名前を出してもらえるよになり、ヒットスタジオDELUXEとなって一年

この回をもって、私はヒットスタジオをやめる事にしました。

誰にも相談せず、一人で一年間考えたあげくの決定でした

私がヒットスタジオをやめるという事は、スタッフ東京への圧力が

きつくなるという事で、会社的には、やめられたら困るという状況

でした。

 

何故、やめる決心をしたかと言うと、先生と疋田さんの板ばさみです

大番組に育てた業績、どっちだって視聴率がよくて、話題になって

ればいいと思いますが、男の人はそうはいかない、テレビ界のどん

と大プロデュサーになってしまった二人の関係

最初先生の演出プランで、新たなる音楽番組の境地をひらいた

ヒットスタジオ、それを、さらなる形で、発展させ、育てたのは疋田さん

ですが、どちらもお互いの立場をゆずらない

 

「おまえは、誰のために番組やってるの」と聞く大プロデュサーに対して、

私は「番組のためにやっています、仕事です」とはっきり返答

それがどうやら面白くない

まわりには、ひれふす人ばかり、でもギャラをいただいているのは

会社から、私はあくまでもスタッフ東京の社員なのです

がしかし、ある時点から、会社は私を守ってくれない事に気付き始めま

した、所詮、ここは一人の作家の集団、

先生は先生であって社長のではないと、悟りました。

 

どっちが偉い?みたいな、子供じみたな戦いの中で、私は自分で答えを

見つけるしかありませんでした、誰も私を助けられません

会社のトップが当事者なのです、

ヒットスタジオを降りたら、スタッフ東京にもいられません。独立して

やっていくには、当時の先生も、スタッフ東京の力も大きくつぶされる

だけです。

 

そこで、当時担当していた全部の番組を降り

親しくしていた手芸作家のマネジャーになると言って、二人に納得して

もらいました。

疋田さんは「もったいない」と言ってくれました

先生は「まさかやめるとは思ってなかった」と後で、言ったとか

 

塚田先生のもとで、音楽番組の構成者になるという事は、将来は紅白

歌合戦を担当する、それが大きな夢でした。FNS歌謡祭も世界紅白も

やりました、その夢を頑張れば、いつかと思ったのも確かでした。

音楽番組の構成者をやりたかったのなら、けんかしても何してもふみ

とどまるべきでした。

でも、音楽番組の構成より面白い、そして私のいる場所を見つけて

しまいました。

 

疋田さんの私への慰安は、最後の900回を始めて、録画にして、グアムへ

番組のAD、FDさんたちとお疲れ様旅行に、連れていってくれました

そして、記念にペンダントをいただきました

「久枝ちゃんは、地味派手だからと、色はブルー系でシック、デザインは

派手のものをと選んだ」と一言をそえて

 

思えばどれだけ泣かされたかわからないヒットスタジオの9年間でしたが

楽しい思い出も、男性スタッフがみんな出演反対した戸川純さん

歌っていたのが、アンネをイメージしていた詩だったのですが、

気持ち悪くて面白いとタイムキーパーの白川さんと一緒に猛プッシュ

結果オーライで、高級フランス料理を、ごちそうしてもらったり

 

女性歌手の引退の時に、流れるテロップ、本番始まっても書けなくて、

サブで死苦八区、でも最後まで待ってくれて、

疋田さんの了解をもらって、タイトル室へ走り込むなんてことも日常

茶飯事でした、生放送ならではのエピソードは数限りなく

芳村真理さんの髪型が、巻貝みたいで、急遽、電球を捜しにいか

されたり、900回記念のこの台本を見ると、当時ディレクター4人

AD4人、FD6人の大所帯、それでも、生放送の2時間番組、みんな

手一杯なので、ハプニングがおきれば、その対処に走るのは、サブに

いた私、構成者である前にスタッフでしたね