吉田茂 ~三宅久之が語る歴代総理 | 愛妻・納税・墓参り 家族から見た三宅久之回想録

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故三宅久之の三男です
父が綴ったブログ「小言幸兵衛」を支えて頂いた多くの方々へ、
感謝の気持ちを込めて家族が近くで見てきた回想録を
ご紹介してまいります

「父を訪ねる旅」へ、ご一緒いただければ幸いです

長年、政治記者や評論を生業としてきた父は、時の総理大臣を論評する立場にありました。1953年(昭和28年)毎日新聞社入社以降、政治記者から評論家への転身を経て、亡くなる平成24年(201211月)までの間、父が接してきた総理大臣は29人を数えます。


今回は「政界のシーラカンス」を自称した父ならではの総理大臣評やエピソードを著述からご紹介してまいります。




●吉田茂 第五次吉田内閣(1953521日~19541210日)




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毎日新聞社会部と横浜支局での“見習い勤務”を経て、1954年に政治部に配属された父が最初に担当した総理大臣は吉田茂さんとなります。

もっとも、日本の戦後政治史を彩った大物政治家と、ひよっこ記者とでは格が違いすぎました。

父が話すのは大磯の吉田邸にまつわるエピソードです。



昭和29年、最後の吉田内閣の時、まだ駆け出しの記者だった私は仲間と、吉田邸の前にあった粉屋の2階に部屋を借りて、邸宅にどんな人物がやってくるか見張っていたものです。吉田邸は立ち入ることはおろか、近寄ろうものなら、警備から野良犬のような扱いでシッシッと追い払われた。政治家も池田勇人、佐藤栄作などごく限られた人だけで、地方からあがってきた党人派の議員なんてまったく寄せ付けなかった。秘密主義の塊のような屋敷でした。(20094月週刊新潮 昭和史焼失より)



この警備にも舌鋒鋭く迫ります。



当時、吉田の周囲には「院外団」と呼ばれるグループがいました。

自由党お抱えのボディガード集団で、壮士風の、暴力団よりはちょっと品のいい人間が自由党に養われていた。新聞記者が吉田に近づくと、院外団から「シッシ、シッシ」と野良犬を追い払うように駆逐されました。近づけないんですよ。その間、吉田茂は小さい体ながら、悠然と天井を見上げながら、歩いていくわけです。小さい体だけど、やはりすれ違う時に「風圧」を感じましたね。中曽根康弘は、自身が「風圧」を感じたのは、吉田茂と河野一郎だと言っていました。のちに河野一郎は彼の親分になったけれども、保守合同以前、中曽根は改進党という、吉田自由党とは別のところにいた。国会で吉田に論戦を挑んだこともあるんだけど、その「風圧」を感じながら質問していたんでしょうね、

(歴史通 20107月号より)





当時、父は同時に、緒方竹虎副総理番も命じられていました。吉田総理と違い、緒方副総理はあけっぴろげな物腰で接してくれました。


1954年、造船疑惑で揺れる中、吉田総理は指揮権発動により、腹心の佐藤栄作さん逮捕を回避するという事態が起こります。当然のこと、世間の大批判を浴び、野党は不信任決議案を提出、吉田総理は解散で対抗を模索します。

これに猛然と反対したのは緒方副総理。

「総理のやろうとしていることには大義がありません。国民は指揮権発動で怒っている。もしも解散するなら私は国会議員を辞めて郷里に帰ります」と吉田総理に迫りました。結局、同調する議員も出て、総辞職に追い込まれます。

差し違える覚悟で総理と対峙した緒方竹虎副総理は気骨のある政治家であったと、父は語ります。

ちなみに吉田首相が退陣を表明したときは、政治部記者クラブの若い記者からは、万歳三唱の声があがったといいます。



首相退陣後も、政界に隠然たる影響を持っていた吉田さんは大磯にこもります。

後年、終生のライバルであった河野一郎さんは平塚に新築の家を建てました。その家が右翼活動家により焼きうちにあった日、大磯では主が平塚の方角を見ながら、ふと笑っていたという都市伝説のような話も残っています。

当時の父は河野番としての意地、そして平塚には特別な思いがありました。



吉田茂総理と接していたのは、わずかな時期、父が24歳の時です。もちろん父の言葉では、占領下にマッカーサーと互角に渡り合い、日米講和条約をまとめた立役者として一定の評価をしていますが、一方で本音を垣間見ることができます。


その一言は父の面目躍如、激辛です。


「二十代の駆け出し記者から見た吉田茂は、貴族趣味で傲岸不遜がネクタイをしているようなもので、ただの『クソ爺』でした」