そのヒントを感じてほしいというのが、この『仁義なき日本沈没』の最も大きな執筆動機です。

 主に描いているのは、60年代に危機的状況に陥った映画産業です。斜陽期にあっても、自らの仕事を成就するために戦った人たちがいる。その戦い方を、戦う人たちの輝きを知ってもらいたい。NHKで放映されていた「プロジェクトX」の映画会社編を書いている意識でした。

なるほど。しかし、映画産業を描くうえで、「仁義なき戦い」を制作した東映と、「日本沈没」を制作した東宝との対立軸を中心にしたのはなぜでしょうか。

東宝と東映を描けば昭和史になる

:東宝と東映のつばぜり合いを描くと、ちょっとした昭和史になると思ったんです。この2社は絶えず、互いを意識し、首位争いを続けます。浮沈も激しい。経営的な面だけでなく、作風まで時代と共に大きく移ろう。そこに歴史のダイナミズムやエンタテインメント性を感じました。

 例えば、安定していた松竹はなかなか面白く描けません。興行的にはコンスタントにヒット作を出して、常に二番手。60年代に前衛的な「松竹ヌーヴェルバーグ」の台頭に一役買った大島渚のような異分子が現れるにせよ、作品も「寅さん」シリーズや「釣りバカ日誌」シリーズが代表する、あの牧歌的な雰囲気を守り続けます。大映は当初からトップを目指していません。やはりトップ争いを描かなければ、映画史のダイナミズムは描けないと思いました。

東宝は、インテリが多い自由主義の牙城。これに対して東映は、わき目も振らずヒット作づくりに打ち込む無頼のように描いていますね。

:終戦直後の東宝と東映は、その後トップ争いをするのが不思議になるくらい差がありました。一言で言えば東宝は「高級」。一等地に映画館を抱えていたし、東京・世田谷区にある砧撮影所も戦火を免れました。

 そして何より親会社の力の入れ方が違います。阪急グループの総帥だった小林一三が、東京進出に当たって、有楽町界隈を一大興行街にするべく、映画会社への投資も惜しまなかった。「百館主義」をうたって、都市部の一等地に豪華な映画館をたくさん建設しました。新宿歌舞伎町に新宿プラザ劇場という映画館がありましたよね。

知っています。実は、77年に米国映画の「未知との遭遇」を新宿プラザで観たのが、自分の最初の映画体験です。

:新宿プラザには赤いカーペットが敷かれて、天井には豪華なシャンデリアが吊されていました。この高級感が東宝です。場所も歌舞伎町のど真ん中でしょう。同じ新宿でも東映は明治通りを越えた辺りにあります。常に場末。町の外れなんです。はなから条件が悪い。

東映、泥臭さで勝利を呼び込む

50年前後の東映については、「夢はあったが、金はなかった」という一節がありますね。当時の東映の貧困ぶりも強烈な印象を残します。51年に東横映画、東京映画配給、太泉映画(おおいずみえいが)という弱小3社が合併した直後の東映は、「負債総額十億円超。欠損金は8億円、回収不能金は5億を数えた」と。

:文字通り崖っぷちのスタートだったんですよ。

当時の大川博社長がまず取り組んだのが財政健全化。かけソバ一杯にも領収書を求めたり、神戸銀行からの東映京都への製作資金融資のバーターとして、神戸銀行の頭取が主演する映画「神戸銀次郎」を制作したり、涙ぐましい努力を続けますね。

:だから東映には、売れる商品をつくるしか残された道がなかったんです。客のニーズを第一に考える。作家性を排して、いかにスターをきれいに見せるか、悪役をぶった切らせるかを考えて時代劇を撮る。子どもが「映画館に行きたい」と言えば親もついて来るだろうと、54年に子ども向けの「新諸国物語 笛吹童子」をつくります。本当に館内の扉か観客がはみ出るほどの大ヒットだったそうです。そして一大時代劇ブームに乗るわけです。

このくだりには驚かされました。59年には全邦画収入の3分の1を東映が稼ぐわけですよね。そこまでの時代劇ブームがあったことも知らなかったし、東映がそこまで力を持ったことにもびっくりしました。

:東宝に劣るぜい弱な配給ルートを、地方の独立系映画館を押さえることで克服していったり、企業として努力した結果です。

1本の制作費で3部作を撮影して経費を削減したけれど、同時に出演者もスタッフも過酷な労働環境の中で疲弊していったというくだりは、一企業の社員として他人事に思えませんでした。

:食べて行くのに必死だったんですよ。合併前の太泉映画スタジオ時代の話ですが、当時の進行主任、後に社長になる岡田茂が、助監督の沢島忠にボーナスとして切り餅を渡したというひどいエピソードさえあります。現場でやっていることは泥まみれなんです。

撮影用の石臼を使ってスタッフが餅をついた、と書かれてました。笑っていいんだか悪いんだか…。

:こんな状況でも映画をつくりたかったんでしょうね。逃げ出すスタッフはそれほどいなかったそうです。好きなんですよね。映画制作の現場を体験すると病みつきになります。スタッフとキャストが一丸となって映画をつくっている状況が一番いい。これは体験的にも分かります。

対東映の切り札だった「用心棒」

時代劇ブームに乗って大逆転、破竹の勢いだった東映に、東宝は黒澤明監督の「用心棒」(61年)をぶつけて来ました。ここは本書のハイライトの一つですね。描写も細かいし、臨場感たっぷりです。

:これが東宝と東映の最大の対決だったからです。企画段階から、「用心棒」の対決を描くことを決めていました。

用心棒

東映は54年からヒット作を連発。60年当時、興行収入の首位もシェアも東映に奪われた東宝にとって、まさに背水の陣だった。

:東宝は、大作主義で勝負をかけます。

54年に、2億円以上もの制作費をかけた「七人の侍」や、特撮を駆使した「ゴジラ」が生まれた背景には、こうした「対東映」という東宝の姿勢があったんですね。それが一度は奏功する。

:そうです。都市部の豪華な映画館で大作を上映して、ひとまず成功します。ところが、対東映を意識し過ぎたのか、うまくいかなくなるんです。黒澤明監督がロシア文学を映画化した「どん底」(57年)や、日本神話を映像化した「日本誕生」(59年)など、難しかったり、ちょっと毛色の変わったりした映画が多かったことも災いしたんでしょう。興行的に成功とはいえなかった。

 だったら東映と同じ娯楽でいこう、東映の伝統的な時代劇をぶっ壊してやろう。こんな風に東宝が「対東映」対策として打ち出したのが、「用心棒」であり「椿三十郎」(62年)だったわけです。

そしてこれが大成功。異例の大ヒットにつながります。豪華絢爛な衣装を身にまとった主人公が、ほとんど動かずに敵を斬り倒す東映のファンタジーに対して、黒澤監督はリアリズムを徹底する。役者もそれに応えて、三船敏郎はアドリブで斬りかかり、出演者は真剣に逃げ惑ったというエピソードには震えました。大ヒットした理由は、こうしたリアリズムにあったのでしょうか。

:それもありますが、何より黒澤監督にとてつもなく面白い映画をつくる力があったということです。それから、東宝と同じく、黒澤監督も背水の陣に追い込まれていた。この苦境が、黒澤監督に極上のエンタテインメントをつくらせたとも言えます。

監督が独立プロダクションを立ち上げたためですね。

:そうです。黒澤明は59年に黒澤プロダクションを設立していて、お金のことも考えなくてはならなくなった。黒澤監督は東宝の社員だった時期に、予算を度外視して撮影していました。実際に「俺の映画は当たるから、幾ら予算を使ってもいいんだ」といった発言もしています。「七人の侍」が大当たりしたので、黒澤監督に「ノー」と言える人がいなくなってしまったんです。

“予算管理”から生まれた「用心棒」

それでは東宝も困ってしまう。

:いくら大作をつくる資本があると言ってもビジネスですから。特に映画制作はギャンブルに近いほど当たり外れが大きい。いくら名監督と言えども、好き勝手にされては経営上、支障を来します。お金の問題もさることながら、黒澤監督は放っておくと「あっち」に行ってしまうことがある。

「あっち」と言いますと?

:「七人の侍」」や「用心棒」といったとんでもないエンタテインメント作品をつくる一方で、「白痴」(51年)や「どん底」などの文芸的な作品に走る傾向があるんです。これは必ずしも、ヒットに結びついていない。そこで東宝は、黒澤監督を独立させたのです。独立すれば予算にも配慮するはずだし、「あっち」に行かないだろうと。

そして「用心棒」が生まれる。

:その前に、60年に公開された「悪い奴ほどよく眠る」を撮ってます。政治家の汚職を描いた作品で、これが期待したほどヒットしませんでした。だからこそ「背水の陣」だったんです。大ヒット作をつくらないと後がない。そこで天才黒澤が、ヒットさせることだけを狙ってつくったエンタテインメント作品が、「用心棒」と「椿三十郎」なんです。この2作は、観客を楽しませることに徹しています。

あの2作は文句なく面白い。春日さんも熱の入った書きっぷりですね。「椿三十郎」のラストシーンのエピソードにはわななきました。三船敏郎が仲代達矢を斬りつけて血しぶきが飛ぶ様子が、あまりにリアルなので、事故かと思ってわき役たちが呆然と立ち尽くした。その様子が、映画にそのまま使われたんですよね。読んでいて、大ヒットするのもむべなるかな、と感じました。

:黒澤監督もさることながら、黒澤監督を信じた東宝の経営陣の姿勢も、大ヒットにつながった理由と言えます。東宝側は、黒澤監督を独立させて、予算や撮影期間などには制約をつけました。しかし、商品である映画の内容には口を出さなかった。黒澤監督は素晴らしい映画をつくる才能があると信用したんです。

 東宝には、こうした才能を見抜く力を持った藤本真澄や森岩雄のようなプロデューサーがいました。2人とも制作の現場を知り尽くしています。現場を理解できる人間が経営側にいたことが、「用心棒」と「椿三十郎」といった競争力のある商品を東宝がつくり上げる背景にあったことは忘れてはいけません。

この2作の大ヒットに打ちのめされたかのように、東映時代劇は凋落の一途をたどります。それまで正月興行と言えば東映の時代劇だったのに、62年は「椿三十郎」が18億円の配収でトップに躍り出ました。

量産化で寿命を縮めた東映時代劇

:もちろん「椿三十郎」の圧倒的な面白さもありましたが、そもそも東映時代劇が粗製乱造に陥っていたという前段があります。

60年に第二東映まで設立して、「10日で一本撮影していた」「幹部は3日に一度は試写を見る状態だった」とありますね。10日で一本撮影できるのかと感心さえしました。

:現場の努力は並々ならぬものがあるでしょうが、映画自体はつまらなくなります。結局、ヒットしない理由は「つまらない」という一言に尽きます。実はこの後、東宝も量産体制に入って観客が入らなくなるんです。年間50~60本は制作していましたから。

なぜ量産体制に走ったのですか?

:制作の効率が良いからです。衣装もセットも使い回しができる。ある程度のプロットやキャラクターができているから脚本もつくりやすい。シリーズ化し始めた頃は、客にも安心感があって手堅くヒットします。新しい作品を上映すれば上映するほど、観客が入るという発想でした。

それでは観客は飽きてしまいますね。

:東宝で言えば、「また森繁久彌の『社長』か」「主演はクレージーキャッツか」と、うんざりされてしまう。観客だけでなく、つくり手側も飽きてしまい、制作意欲が落ちます。

:実際に取材していても、作品の区別がつかない。当時のスタッフすら、取材時に説明してくれているエピソードが「若大将シリーズ」や「クレージーキャッツ」シリーズの第何作目の話なのか、混乱してしまうんです。

 「用心棒」と「椿三十郎」のスタッフでは、そんなことあり得ません。何十年もたっているのに、主演の三船敏郎がどのような殺陣を披露したか、斬りつけたときの血しぶきを出す仕掛けがどのようなものだったか、ディテールまで記憶しています。それくらいの強い意識を持って撮影に関わっていたということでしょう。

東映は変わり身が早かった理由

しかし、東映は比較的早く次の一手を打って、停滞期からの脱却を図ったように見えます。

:そうですね。時代劇ブームに陰りが見えると、若手が決起して「十三人の刺客」(63年)のような集団時代劇をつくったり。それでもダメなら高倉健さんらが主演した任侠映画で巻き返す。それも落ち目になると、それまで制作し続けた任侠映画の「仁義」を否定した、ヤクザ同士が裏切り合う「仁義なき戦い」を大ヒットさせる。過去の売り物を否定することすら厭わない。

 一つには、当時の東映社長だった岡田茂の姿勢があると思います。彼は時代を読んでいる。変わり身が早く、前進のためには過去の否定さえ辞さないたくましさがあります。

停滞期に、次を狙う意欲があった。

:従来の作風に客が飽きてきた時、「なんとかしよう」という心構えや姿勢が、東映は強いかもしれません。戦後、なかなか日の目を見ず、会社を維持するのに精一杯だった東映には、「とにかく当てる。ヒットさせてなんぼだ」という気概がありました。

 だから60年代には「マル秘シリーズ」のようなポルノまがいの映画も制作して大ヒットさせてます。暴力描写の多い任侠映画路線を確立できたのも、良い意味で脇目も振らずヒット作を狙う社風のおかげでしょう。

その点、東宝は東映のような変わり身の早さがなかったようですね。なぜでしょうか。

:一つには、人材の入れ替えが進まなかったことが挙げられます。東映は若手を次々に起用しましたが、東宝はできなかった。

 当時の藤本真澄プロデューサーは長年、黒澤明や成瀬巳喜男といったベテランを重用して、若手を育てていなかったんですね。起用したくてもいなかったという事情もあります。というのも、50年代の労使闘争後、東宝は採用の間口を狭めてしまった。縁故採用が多く、優等生的雰囲気が漂っていたそうです。もともと都市部のインテリ層をターゲットにしていた東宝の社風でもあったわけですが。

東映は人材の入れ替えに成功したから、時代の変化についていけたのでしょうか。

:そう言っていいでしょう。当時の岡田茂社長が、若手の企画部員たちと話し合い、新しいアイデアをどんどん採用していました。また、東映は良い意味でインテリではないんです。「こんなものつくりたくない」という我欲があまりない。売れるならどんな映画でもつくる職人気質がありました。そこがインテリだった東宝との違いでもあります。だから、暴力や性描写を嫌い、ファミリー層を対象にしていた東宝が逃がしていた観客をつかむことができたのです。

 その観客層とは、ブルーカラーであり、独身の若者でした。60年代から70年代前半にかけて、観客層の中心が20代の若者に変わっていきました。そこを東映は逃さなかった。

イノベーションを繰り返すベンチャー企業のようですね。

東映のイメージは世代でまったく異なる

:ドラスチックに変化するという点では、共通しているかもしれません。例えば色々な世代に、東映にどんなイメージを抱いているか尋ねてみると面白いと思いますよ。世代によって全然違いますから。

 70歳前後の人なら中村錦之助のヒロイズムでしょうし、60歳前後なら鶴田浩二に高倉健の任侠路線。50歳前後なら実録路線やエログロ路線を思い浮かべるのではないでしょうか。一口に東映と言っても、年代によって作風が全然違う。市場に合わせて変えていった結果でしょう。

映画の作風と同様に、経営も劇的に変わりますね。

:岡田社長が早くから多角経営に取り組みました。ボーリング場に始まり、ホテル経営や不動産業など幅広く手掛けます。幸か不幸か、後に映画産業が先細っていく過程で、こうした関連会社に余剰人員を再配置することができました。よく知られているのは、75年にオープンした京都の東映太秦映画村ですね。

映画村にも、映画制作にかかわった人が働いているのですか。

:働いています。東映は50~60年代に東宝以上の量産体制を築いていましたから、70年代に観客数が落ち込んで制作本数が減ると、撮影所の稼働率は下がり、人は余りました。仕事のない大部屋役者や撮影スタッフを映画村に出向させています。映画村の入場料で収益を得て、余剰人員の受け皿にもできた。オープン後1年で延べ約200万人が訪れましたから、入場料が撮影所を、そして東映の制作部門を支えました。

 岡田社長は、撮影所が東映の土台であり、つぶしてはならないと考えていました。業態を変えても撮影所を維持した映画村はある意味、時代に合わせて経営を変えていった東映らしさの象徴かもしれません。

東宝は東映のように、企業の再構築ができなかったのでしょうか。

:再構築しましたよ。ただし、映画制作という本業からはどんどん離れていきました。

:東宝の母体となる阪急グループにとって、東京・世田谷区にある砧撮影所に対する思い入れはない。ヒットせず、利益を上げない映画をつくり続ける社員がいるくらいなら、優秀な外部の制作プロダクションに発注すればいい。人件費を下げた分、撮影所というハードに投資すればいい。こうして東宝はどんどん制作から離れ、配給と撮影所管理に走ります。

制作側に「思い」があった「仁義なき戦い」と「日本沈没」

話は少し遡りますが、1973年が東宝と東映の転機とも言える大ヒット作品が生まれました。それがタイトルにある東宝の「日本沈没」と東映の「仁義なき戦い」です。

 春日さんは、この2作品に込められた脚本家や制作者の思いを丁寧に描いています。「仁義なき戦い」では、脚本家笠原和夫さんと監督深作欣二さんの、「無責任な体制のため、多くの人間が命を落とす。戦後になっても、この国からそれが改められることはなかった」ことへの批判。「日本沈没」では、監督の森谷司郎さんと特撮監督の中野昭慶さんの「いい加減さの中で数多くの人間が死んでいく」ことへの嘆き。森谷さんも中野さんも終戦後、中国から引き揚げて来た経験があったんですね。

 このパートだけ、つくり手の思いを強調していて、淡々とした語り口が多いこの「仁義なき日本沈没」のなかでは浮いているパートのように感じました。

:つくり手が思いを込めてつくったものには魂が宿る。魂が宿った映画は面白いし、大ヒットする。この点を訴えたかったので、他のパートとは異なっているかもしれません。現在の日本映画界は、この点をあまりにも無視し過ぎていると思っています。

「仁義なき戦い」シリーズと「日本沈没」両作の現場の熱気を伝えるエピソードを、幾つも書き込んでいますね。例えば、「仁義なき戦い」では、当時の国鉄京都駅構内で国鉄の許可なくゲリラ撮影した刺殺シーン。

 なにせ無許可ですから、現場でリハーサルなどできようはずもありません。スタジオで入念にリハーサルを済ませ、スタッフと出演者の段取りを組み、電車がホームに滑り込む時間まで計算して撮影を成功させたとか。「日本沈没」冒頭に映される、野球場や歩行者天国など日本の繁栄を示す映像は、カメラマンの木村大作さんが自主的に全国を回って撮影してきて、監督に見せて採用されたという逸話も、胸に迫るものがありました。

:スタッフが死ぬ気でつくった結果生まれたものには、魂が宿っています。すごい商品とはそういうものではないでしょうか。映画産業が低迷している。次の一手を打たなくてはいけない。「だったらすごい作品をつくってやろうじゃないか、この野郎」といった理屈を超えた現場の熱気が観客を巻き込んだ。それが「日本沈没」と「仁義なき戦い」という、東宝と東映にとってブレイクスルーとなる名作をつくり出したのだと思います。

 入念にマーケティングして、綿密に計算した企画とマーチャンダイジングの下でつくれば、そこそこの作品ができます。でも、それ以上にはなりません。今の日本映画界に必要なのは、「仁義なき戦い」や「日本沈没」を生んだ現場の熱気だと思います。

すると、制作の現場にもっと自由度を与えれば、日本映画界も活性化するのでしょうか。

:制作の現場に力を持たせすぎると、弊害も出てきます。アーティスト志向が強すぎて、自己満足に陥ってしまいがちなことも歴史が示しています。「用心棒」や「椿三十郎」で、黒澤プロダクションとして制作に参画した黒澤明がそうだったように、アーティストが優れた作品をつくるためには最低限の制約が必要です。しかし、その制約が厳し過ぎると士気が低下する。

 そこで必要になってくるのが、経営側のコントロールです。現場の「すごい作品をつくってやろうじゃないか」というエネルギーをうまく利用して、観客が見たがっている作品に昇華させ、「利益を生む商品」へと導くルートをつくることが、経営者の手腕ではないでしょうか。

そのためには経営側が信頼できる、黒澤監督のような才能あるスタッフが必要ですね。

:そこが最重要です。しかし、今の日本映画界には才能あるスタッフを見つけ出す人が少ないし、才能を伸ばす場所も非常に少ない。大ヒットする超大作をつくる才能があっても、その才能を見抜いて、仕事を任せる場がないと、傑作は生まれません。チャンスを与えられないと、天才だって芽が出ないままくすぶってしまいます。

必要なのは教育ではない

才能を育てる学校のようなものが必要なのでしょうか。

:いえ、学校ではありません。黒澤明や小津安二郎のような名監督だって、映画学校の教育を受けたわけではない。私の母校の日本大学芸術学部のOBを見ても、大学のカリキュラムを全うした人が成功しているとは限りません。学校をさぼっていたような人でも成功しています。

 才能を育むのは教育システムではない。必要なのはトライアンドエラーできる環境です。今の日本映画界に欠けているのはそこです。

トライアンドエラーできる環境があれば、日本映画界は第二の「用心棒」や「仁義なき戦い」をつくることができますか。

:もう一つ、つくり手が「どうしたら観客が喜ぶだろう」という意識を持つことが必要です。忘れてはいけないのは、その観客のなかにつくり手自身もいるという点です。

 自分自身が面白いと思える作品を観客に届ける。採算性を意識しすぎると、ついついこの意識を失いがちです。妙にマーケティング調査のデータばかり気にして、有名タレントを配役するといった安直な方策で観客の期待に応えようとしてしまう。ツイッターやブログの評価を気にし過ぎて、自分自身が面白いと思えない作品をつくる。観客だってばかじゃない。そんなつくり手の意識くらい見抜けます。

「自分も、観客も楽しめる」という意識が欠如している限り、日本映画界は1950~60年代の黄金期には戻れない…。

黄金期は帰らない。それでも夢は抱ける

:50~60年代にはどうしたって戻れません。あの時代はあまりに良過ぎたのです。この点を認識しないと、いつまでたっても「昔は良かったね」と後ろ向きになってしまいます。もうあの頃には戻れない。でも、今は今なりに幸せを考えればいいのではないでしょうか。

 今できる最大限の、幸せにする努力をするしかない。大手映画会社なら、制作の現場の労働環境を改善しようと考える。制作の現場は、少しでも資金を集められる状況をつくろうと努力する。

そういった行動を取っている人は実際にいるのでしょうか。

:例えば、一本の映画をどこまで少ない人間で撮影できるか、どこまでコストを下げられるか、といった実験をしている若手もいます。「観客が面白いと思える作品を本気でつくる」という意識を持って、少しずつでも行動する。そうすれば黄金期には戻れなくても、黄金期から学び、これからの日本映画界をより良くしていくことはできるはずです。『仁義なき日本沈没』では、そのためのヒントを書いたつもりです。「夢がない」と言ったら終わりでしょう。だから私は、これからも夢を訴え続けます。

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