私の読売テレビ入社の時の
アナウンス部長さん
下山英三さんが
亡くなられてしまいました

この方がいらっしゃらなければ

おそらく
辛坊さんも私も
読売テレビのアナウンサーに
なっていなかったのでは?と思います

確か…

辛坊さんは
フジテレビの報道記者募集の受験状況で
下山さんが探し出して引っ張ったと聞きましたし、
(私が入社した頃に、ある報道デスクに「辛坊みたいなアナウンサー珍しいよなあ。声も顔も悪いのになあ〜」と言われ、なるほど!と感心しました。その代わりと言っては何ですが、辛坊さんの頭の賢さはホンマにスゴイと感心していました。)

一方の私は…

下山さんが
私が素人演芸番組に出ているのを御覧になって
「こいつ採用したろ!」とおっしゃっていたと
辛坊さんに伺いました

その真偽の程は確認もしてませんが、

そもそも、
アナウンサー志望でなかったので
アナウンサー試験には
エントリーしていなかったのですが
友人のススメでシャレで参加したら
こうなった…
というのが正直なところです

1983年入社の読売テレビアナウンサー採用の
二次試験のカメラテストは
東京よりも早い時期に行われました

男性のみで
応募総数は100人程度と聞きました
今と比べたら
めちゃめちゃ広い門だと思います

その年の読売テレビは
村田さん、辛坊さんの入社後に
2年間採用が無かったので
絶対に男性を採用する!
最低一名、出来れば二名!という
目が血走る年だったようで
そのために
東京よりも早い時期に行われたようです
その作戦も
おそらく下山さんの指示だったと思います

2次の受験生約10人ぐらいの中には
フジテレビの牧原さんや
テレビ朝日の辻さん、
サラブレッドの植草さんもいて

結果的には、
おそらく、この人たちが
東京第一志望だから
私にも出番が回ってきたのだと思います

プロ野球のドラフトに例えたら
私の場合は
ハズレ二位指名ぐらいやと思います

しかし、
後日、下山さんから聞いたのですが、
意外と私の試験の出来は悪くなかったみたいです

原稿読みの経験は、ほとんど無く、
フリートークは落研の喋り丸出しでしたし、
インタビューでは笑ってしまいましたし、
(洪水の被害者にインタビューという設定で
めっちゃ明るく答えていた岡俊太郎さんだったので、「そんなにご自身の被害はなかったのですね?」
と聞いたら「私以外の家族全員死にました」と返答され、そんなアホな!?と笑ってしまったのです)

カメラテスト終わってから…

アナウンサーなんて受かるわけないし
思い出作りとしては良かったなあ〜
だいたいニュースなんて読むような
人間じゃないからな〜
もう二度と大阪に来ることはないのだろうな〜と
新大阪駅で粟おこしを買って帰ったほどです

ところが…

最終試験も不思議と呼び出され
正直、ビックリいたしました

その時には3名になっていました

私の他は
同期アナと
静岡の局に決まった人でした

最終試験は役員面接です

私は
当時の青山社長の圧迫面接に四苦八苦し、
マジ話が苦手の人間には大変にツラいものでした
正直、こんな真面目な質問される会社は無理!!
と訳の分からない結論付けをしました

終わってから
もう二度と大阪に来ることはないだろうな?と
新大阪駅で岩おこしを買って帰ったほどです

数日後に
下山さんから電話をいただき
低い、怖い声で、
内定を出したら来るのかどうか?
確認されました

当時、私は就職について
全く真剣に考えておらず

他の二人の方が
どう見てもアナウンサーらしかったし
私が受かることはないであろうと考え

「ま、縁のモンですから、内定出していただいたら
必ず行かせていただきます〜」と
軽いタッチで返事して以来…

結局、定年退職まで働きました

今、冷静に考えたら
東京の局も受けたり、
ラジオもある放送局を受けたりという
高め追求も出来たとは思いますが、

その時は、
採用してくださった
下山さんの期待に応えるために精進しなければ!
ということしか考えておりませんでした

まあ、アナウンサーとしての基本は
ほとんど無い学生だったので
おそらく
他の局で採用されることは
無かったと思います

正統派のアナウンサーらしい
一位指名のアナウンサー と一緒の入社で
私の場合は外道枠みたいな感じでした

実は、辛坊さんの入社年も
とってもアナウンサーらしい人と一緒の入社で
おそらく辛坊さんも外道枠だったと思います

下山さんには
入社後の研修はモチロンのこと

私のニュース誤読のせいで
けん責処分に連座していただくなど
多大のご迷惑をお掛けしましたし

ズームイン朝を担当させていただいたり

仲人もお願いしたりなど

公私共に大変お世話になりました

退職されてからも
下山さんを中心に
OBの皆さんが集まって
ゴルフをして焼肉を食べるという会が
毎年3月下旬に行われていて
楽しみに参加しておりました

その会も
ここ数年は行われなくなってしまい

定年退職後に
一度ご挨拶に伺わなければ
と思いつつ
バタバタしているうちに
お亡くなりになってしまい
大変に後悔しております

私は、
採用してくださった
下山英三さんへの仁義で
定年退職まで
読売テレビ一筋に
会社の業績アップを第一に考えながら
私なりに頑張って
勤め上げることが出来たと思います

5/1に亡くなられ
翌日に奥様から御連絡いただき驚き、
5/3の通夜に伺い
何とか御礼を伝えることが出来て
ホッとしています

実は年齢を把握しておらず
果たしておいくつだったのだろうか?
と通夜の席で伺いました

84歳でしたと聞き、
三月に亡くなった母親と
ほぼ一緒だったんや!と
今頃になって気づいた次第です

お酒を全く飲めない方だったので
昼飯に一緒に良く行ったのが思い出です

特に夢のような『鰻』を御馳走になったことが
一番の思い出となって残っております

色々とお世話になり
誠に有難うございました

安らかにお眠りください

私もあの世に行きましたら
のんびり麻雀卓でも囲ませてください

         合掌。