大阪なおみの全豪テニス4回戦に一喜一憂、ちょと寝不足、でも

最後の最後までスリリング。結果は知ってたけど楽しかった!

 

さて、昨日の続き

何故、私がこの番組を担当する事になったかと言うと、それは

スタッフ東京と言う塚田茂先生が主催していた会社の事からお話ししな

ければなりません。あんまり昔の話で、塚田茂の名前も、スタッフ東京の

名前も知らない方も多いかもしれません。

 

スタッフ東京は、現在のテレビ業界に多くの人材を送った構成作家集団

の会社です、玉井貴代志、松岡孝、高田文夫、作家だけでなく、企画、

演出など多岐にわたって人材を育てました、今先生の息子小高浩氏が

活躍していると思います。

さて、1970年に青山で産声をあげたこの会社の何回目かの研修生

募集に、大学2年の時に、応募。

半年の研修の結果、同期は、学校を卒業してこの研修に参加していた

ので、そく担当を与えられたのですが、

成績がビリで、まだ学生の私はどうするという事になり、たまたまその時

「フジテレビからAD、ほしがってるけど、出向する?」と聞かれ、

「行きます、行かせてください」と、この話にとびつきました。

 

もとより、テレビ業界に進みたくて、日大を選んだ私、学業よりは将来を

選択、あこがれのフジテレビ、ワイドプロモーションに出向になりました。

まだ、河田町にあったフジテレビ、玄関の脇には、ラポルトが、2階に

は、レコード室が、別棟の1階に6スタが、地下にはメイク室と食堂が

ありました。当時フジテレビの制作は、フジプロ、フジポニー、ワイドプロ

と三つのプロダクションにわかれていました

私は、柴田昭先生が作家をしていたラブラブショーと木曜スタジオの

ADのそのまた下の雑用係になりました。

 

あらゆる雑用を、とりあえずハイハイといい、素早くこなす、本番の日は

深夜宅送のハイヤーの手配、これが一番のお仕事でした。

仕込みのプロの岡沢さんと仲良くなり、フジテレビの中のあらゆる場所に

行けるようになりました。

先輩ADの代理で仕込みの電話をかけ、フジテレビの中でのスタッフ東京

の番組を知り、担当のプロデュサー、ディレクターの名前を学びました。

半年くらいたった時に、ワイドプロの社長から「このままフジテレビに残る

か」という話があったかと思います。

23歳の私は、作家を目指しているので、スタッフ東京に帰りますといい

半年のAD修業を終えました。もう少しで、インカムをつけさせてもらえる

という状況だったと思います。

でも、この経験は、後でとても役にたちました、何より番組の作り方、当時

のフジテレビ、ワイドプロモ―ションの人間関係を知るのに最高の勉強が

出来たからです。

 

スタッフ東京に帰ってから、リビング11、クイズグランプリ、そしてNHKの

三波伸介さんが司会をしていた減点パパの福地美穂子さんの助手として

取材の手伝いをするようになりました。

 

始めて書いた台本は、フジポニー制作のリビング11でした、当時のプロ

デュサー常田久仁子さんから、スタッフ東京は、うちの番組を新人研修に

つかってるとよくお小言をいただきました。

 

さて、当時、夜のヒットスタジオは、スタッフ東京の代々の先輩が先生の

助手をつとめ、ある意味で、名誉ある仕事ではあったと思います。

しかし、夜ヒットも、昭和50年頃、企画のてこ入れが必要になりました、

歌謡ドラマも、コンピューター恋人選びもなくなり、

演出と音楽で、魅せる形へと変遷しつつありました。バラエティー作家を目指す

先輩方の出番終わって同期の仲間から、私が受けつぐ事になりました。

 

最初は、いい顔をしなかったヒットスタジオ担当の疋田班の面々も、私のAD

時代の仕事ぶりを評価してくれたのか、前の担当者とそりが合わなかったの

か、しぶしぶ受け入れくれる事になりました。

 

しかし、それからの9年間は、闘いの歴史でした。

 

青山のスタッフ東京の社長室で、先生と疋田さんが、番組をどうしていくか

どんなセットで、どんな照明で、見せるか頻繁に打ち合わせが行われていました。

塚田先生のバラエティー作家としての業績は知らなくても、先生の凄さを、そこで

私は、まじかに体験していきました。

当時新装になった東京プリンスホテル飛天のオープニング、夜のヒットスタジオが

テレビ中継をする事になり、、まだ、ビニールも取れていない会場を下見。

その時の先生の演出プランは、会場は横使いでいなく、縦使いで使おうと提案

間口をせまくする事によって、照明のボリュームを増やし、距離をかせぐ事に

よって、飛天の大きさをアピールさせる演出になりました。

FNS歌謡祭でも、あのビルのセットや、どこからどのように撮るのかカメラの数、

位置、カメラワーク、照明の色まで、こまかい指示をしていました。

塚田茂は、偉大な演出家であり、ヒットスタジオの演出の名声があがる時、

疋田さんは、素晴らしい塚田先生の意思をつぐ演出家であり、先生の一番の

弟子だったのではないかと私は、思っていました。

 

しかし、この事が、私がスタッフ東京を去り、夜のヒットスタジオをやめる

原因になろうとは、当時は思いもしませんでした。

 

さて、笑いが書けない構成者の私がした事は、徹底的な出演歌手の取材

です、もちろん、インターネットなどなく、原稿も手書きという時代です

毎週発売される週刊平凡、明星からテレビ誌、事務所のマネジャーさんの

電話取材、レコード会社の宣伝広報からの取材、時には、大宅文庫まで

行き、ネタを捜しまくりました。

 

それ以上に大切なのが、どの順番で、歌手を歌わせるかという構成です

これで、視聴率が決まります、最初は1時間の番組で、8人の出演者の

でした、この構成が決まらないと台本も書けないし、カット割り、演出プラ

ンを決められず、音資料も作れません。

そしてヒットスタジオのオープニング名物のメドレー、曲順、選曲、そして

コメント、これを決めるのに、どれだけの時間をついやし疋田さんと

戦かったか、四六中、曲順、メドレーのコメントが頭を離れませんでした。

 

最初の何年かは、塚田先生が私の書いた台本をチェックしてくれました、

「久枝ちゃんの台本の誤字脱字を見つけるのは、面白い」といいながら、

あのちっこい目を、さらに小さくして、私の独創的な誤字探しを楽しんで

くれていました。

先生に台本の誤字脱字をチェックさせた弟子なんて、私くらいだったで

しょう、今思うと…私は幸せものでした!

 

明日は夜のヒットスタジオ編NO3です。